※現パロ

日が暮れてまだ間もない時分から、すでに顔を真っ赤にしている人々を押しのけながら店員の背中を追いかけた。赤いハイビスカス柄のアロハシャツを着た無表情の店員は、混み合った店内をまるで忍者のようにすり抜けていく。足がもつれた酔っ払いを避けるのに精一杯なこちらを見向きもしないので、彼を見失わないよう必死で全神経を研ぎ澄ませた。
人波をかいくぐり、ようやく道が拓けて、彼女が座る二人用の小さいテーブル席が目の前に現れる。彼女の手元にあるビールジョッキは汗をかいていて、量も半分以上は減っている。狭いテーブルに置かれた枝豆も同様で、白い皿に乗っただし巻き卵はすっかり冷めているのだろう。
当然だ。僕はもう、待ち合わせの時間から1時間以上遅れている。

「待たせてしまってすまない」
「いえ、大丈夫ですよ」

仕事を早上がりする予定が狂い大遅刻をかました僕を案外ケロリとして迎えた彼女は、僕にペラペラのドリンクメニューを手渡した。一応目を通したが、なんとなく彼女と同じものを頼んだ。注文を受けた店員は無愛想ながらきちんと注文を繰り返して、僕らの座るテーブル席から去っていった。

「たまご食べます?お腹すいたんじゃないですか?」
「ああ、貰おうか」
「私もう半分頂いたので、これ全部食べちゃってください。なかなか美味しかったですよ」
「そうか、ありがとう」

しかし、この多国籍料理を銘打った、雑居ビルの屋上の、ビアガーデンとも言い難い雰囲気の居酒屋で更に日本のだし巻き卵を食べることになろうとは。
訳が分からなくなりながらも添えられた大根おろしと一緒に口に運ぶと、思いのほか濃口のたまごと大根おろしがよく合っている。彼女の言う通り、なかなか美味しい。期待していなかった分と、空腹というスパイスを抜きにしても、だ。
思えば僕がこんな雰囲気の店に来るようになったのは、彼女と一緒になってからだ。今日だって彼女に「話がある」と呼び出されてここにいる。一人では来ようとも思わなかったし、そもそも選択肢にすら入らない。ハワイアンなのかアジアンなのか、はたまたアメリカンなのか。テイストが曖昧で雑多な景色の中、頭上に広がる月夜の空だけが嘘みたいに美しい。
ついさっき僕を案内していた店員が、ビールジョッキを片手に寄ってくる。ジョッキを受け取り、テーブルにそっと置いた。疲れているのか、ビールがなみなみ注がれたそれがやけに重く感じる。

「それでなまえくん、話というのは」
「ああ、そうでした。あ、その前に。すみません、タンドリーチキンとシーザーサラダとエビチリとチョリソーと、あとカリフォルニアロールを一皿ずつ、お願いします」

さっさと立ち去ろうとした店員を呼び止め、呪文のように横文字メニューを注文をしていく彼女に不安を覚えた。

「……重くないか」
「そうですか?食べられないですか?」
「いや、まぁ構わないが」

彼女がきちんと全部平らげるというなら気にはしない。もともと食事を残すことを、なまえくんはあまりしない。それをよく分かっているので、これ以上とやかくはこれ以上とやかく言う必要はあるまい。

「それで、お話なんですけど」
「ああ、何だい」
「私と別れてください」

さっき、だし巻き卵を差し出して、これ全部食べちゃってくださいと言ったのと、ほとんど同じトーンだった。周りの客が覆い被せるように下品な大声で笑い出したので、状況を慮れば聞き間違いの可能性もある。

「いま何と言った?」
「ごめんなさい、もう一緒にはいられません」

頭を下げて、謝罪の言葉と共に終わりの宣告をする彼女の顔が見えない。
この女は、何を言っている。



この女は、何を言っている。
初めて会ったその日にも同じようなことを考えた。

「イヤ、私もしたくないんですよ、結婚」

乾いた笑いをこぼしながら言い放った女。
伊東家の体裁を保つための見合い相手としてやってきたのが、みょうじなまえという女だった。

そもそもは、多分こちらが角を立てた。彼女は互いの両親が席を外し、部屋に二人きり残された後の僕が並べる体のいい言葉を「伊東さんって、ひょっとして結婚したくない人なんじゃないですか?」と遮った。

「は?」
「いや、だって心にもないこと、上辺だけの会話、女を見下した物言い、隠せてないですよ」

呆れたような、いや笑ってもいる。複雑な感情が入り交じったような顔をしていながら、随分率直に物を言う。下がった眉と、引き攣りながら中途半端に上がっている口角。

「まあでもちょうどいいです」

それで、自分は別に結婚したいわけではないが見合い見合いとうるさい親に厭気がさして仕方なくここに来たこと、恋愛も面倒だということ、結婚するなら仮面夫婦として過ごす契約結婚がいいということ。それら、僕や彼女の両親が聞けば卒倒しそうなことをツラツラと、まるで愚痴るみたいに吐き出した。
彼女が何を思って出会ったばかりの僕にそんな話をしたのかは、何となく察しがついた。
彼女は、僕が同類だということに気づいていたのだろう。だからこそ、自分がこれからする提案の前置きとして、馬鹿も驚くほど正直に胸の内を吐露した。

「だから、私が伊東さんと結婚するとしたらそういうことなんですけど、伊東さんはどうですか?」

そういうこと、というのは契約結婚のことだろう。
私生活で全く関わりのない、初対面の僕に断られたってダメージにはならない。同族の僕が受け入れれば彼女にとってはプラスに働く。
つまり彼女はノーリスクの賭けを、僕で、していたのだ。
目の前に座っている彼女は、ある程度自分の中に溜まっていたフラストレーションが解消されたのか、心なしかファーストコンタクトよりは晴れやかな顔をしていた。
表か裏か、賭けられ投げられたコインのような僕の身にもなれ。



それで、彼女は賭けに勝って安定した生活プラス親の圧からの解放を手に入れた。僕としても願ってもない話だったので、乗ったまでの話だ。僕も家で追い立てられるようにあれこれ言われるのは辟易していた。見知らぬ女と二人で会い話すのも、いい加減飽きていたところだったのだ。
もともと在宅で仕事をしていた彼女は働きながら家事をして、二人で住むマンションの家賃や光熱費は僕が負担。僕としても、家に帰ればバランスの良い食事が取れるのは気持ちが良かったし、生活力があるとは言い難い僕の足りない部分を補ってくれる彼女の存在は有り難かった。暮らしを共にすれば嫌でも生じるちょっとした私生活の時間で、満月が黄金色だと言う僕に彼女はレモン色だと言い反発してくるようなこともあるが、実生活に不満はなかった。
はずだった。
バランスの良い生活をしてきたつもりだ。だというのに。

「何が不満なんだ」
「不満は……そんなに無いです」
「じゃあ何だ、好きな男でも出来たのかい」

彼女は何か言いかけて、けれどすぐに口を閉じた。真一文字に結んだ口は、そう簡単には開きそうにない。
図星、ということだろうか。

「恋などしないと嘯いていた君がね。良かったな、おめでたいことじゃないか」

発する言葉の端々に棘が出来ているのが分かる。心中で波立つ苛立ちがそのまま彼女を飲み込むような、言葉の大波になっていく。飲まれた彼女は、ただただテーブルの上で握りしめている拳に視線を落としていた。
僕らの座るテーブルだけが、ごちゃついた店内から切り離された別世界のようだ。学生らしき若く甲高い笑い声、明らかに店員を舐めている注文の声、咽せたようなざらついた咳。なんてうるさいんだ。
重くなった空気を察したみたいに、さっきの無愛想な店員とは違う、無駄に明るい店員がシーザーサラダを持ってやってきた。カタコトが陽気さに拍車をかけていて、今ばかりはさっきの無愛想な店員に来てほしかったと思わざるを得ない。無駄な明るさが、今は苦しい。
店員が去るのを待って、彼女が重たい口を開く。

「何も言えません」
「そうだろうね、僕にあんな条件をフッかけた手前、何か言えるはずがない」
「すいません、明日あたりすぐにでも出ていきます。顔は見ないようにします」

財布から出した一万円札をテーブルの上に置こうとする彼女を、軽蔑するように睨みつければ、萎縮しながらじゃあこっちで…と五千円札を置いていこうとする。こんな時にふざけるなと大声を出してしまいそうな自分が惨めで、必死でそれを飲み込んだ。

「お会計はお願いします……料理まだ来てないもの、全部食べちゃっていいですから」
「言われずともそうする。金は出さなくていい、君の金で飲み食いなどしたくないからね」

早く行けばいい。勝手にすればいい。
彼女に早く、目の前から消えてほしい。

「最後にこれだけ」
「何だ」
「好きです」

ごめんなさい、と頭を深々と下げ、ヒールを鳴らしながら走り去ろうとする彼女の腕を咄嗟に掴んだ。

「なんて?」
「ごめんなさい」
「その前」
「好きです」
「……なんて?」
「ごめんなさい、もう行きます」
「いや待て。待ちたまえ」
「ハイタンドリーチキンオマタセ!」

明らかに取り込み中のところにズカズカと入り込んできた陽気な店員が持ってきたのは、メニュー表の写真より明らかに盛りに盛られた赤々としたチキンの山である。鼻をつくスパイスの香りに軽く目眩がした。

「見ろ。こんなものを一人で食べるのは地獄だ。座りたまえ」
「私は席に戻るほうが地獄なんですが……」
「頼んだのは君だ。責任を取るのが筋というものではないのかい」

正論を突きつければ、彼女はぐっと押し黙り、渋々といった感じに肩を落とし、元いた席に腰を下ろした。

「君が好きなのは誰なんだ」
「いや、じゃあもう言っちゃいますけど鴨太郎さんです。ごめんなさい」

開き直ったような、投げやりな物言いが癪だが、深くは突っ込むまい。

「何故謝る」
「初対面であんなこと言ったくせに、言った本人を好きになるって……申し訳なくて。なんかもう、あまりにも惨めで弱くて可哀想で大嫌いじゃないですか、私……」
「それで好きな人にさよならという訳か。随分洒落た真似をする」
「邦楽聴いてるんだ、意外ですね……」

力なく笑う彼女は、席に戻ってから一度も僕のほうを見ない。笑いを堪えているこちらとしては好都合だが、こうしてばかりいては話が進まない。

「君は馬鹿だね」
「そうですね……ごめんなさい」
「もういい、謝られるのは御免だ」
「すいませ……」
「顔を上げたまえ」
「ごめんなさい」
「こちらを見ろ」
「無理です」
「お互いに同じように惨めかもしれないという可能性を推し量れないなんて、馬鹿だね、君は」
「…………ん?」

困惑しながらも顔を上げた彼女の、うっすら濡れた瞳と視線がかち合う。泣きそうなのか、無理もない。
仕方ないな、と少し上気し赤くなっている頬を指先でそっとなぞり、そのまま乱れた前髪を軽く横に流してやる。
呆気にとられたように、ポカンと間の抜けた顔をする彼女の目の前へ、タンドリーチキンの山を差し出す。

「まずは食べよう。話はそれからだ」

これからのことについて語る夜はきっと長い。腹が減っては話は出来まい。
レモン色の月が滲んだ夜のことだった。


title by さよならの惑星