※現パロ

口の中に残る甘ったるい匂いと、麹特有のつぶつぶした異物感に、手にしたそれをさっそく後悔した。

明日にも年明けを迎えようという今日、だだっ広い河川敷には夜も7時を回ろうというのに人が溢れかえり、皆幸せそうな顔をして、つれ合いと身を寄せ合っていた。
一方で、堤防の上にはほとんど隙間なくびっしりと三脚が並び立てられ、大砲のようなカメラを星屑光る夜空へ向け構えた老若男女が、その時を今か今かと待っている。暗闇の中でどデカイレンズ完全装備のカメラを光らせる様は、完全に獲物を狙う狩人のそれだ。
いかにも地元のイベント感溢れる白いテントの下で、甘酒やらビールやら熱燗やらを売っているおじさんたちも、それを買っていって空を見上げるお客さんたちも、堤防で空へカメラを構える人たちも。
みんな、目的はただ一つだ。



立花先輩に突然呼び出された私は今、先輩の地元に訪れている。
帰省していた実家から電車で30分、バスでさらに30分という断るのにも微妙な距離が災いし、いかにも人の都合など知らん顔な声で「ヨシ、来られない距離ではないな」などと言って、あの人はほとんど一方的に電話を切り、メールで待ち合わせ場所と時間の指定までしてきたのだ。先輩が卒業して以来、稀に連絡は来ていたが、最近はめっきり途絶えていた。久々に連絡がきたと思ったらこれである。
挙句、来てみても姿が見当たらないのだからとんでもない。
寒さを紛らわすために特別好きでもない甘酒を買ってみたものの、冷えた手に包まれ続けていたそれは既に無情なほど冷え切っていた。白く濁った甘酒の中を泳ぐ麹をぼんやり見つめ、私は3年前に卒業した先輩、立花仙蔵という人について思い返してみた。

立花先輩は、冗談抜きで私の通う大学の理学部「期待の星」だった。これは先輩の抜きん出た知力に加えてゼミ内での活躍、先生への振る舞い等々が立花仙蔵という人間を「期待の星」に仕立て上げたのだが、しかし意外に茶目っ気がある人だと知っているのは、近しい極一部の人間だけである。
何を考えているかよく分からない、とよく言われていたが、それなりに可愛がってもらった後輩である私でもちょっとよく分からないところがある。
気難しい人に見えて、ふとした瞬間に見せる笑顔は弾けるようで、けれどひとたびキレれば怒髪天を衝く勢いで怒鳴り散らしたりして。私も一度重要な単位を落としそうになったとき、プリプリ怒りながら助けてくれた先輩のお世話になったものだ。
そんな、案外後輩の面倒見がいい先輩が斜め上な進路を口にしたのは、先輩が四年生に上がる前の、ちょうどこんな寒い冬の日のことだった。

「花火師を目指す」

卒業を見据えての就職活動が始まる折の先輩の発言に、教授たちは口を揃えてみな「よせ、止めろ」と慌てふためいた。
何故なら教授たちの間ではすでに「立花仙蔵争奪戦」が繰り広げられていたからである。
後になって聞いたことだが、先輩に自分の助手になってほしい准教授、先輩を自分の伝手で面倒見る気満々だった教授、学校に残って院生として「学生とはかくあるべき」という手本になってほしい学長とで侃侃諤諤あったらしい。居酒屋でバイトしていた友達が、飲み屋で彼らが管を巻きながらそんな三つ巴を繰り広げていたのを聞いたのだと吹聴していた。
どこまで本当かは分からない冗談のような話だが、立花先輩ならあり得るかもと納得しそうになるのもまた、立花先輩たる所以なのだろう。
結局そんな、大人の都合という名のひと声ふた声で立ち止まる先輩ではなく、地元近くの煙火店に就職し、先輩は花火師への道を一歩踏み出した。
私も、先輩が火薬を扱う上で必要となる火薬取扱ナントカとかいう資格の勉強をしているのを見たことがあった。だからといって、まさか花火師になろうとしているだなんて思いもしなかったのだが。

今日、私がなぜここへ呼ばれたのかも、何となく分かっている。多分、先輩はご自分の仕事を見せてくれようとしていらっしゃるのだ。
ここで開かれるのは、もう目の前に迫った新年をどーんとめでたくお迎えするための花火大会なのだ。花火大会といっても規模は小さいもので、しかし地元で長く愛され続けているイベントらしい。この寒い中、会場いっぱいに人が集まっているのが何よりの証拠だろう。
冬に花火というのも珍しい気がしたが、先輩曰く冬の花火のほうが夏より美しく見えるらしい。「星だって、夏より冬のほうが美しくはっきりと見えるだろう? それと同じだ」とおっしゃっていたのが、先輩が卒業される前の年の冬。卒業前、先輩が教えてくれた花火についてのあれこれを、私はまだ一つ一つ鮮明に覚えている。

冬の外気はピンと張り詰めていて、混じり気の一つもなく澄み切っている。流れ出した花火大会開始のアナウンスも、心なしかクッキリとして聞こえた。
って、あれ、もう始まるのか。先輩に会えていないのに。
連絡を取ることをほとんど諦めかけ、しまい込んでいた携帯を再び取り出そうとカバンを漁った。

ひゅう、と、夜空を切るような音に、自然と顔が上がる。

鼓膜を鈍く揺らすような破裂音と共に空に咲いたのは、銀色の花。一瞬、大輪の花を咲かせたかと思うと、花びらがしな垂れるように、星が降るように姿を変え、冷たい風にかき消えていった。
一発だけ、一色だけの、花火にしては珍しくシンプルなものだ。花火大会、なんて陽気な雰囲気とは似つかわしくないとも言えるほど、ある種の厳かさすら感じさせる。

「銀色……って、きれい……」

一人なのに、思わず出てしまった声を押し戻すみたいに両手で口を塞いだ。しかし、口をついて出たひとりごとなんて、周りの人たちの耳には少しも入っていないようだ。右を見ても、左を見ても、誰も彼もが空を見上げている。次咲く花を待っている。
そんな人々の期待に応えるみたいに、間を置かず次の花火が打ち上がる。
今度は淡い桜色の小振りな花が、次々に咲き乱れる。冬の夜空に、本物の桜の花が咲いたかのような華やかさで、咲いては消えゆく桜色の光は散っていく花びらを思わせた。やはり桜を意識した花火だったのだろうか、一瞬のうちに春が来たようだ。
少し間を置いて、次々に花火が打ち上がっていく。青や緑、中にはパステルカラーの鮮やかなものもあった。
この中に、先輩が作った花火があるのだろうか。

何でも知っていた立花先輩。指の綺麗な立花先輩。何かに集中すると伏し目がちになる、立花先輩。
今、先輩はその知識を活かし、綺麗だった指先や爪の間を汚しながら、伏した目で、あの空を彩る花々を作り出しているのだろうか。
それは多分、私が知らない立花先輩の姿だ。思い描けばバッチリと絵になるが、しかしその姿を私は知らない、見たことがない。
先輩は、卒業してからずっと、私の知らない生活をして、私の知らない世界で生きているのだ。
そんな当たり前の事実に胸が苦しくなるのは、私が今の今までズルズル引きずり続けてきた先輩への気持ちのせいだ。

「先輩はすごい」

特別大きな大輪の花が開く音に、空しいひとりごとがかき消される。

「立花先輩」

絶え間なく続く開花の音や、そのたび上がる歓声が、私の声を掻き消していく。
誰にも聞かれず霧散する言葉たちに苦笑して、しかし私は次々に花が咲き乱れる夜空からひと時も目を離せずに、持て余した甘酒もほったらかして、ただ一人だけを想った。



「まぁそう怒るな」
「別に怒ってはないんですけども怒るなと言うということは怒らせるようなことをしたと思ってらっしゃるんですかね」
「お前がそう饒舌になる時はだいたい怒っている時だろう」

絶え間なく花火が上がり続ける、クライマックスのスターマインが終わった後、花火大会終了のアナウンスが流れた。堤防の上のカメラマン部隊や来場客がゾロゾロと帰っていき、甘酒を配っていたテントもきっちり撤収を終えた頃、先輩はようやくガランとした河川敷の真ん中に佇む私のもとにやってきた。

「いや、本当にすまないと思っている」
「分かってますよ、片付けとか大変そうでしたもん」
「まだまだ下っぱだからな、最後まできっちりやり通さなくては後々面倒なんだ」

目の前には、意外と本当にすまなそうにしながら缶のコーンスープを差し出す立花先輩。先輩が勤めているらしい煙火店の、名入りの法被が意外に似合っていて、ちょっと驚いた。
さっきまで先輩が着ている法被と同じものを着た花火師らしき人たちが、撤収作業であっちへ行ったりこっちへ行ったりしていたのを見ていたし、私は本当に怒ってはいないのだが。いやまぁ、呼び出しといてこの人は……とは思ったけども。
ありがとうございます、と缶を受け取ると、缶を手にしたそばから温もりが体中に広がっていくような心地がした。

「これ買ったんですけど、もう冷え冷えで。先輩いりますか?」
「お、じゃあもらおうか」

すっかり冷たくなった甘酒の余りを冗談半分で差し出したのだが、あっさりと自然に受け取られてしまって、自分で渡しておきながらバツが悪くなった。年が明けようという真冬の夜空の下で、躊躇なくひえひえな甘酒を飲み干した先輩は、よほど喉が乾いていたのか、非常に満足げだ。

「綺麗でした、冬の花火」
「そうだろう。気に入ったなら良かった」
「一発目の銀色っぽいやつ、すごい綺麗でしたね」
「あれはな、鎮魂のための花火なんだ」

先輩の言葉の意味を図りかねていると、頭上のクエスチョンマークを見通したみたいな説明をしてくれた。

「魂を鎮めるための花火だ」
「え、誰の?」
「戦国の時代にな、ちょうどこの河川敷のあたりで合戦があったらしい。ここら一帯を治めていた、地元ではまあまあ有名な武将が起こした戦らしくてな、その合戦で命を落とした彼らへの追悼の意味を込めて、毎年一発目はあの銀菊と決まっているんだ」
「へえー、今日のは先輩が作ったんですか?」
「まさか。まだ2年目のヒヨッコがそんな大事なもの作れるか」

私なんかまだまだだ、という言葉は自嘲でも謙遜でもない、心からの、夢に追い縋るような必死さすら感じるような言葉だった。何をするにも飄々とこなしていた先輩が、こんな表情を見せる日が来ようとは。

「先輩は……どうして花火師を目指そう、なんて思ったんですか?」

先輩なら、こんなに苦労しなくても、いくらでも道はあったはずだ。単純に疑問に思った。何でも出来た先輩が、何故この道を選んだのか。そこまでこの人を惹きつけるものは、花火師という仕事のどこにあるのか。
失礼とも取れそうな、私の生意気な問いに、立花先輩は少し考える素振りをした後、両手で輪っかを作った。サッカーボールより少し小さいくらいの大きさだ。

「何ですか、それ」
「花火の玉の大きさだ」
「へ!?こんな小さいの……」
「7号玉でこんなものかな」

イタズラ好きな子どもみたいな表情で笑う立花先輩は、随分と静かになった空を見上げた。

「この程度の大きさの玉っころが、だだっ広い夜の空に大輪の花を咲かせるんだぞ」

ロマンがあるとは思わないか。
そう言って、先輩は私に微笑みかける。

先輩の無邪気な表情に、何となく気づかされた。
私は、花火に嫉妬していたのかもしれない。馬鹿馬鹿しくて、他人には絶対に言えないけど、先輩にこんな顔をさせるものへ、恥ずかしいくらいに妬いていた。
だって、ずっと離れていたんだ。
先輩が卒業してから、携帯で連絡を取ったりはしていたけど、それもたまにしかなかった。先輩が忙しいのも分かっていたけど、それも仕事にかかりきりなせいだ。そんなにも忙しくしている先輩に会いに行くこともどこか憚られて、久しぶりに会いに来たら、結局一緒に花火を見ることもできず。付き合ってもいない私がとやかく言えた義理じゃないが、やっぱりちょっと悔しかった。

それでもやっぱり私は、この人が好きだ。
頭は切れるくせに、「ロマンがあるから」なんていう理由で自分の焦がれた場所へ飛び込んでいってしまう、この人が。

「先輩、また来年も見に来ていいですか?」
「ああ、夏にはもっと大きい花火大会もある。たくさん見たいならそれに……」
「花火も見たいんですけど、やっぱり先輩に会いに来たいです」

顔に熱が集中しているのが分かる。暗がりの中だが、赤くなっているであろう顔を先輩に見られないよう、わざとらしく空を見上げてみた。先輩は笑い混じりの愉しげな声で、そうか、と小さく溢した。

「年越しラーメンでも食べに行くか。奢ってやろう」
「えっ、ホントですか!?」
「ああ、何でも好きなの頼んでいいぞ」
「やった!いただきます!」

喜んではみたものの、はたと気づく。これはひょっとして、まだ可愛い後輩の域から脱していないのでは?

いや、まだ、これからだ。今まで行動に示さなかった分を取り返すためには、まだまだ時間も根気も必要だということだ。先輩のそばにいける日は、きっとまだまだ遠い。
いつか、好きなことに全力な先輩の隣で素直に笑える日が来るまで、私は花咲く夜空を見上げながら、先輩を想い続けよう。