鮮やかなレモン色と、守るみたいにそれを包み込む透明のそれが着地した瞬間、アルミ製のボウルがぽわん、とゆるい鳴き声を上げる。続けてもう一つ、それをボウルの中へ。
ボウルの中でゆらゆらしている、レモン色のまん丸。 飼っている鶏が生んでくれた、今朝とれたばかりの新鮮な卵だ。
崩してしまうのがあまりにもったいない。
このままの形の、もっちりとしたクッションとかがほしい。たまごのクッションに身を沈めて、そのままだめになってしまいたい。
しかしながら、これをかっかとかき混ぜなければならない理由が私にはある。いつまでも妄想をしている場合ではないのだ。
仕方なく空想の中でたまご型のクッションを抱きしめながら、菜箸をそれの中央にぷつりと刺した。
菜箸を細かく動かせば、ついさっきまでまるで別人みたいな顔をしていた黄身と白身が、ボウルの中でどんどん一体化していく。その様子を眺めながら、私はもうすぐ遠征から帰ってくるであろう面々のことを思った。
燭台切光忠、太鼓鐘貞宗、鶴丸国永、大倶利伽羅、歌仙兼定、へし切長谷部。
普段率先して、しかもわりとゴキゲンにご飯を作ってくれるメンツが半数を占めている。

さて、窓から差す光は白く、もう昼前。
厨に立ったはいいものの、近頃はとんと料理をする機会が減っていたせいか、どこに何があるのかをパッと思い出せず、いちいち動きが止まる。
ボウルどこだっけ、フライパンどこだっけ? あれ、菜箸置く場所変わってる……てな具合で、とんとん拍子にいかないのが、どうにももどかしい。

この本丸では、ここ数ヶ月で刀剣男士の数がかなり増えた。
戦力なけりゃ勝ちはない。勝ちがなければ仕事にならない。
審神者も一応、国を守るお仕事である。それでおまんま食ってく以上、貰うお金の分の仕事はこなさなければならないのだ。
それで鍛刀を繰り返してみたのだが、人数が増えれば増えるほど、想定外なことが起きた。
そう、自分がやる家事が減っていったのだ。
人数が増える前は、自分も含め何人かで協力しながら本丸内のあれこれを当番制で行っていた。それこそ、私自身が包丁を握って、戦いに出たみんなの帰りを厨で待ちわびていたのだが、気づけば厨は燭台切の城と化していた。
正直、燭台切が作るものは私が作るものより数倍は美味しいし、数倍こだわり抜かれている。いつぞやはうどんを麺から作っていたし、歌仙なんかも出汁から味噌汁を作っていた。私なんか冷凍のうどんを買ってきて醤油みりん豚肉と一緒に耐熱皿にぶち込んでレンジでチンしてすき焼き風うどん〜とか言っていたのに。出汁なんか化学調味料を使って味噌汁を作っていた。化学調味料は意外とみんなにも好評だったので心の中でちょっとほくそ笑んだけども。
そんな具合で、徐々に審神者としての任務に集中できる環境が整っていき、家事全般から手が遠のいていたのだ。

今日、遠征に行ってもらうメンバーを彼らにしたのは、何も久々に家事がやりたかったから追い出した、なんてことはなく、全くの偶然だった。
たまたま家庭的な男たちが出払っているのに気づいたのは、早朝彼らを見送った後、そういえばそろそろお腹が空いた、なんて思い始めた午前11時頃。もうすぐ昼かぁ、お昼は何かな、とぼんやり考えてみて、はたと気づいた。
私よりも、家庭的な意味で腕が立つ連中がいないぞ、と。
それでこうして、今日のご飯当番に内緒でこっそりと厨に忍び込み、多分、おそらく、とびきり美味しく出来る予定のランチの準備をしている。
私には、どうしても久々に食べたいものがあるのだ。

「あるじ?」

ボウルの中で崩れた卵に注がれる牛乳がちゃぷちゃぷと鳴くのに混じって、囁くような小さな声がした。ボウルの中の小さな世界に集中していた私は、一気に現実世界へ引き戻される。
声がしたほうへ目をやると、厨に入ってすぐのところでギャグみたいに目を点にしている鳴狐が立っていた。黒い面具が口元を隠しているせいではっきりとは分からないけれど、きっとその下でポカンと口を開けているに違いない。
そりゃあそうだ。彼は今日のお昼ご飯担当なのだから。

「な、鳴狐」
「おやおやあるじどの、御自ら厨に立たれるとは珍しいこと! しかし今日は鳴狐が昼餉担当のはずでしたが、如何致しましたか?」

弁解するより先に、彼の肩の上に乗っかっているおしゃべりな狐が口を開く。

「ひょっとしてお腹が空きすぎて耐えられずに?」
「いや、ちょっとね、久しぶりに食べたいものがあって、それで勝手に作り始めちゃったんだけど……」

いやしかし、よくよく考えみれば、当番である鳴狐だって、お昼に向けて何を作ろうか考えていたはずだ。頭の中で、冷蔵庫の中身や畑の野菜に思いを巡らせて。
いま自分がしていることが相当身勝手であることに、鳴狐の驚きに満ちた顔を見て今さらながら気づいた。自分の短慮ぶりと急激な申し訳なさに、ごにょごにょと口の中から謝罪の言葉をひねり出した。

「ごめん、勝手に。考えてみたら鳴狐だって色々、メニューとか考えてくれてたよね」
「いや……」
「てりてりと黄金色に輝く稲荷寿司を作る予定でございました」
「狐」

言わなくていいから、とでも言うように、まっすぐ伸ばした人差し指を口元に持っていく鳴狐の、その綺麗に整った眉が八の字になっているのが、またさらに心苦しい。お付きの狐だって、別にこちらを責めている風ではなく事実そのままを述べているだけだが、ひょっとしたら稲荷寿司を楽しみにしていたかもしれないし、狐にも重ねて申し訳ない。

「本っ当にごめん! せめてひと言断り入れるべきだったよね」

ごめんなさい、と改めて、膝に頭が付きそうな勢いで頭を下げる。
自分が食べたかった、というのもあるけど、みんなにも私の好きなものを食べてみてほしい、という思いは確かにあった。あったけれども、それだって、決まった制度を無視して勝手な行動をすれば、完全にこちらの押し付けになってしまう。
最近、部屋で仕事ばかりしていたせいで、そんな簡単なことも忘れてしまったらしい。思い立ったら即行動、なんて、まるでわがままな子供じゃないか。人付き合いの基本のキを忘れかけていた自らのど阿呆っぷりに、今さら腹が立った。
恐る恐る、血が上って重い頭を持ち上げれば、居心地悪そうな感じで頭に手をやる鳴狐と目が合った。

「こっちこそ、ごめん……」
「いやいや! 鳴狐は悪くないよ!」
「でも、配慮が足りなかった」
「う、いや、私が勝手しただけで、鳴狐は何も悪くないんだよ、本当に……」
「でも、あるじにも食べたいものとか、聞けばよかった」
「うう、そんなことは……」
「まあまあ、既に過ぎたこと! 」

まるで舞台俳優のようによく通る狐の声が、沼に沈むみたいにどんどん気まずくなる空気をスパッと両断した。

「ここはあるじどのにお任せしてしまいましょう、鳴狐」
「え、でも」
「あるじどのが今日の昼餉準備部隊の部隊長、鳴狐はその補佐!これで如何ですかな?」

鳴狐の肩の上で、あざとい可愛さを炸裂させながら首をかしげる狐は、まるで刀剣男士の主たる審神者のようだ。いま、この厨において、指揮を執る主は狐。鳴狐と私は戦いに赴く戦士。そう思うと、なんだか笑えてきてしまう。
ひょっとしたら、狐は私よりずっと主としての才能があるかもしれない。

「鳴狐がそれでいいなら、私は嬉しいけど。なんなら今から稲荷寿司に変更してもいいし」
「いや……あるじが作るの、手伝うよ」
「……ホント? いいの?」

押して確認すれば、鳴狐は深く頷いてくれた。やっぱり表情がはっきりとは読み取れないけど、ジャージの袖をたくし上げながらこちらに来てくれる鳴狐の目元は、さっきより柔らかくなっているような気がする。もう、さっきみたいな困った顔はしていないのが分かって、ようやくほっとした。

「何、作ってたの」
「ああ、えっとね、稲荷寿司ではないんだけど、同じような黄金色でね」

ボウルの脇に放り出していた袋を両手でつまんで、そのパッケージを見せる。

「ん……?」
「ホットケーキ。甘くて、ふとんみたいにフワフワで、すごく美味しいんだよ」
「ふとん……」

鳴狐の、綺麗な金色の瞳に、あからさまなほどキラキラと輝きが増していく。

そう、ホットケーキはどんな人も分け隔てなく包み込む、ふとんのような食べ物だ。
出来立てアツアツにバターを乗せれば、溶けてじんわり染み込んで。メープルシロップを一さじ垂らせば、とろけるような甘い香りが湯気と共に立ちのぼる。甘いのが苦手な人は、炒った卵とマヨとハムを乗せたっていい。
何枚も重なったホットケーキの間に挟まるのが夢だったはずの私は、そういえば本丸に来てから一度もホットケーキを食べていない、ということに、最近気がついた。仕事をして、頭を使って、ふと甘いものが食べたくなった時、あのフワフワを思い出したのだ。
ここに来たばかりの頃、まだ彼らのことを何も知らなかった私は、男性陣には白米肉時々野菜、という謎の固定概念に囚われていて、ホットケーキを作ろうなどと、夢にも思わなかった。別に女だけの食べ物ではないことは、頭では分かっていても、なんとなくメニューから除外していたのだ。
しかし、それなりの時を彼らと過ごしてきて、分かったことがあった。
彼らは、意外と新しいものを拒まない。むしろ好奇心が強く、新鮮な出会いを喜んでくれる。もちろん、みんながみんなそうとは言えないけれど、長くこの世を見、流れる時間や人を眺めてきた彼らは、たくさん失くした分、新たに何かを知っていきたいのかもしれないと、そう思った。そんなのは私の勝手な推測だけれど、それでもやっぱり、新しいものに出会った時の、彼らのキラキラした顔が、私は好きなんだ。
だから、私は今日、思い立ったが吉日で暴走をした。けれどもう二度と、鳴狐にあんな困った顔はさせないようにしようと心の中でこっそり誓う。今日はごめんね、鳴狐。せめて美味しいものを作ろうね。

「はい、じゃあこの粉をボウルに入れてください鳴狐さん」
「おお! あるじどのと鳴狐の三分くっきんぐですな!」
「そうそう、狐は何でも知ってるねぇ」
「ええ、ええ! 鳴狐を支える私めは日夜努力努力の日々、知識を蓄えております故」
「テレビ見てるだけでしょ」

よく回る狐の口に、鳴狐がたまにツッコみを入れるのを聞きながら、菜箸を泡立て器に持ち替えて、ボウルの中に入ったホットケーキミックスを卵液と混ぜ合わせる。ダマが無くなったら、ホットケーキミックスという文明開花の最高峰のような存在に助けられながら、あっという間に生地の完成だ。

「さ、あとはフライパンで焼くだけ!」
「これを焼くの?」
「そう、きつね色にね」
「きつね色」

言いながら、鳴狐は細い指を狐の形にしてみせ、小さく笑いをこぼした。
鳴狐は、私にとっては四振り目の刀剣男士で、それなりに付き合いは長い。ここまでお話してくれるようになるまでの道のりは相当険しいものだった。何せ話好きの御付きが常にそば近く離れないので、鳴狐の言葉を聞くのは良くて一ヶ月に数回。一日のうち、姿は見ても聞こえてくるのは狐の高く通る声のみだったり。
今こうして、鳴狐が自分の口で、自分の思いを声にしてくれているのも、一緒に過ごしてきた時間と、積み重ねてきた信頼のおかげなのだ。
もちろん、私も鳴狐を信頼している。戦場における鳴狐の働きも、本丸にいる鳴狐のことも。手慣れた様子で吊り棚からサラダ油を取ってきてくれた鳴狐は、いかにも頼もしいではないか。
受け取った油を熱したフライパンにひき、生地を流し入れれば、とろりとした生地は熱さに驚いたみたいにじゅわりと鳴き声をあげた。
生地の縁のあたりから、次第にぷつぷつと穴が開いていく。焼けてきた証拠だ。フライ返しをそっと差し入れ、ひょいと裏返せば、綺麗なきつね色がお目見えする。

「おお! 私の毛の色のようで御座います!」
「まさにきつね色だよねぇ、私もこの色、大好きだよ」
「鳴狐も、この色は好きだ」
「そうなんだ?」

うん、と小さく頷いて、フライパンを覗き込んでいた鳴狐はどこか遠くに思いを馳せるみたいに、顔を上げた。

「狐の毛色、つやつやしたお揚げの色、豊かに輝く小麦の色」

穏やかな調べをなぞるみたいな、歌うような声だ。ホットケーキが焼ける音と、鳴狐の耳障りの良い声に耳を撫でられるのが、とても心地よい。鳴狐の肩の上で、狐のしっぽがゆっくり揺れる。

「黄金色は、幸せの色だから」
「幸せの色、かぁ」

確かに、鳴狐の言う通りだ。
狐の柔らかな毛は美しく、時には人を惑わすけれど、惑わされてなんぼ、ふわりとした毛は触れればまどろみたくなる。つややかなお揚げは幸せの味がして、色づいた小麦が隙間なく実るさまは、豊かさの証である。
フライ返しでホットケーキを掬い上げれば、裏も表も幸せの色に焼けている。

「鳴狐の好きな色、覚えておくね」

鳴狐が出してくれたお皿の上に、本日第一号のホットケーキを乗せる。この上に、今から焼けるホットケーキがどんどん積み重なっていく。それは確かに、幸せなことに思えた。

「あるじは、これが好きなんだ」
「ホットケーキ? うん、好きだよ!」
「そう。じゃあ、覚えておくよ」

あるじが好きなものは、鳴狐も好きだ。

鳴狐は、手で形づくった狐をこちらに向け、それに喋らせるみたいにして、自分は顔を背けてしまった。短い銀色の髪と、ほんのり赤みがかっている小さな耳がいかにも素直で可愛らしく、ちょっとだけ笑ってしまった。狐が鳴狐を子どものように扱うのも、少し分かるようなきがする。

「今度は鳴狐が作ったホットケーキ、食べさせてね」
「うん」

弾んだような声色に嬉しくなって、ここにいるみんなの幸せを思った。
なのに、遠征から帰ってきたみんなも揃って、さぁ昼餉だとホットケーキを出したらバター派とメープルシロップ派で軽く諍いが起きたのは、誠に遺憾である。
鳴狐と顔を見合わせて、こっそりため息をついて、ちょっとだけ笑った。


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