ぱたり、と頬に一滴。小さな一粒を皮切りに、雨は空高くから勢いをつけて、地上に降り注いできた。

「当たりだ」

人一人見当たらぬ、ほとんど獣道のような狭い道で独り言ちた。
しかし、想像を軽々と超えるほど重みのある一粒一粒は、体を刺すようである。乾いた砂地が雨で滲み、草履の底も泥ですぐに重たくなった。道脇に生い茂る木々の葉を乱暴に叩く雨音が痛々しくもある。雨を読み、追いかけてきたものの、さすがにその勢いまでは読むことが出来ない。とはいえ旅に出たあの日から、こういうのはいつものこと、である。
気づけば目深になっていた笠を手で押し上げ、空を見上げる。水分をどっぷりと抱えた重たげな雲を見るに、すぐ止む雨ではないとみた。山を降りた後だったのは不幸中の幸いと言えたが、地図を取り出して近くの村までの距離を確認も出来ない。
さぁどうしたものかととりあえず足を進めていくと、ほど近くに洞穴らしきものが目に入った。とりあえず雨足が弱まるまでは、あそこで一息入れるとしよう。何なら夜も越せそうだ。
足元の重たい泥を踏みしめ、虹郎は笠を深く被り直した。



「雷まで鳴ってきやがった」

背から下ろした甕にもたれかかり、ため息交じりに呟いたが、でかい雨音に掻き消され、低い声は霧散した。
洞の中にいるせいか、雷鳴がやけに響いて聞こえる。轟く音と光に、あまり間がない。おそらく、近いのだろう。
ふと、悲鳴のような音が聞こえた。はっとして、目を細め辺りを見回すが、強い雨のせいで視界は霞み、人の姿は見えない。人通りの少ない道だったはずだが、自分と同じ旅の者か。自分はすぐ逃げ込めた分、運が良かった。気の毒だ、と他人事のように思いながら、しばらく外の様子を伺っていると、ザカザカと乱暴に草を蹴るような足音が近づいてくるのが聞こえた。

地を這うような低い雷鳴が響き続けていた。
それがふっと止み、稲光が走ったほんの一瞬、辺りはよく晴れた夏の昼間のように明るくなった。雷光が、世界を照らしたのだ。
その刹那、こちらへ駆けてくる人の影が、はっきり浮かび上がった。今にも泣き出しそうな、あまりに情けない顔。

女だ。

あ、と思った瞬間、天も地も、空をも引き裂くような音が耳を劈いて、思わず両目を強く瞑る。
とびきりデカイのが、近くに落ちたのだ。

「うわああっ!!」

ほとんど滑り込むようにして、そいつは雨音を裂くような、雷にも負けない悲鳴を上げながら洞穴に飛び込んできた。呆気にとられる虹郎のほうを見向きもせず、伏せたまま、ぜえぜえと喉が切れそうな呼吸を繰り返している。横目で見るばかりではあまりに薄情な気がして、雨に負けないよう声を上げた。

「おい、あんた。大丈夫か」
「えっ、うわあっ」

善意で声をかけたはずが飛び退かれたのは些か納得いかないが、しかし女はすぐにこくこくと頷き、深く息を吸った。

「すいません、人がいらっしゃるの気づかなくって…」
「いや、急に声かけて悪かったな」
「ごめんなさい、私も慌てていたもので…」

本当にすみません、と頭を下げ、女は細く息を吐いた。雨粒で重たげな笠を外し、身に纏っていた蓑をぱっと広げる。蓑の上に腰を下ろした女は、取り出した手ぬぐいで顔中に滴っている雨水を拭った。
一連の動作はいちいちきっちりしている。雑な感じがないな、と適当なことを思った。

「旅の方ですか?」

急にこちらを向いた、やけに明るい瞳にちょっとだけ驚きつつ、虹郎は目を逸らしながら、もう開ける予定のなかった口を開いた。

「ああ、まあ」
「大きい甕ですね、背負って歩かれてるんですか?」
「ああ」
「大変ですねぇ…あ、私みょうじなまえと言います。すみません、しばらく雨宿りさせて頂いてもいいですか?」

まるで店の軒下で雨宿りをする許可を取るような口振りではないか。みょうじなまえと名乗る女のほうを見ると、あまりに大真面目な顔をしている。

「俺ぁ別に、ここの主でも何でもねぇただの通りすがりだ、いいも悪いもないさ」
「あ、そうですよね……ごもっともです」

笑い交じりに答えれば、なまえもつられたように破顔した。改めてお邪魔します、と頭を下げた瞬間、再び空に稲光が走った。なまえは雷が恐ろしいのか、いちいち肩を弾ませ、そろそろと空を見上げる。

「あんた、この近くの者か?」
「えっ? ああ、いえ。私は一人で、その……旅をしています」
「旅?」
「はい」
「そんな小胆で旅なんぞ続けられるのか」

思ったことが何気なく、そのままぽろりと口からこぼれ出たが、なまえは返す言葉を見失ったように目線を下げていく。頼りなさげな薄い肩も静かに下がっていく様には、さすがにバツが悪くなった。咄嗟に口を閉じてはみたが、時はすでに取り返せない場所にある。
何か、言ったほうがいいのだろうか。
雷一つで大袈裟なほど肩を震わせる様に、つい口を滑らせた。近頃は商人以外と言葉を交わすこともほぼなく、言葉選びというものがおそろしく不用意になっていたようだ。
自分より年下であろう女を精神的にいたぶる趣味は、別にない。これ以上余計なことは言わないほうが懸命な気がした。
外は大雨と雷が降り注ぎ、逃げ場がないに等しい。おまけに閉鎖的な洞の中でまでこれ以上重苦しい空気になるなど、耐えられなかった。もう何も言うまい、という虚しい気合いを入れて、口をしっかりと結んだ。

「私、まだ帰れないんです」

しかし沈黙を破ったのは、どうしてか女のほうだった。雨音に少しも負けない、意志のある声につられて呆気なく結びを解いた口が、ぽかんと開いてしまった。

「は?」
「探しているものがあって……」
「探し物?」
「はい、どうしてもやりたいことがあるんです」
「やりたいこと?」

いちいち鸚鵡返しになるのが煩わしく、つい前のめりになった。探しているものがある、というのは、自分の旅の目的と近しいものがある。だから、自分でも気づかぬうちに、虹郎は体ごとなまえのほうを向いていた。

「ええ、その……笑わないで頂けますか?」

自分の旅の理由をさんざ笑い物にされてきたのだから、他人の旅の理由を笑える筋合いはない。ああ、と頷けば、なまえは息を吐いてから口を開いた。

「空から降りてくるという、星の屑を探しているんです」
「星の屑……」
「はい、今はとりあえず、ですが…」

どことなく含みのある言いように引っかかりながら、依然勢いの衰えない雨音に負けないよう、話を続けた。

「流星とは違うのか」
「はい、流星は空を翔けるばかりですが、私が探しているのは地上に雨が降るように、綺羅星が降るような…そんな光景なんです」
「星が降る……流星の多いのを、そんな風に比喩することもあるみたいだがな」
「馬鹿みたい、ですよね……」

半笑いでこぼしたそれは、自虐的に発した言葉だったが、それは虹郎にも刺さる言葉だった。
母からでさえも頭がイカれたと言われた父。そんな父が周りから妄言だと散々笑われた話を信じ、追いかける自分。そして、雨のように降る星を探す女。
馬鹿みたいだという言葉は、虹郎自身、心中何度も反芻しては揉み消していた。自身の行動を笑えばそれは、父を笑うのと同じだった。村の連中がしてきたことと同様のそれをしたくはなかったし、何より、雨が止み虹がかかれば何もかも忘れ、ただ足を動かせば生きていられた。自身の、他人からすれば馬鹿みたいな行為に、自分は今生かされているのだ。

「あんたは何だって、そんなことしてんだ」

自分の行動を馬鹿だと笑いながら、それを探し続ける理由ってのは、何なのか。その疑問が湧くのは自然だった。

「書物に…それらをまとめたくて。
そういう、およそ想像も出来ないような現象や、事象…それらを追って、見て、見た上で、それを見たことのない者にも、その美しさや妖しさが伝わるような、そんな書物を書きたい、と…」
「……しかし女一人での旅ってのは気苦労も多いだろ。金に困ったりねぇのか」
「私の家は里の長の分家で、医家なんです。家を出た時には充分蓄えもありましたし、薬を調合できるので、時折売って、路銀を得ています」
「……はあぁ」

なんだ、結局は金持ちの道楽じゃねぇか。
内心で舌打ち付きの悪態をつきながら、虹郎はため息とも相槌とも取れない、曖昧な声を洩らした。
一瞬でも自分と同じだと思った自分が馬鹿だった。探し求めるものが不確かであるという点においては似ているが、それだけだ。こいつのは、ただの道楽である。金持ちの嬢さんが、自分の思いつきを親の金頼りで行っている。
いちいち丁寧な口ぶりに所作、頼りなさげな所在、雷一つに怯え震える姿。全て合点がいった。つまりはそういうことだったのだ。
急に気が抜けて、気持ちみょうじのほうへ寄っていた体からも力が抜け、洞の内壁に身を沈めた。額を岩肌につけると、ひやりとして心地がよかった。勝手に頭にのぼっていた血が冷やされるようで、気持ちがいい。

「雷一つで怯えてるようじゃ、旅なんて続かねぇだろうよ。あんた本当に大丈夫なのか。怪我しねぇうちに帰ったほうがいいんじゃねぇか」
「雷は怖いですよ」

力の抜けた拍子に勝手に出てきたような、ほぼ八つ当たりに近い言葉に対して、思いがけずはっきりとした声が返ってきて、目を見開いた。

「雷は家も人も焼く。当たり前だけど、当たり前だからこそ恐ろしい」
「……そ、」

何か言おうとして、中途半端に開いた口はそのまま、開きっぱなしになった。
言われて、思考を巡らせた。それは、確かにその通りだ。自身がある程度天気を読んで移動し、雷雲が湧けばすぐに安全な場所へ身を寄せた。そうして上手くやってきた分、雷への恐怖心は薄れに薄れ切っていた。その分、何も言い返せなかった。

「……私に、奇妙な言い伝えやおかしな出来事を教えてくれた、よく旅をしていた親類がいたんです」

ーーー彼はよく、医家の娘として家で読み書きばかりをしていた私に、自分の見てきたものの話をしてくれました。
雨のように降り光る星屑、白く輝く虹、地表近くに湧く、手で触れられる雲。
どれも、家に閉じこもっていた私にとっては夢のようでした。それこそ、どれも目に浮かぶようで。
私はそれらを聞いたら、箇条書きにしてまとめるようにしました。忘れないよう、それを見て、いつでもその話を思い出せるよう。
けれどある日、彼の家に雷が落ちました。彼の家めがけてまっすぐに、狙いを定めたみたいにーーー


「家を串刺しにするみたいでした」

おかげでその家は周りを巻き込みながら焼け落ち、一家はみな命を落としたという。

「だから、その人が生きていた証は、私が話を書き留めた紙切れ一つになってしまったんです。今はもう、その人の存在は…その人が愛していた事象そのもののように曖昧になってしまいました」
「曖昧な事象、そのもの……」
「そんなものを信じているなんて、やっぱり馬鹿みたいだとは思うんですけど…」
「馬鹿、ね……」

膝を抱えて背中を丸める様は、幼い子供がいじけるような、そしてやはり、頼りなさげな所在である。
こいつはきっと、旅などしたことも考えたこともなかったのだろう。親類の話の中でのみ、頭の中でのみ、想像を巡らせ、そうして閉じた世界でのみ生きていくのだと。しかし、喪失を経て、ようやく外に一歩踏み出した。家の中で、村の中で、自分の行く先など考えもしなかった娘が。
そんなところだろうか。

「……俺は虹を捕まえるために旅をしている」
「へ?」
「訳あって、虹を探してる。奇妙な虹をな」

みょうじが数回、眩しそうに瞬きをする。

「俺も馬鹿みたいだろう」
「あ、い、いえ!私、そんなつもりで言ったわけじゃ……」
「分かってる。お互い酔狂なもんだなって話だ」
「……ひねくれ者、とも言えますね」

みょうじは言いながら、はは、と乾いた笑いを零した。
結局は似た者同士だったのだろう。虹郎とみょうじ、追いかけるものも、馬鹿みたいなところも。
改めて考えてみれば、奇妙な縁である。こんな人気の少ない場所で偶然行き合ったのが、はたから見れば馬鹿馬鹿しいと笑い飛ばされてもおかしくない者ふたり。
虹郎にしてみれば、自分のような人間がこの世に二人といるはずがないと思っていた。自分の行為を笑わない者などいないのだろう、と。
気づけば音の届かないところへと過ぎ去った雷が、光ばかり鮮烈に空を照らし出していた。相変わらず空は灰色だが、雲の層が、少しばかり薄くなっている。

「この雨が上がったら」
「ん?」
「虹、出るといいですね」



その言葉は、黒く渦巻くような悪意の一切ない、真夏に湧いた入道雲のような白さであったのを、虹郎はなんとなくだが覚えている。すでに、あの日からは2年の歳月が流れていた。
あの後、雨が止んでも雲は晴れず、結局虹は出なかった。あの、みょうじなまえと名乗った女とも、目指す方角が真逆だったため、雨が止んだ後は別々の道を歩んでいき、それきりである。
自分は目的を達したが、あちらがどうなったのかは分からない。

けれど、ギンコに別れを告げ、里へ帰ることを決めた後に立ち寄った、とある栄えた村でのこと。
子供らの寝物語に良いと名代の書物があると耳にした。それはおよそこの世のものとは思えぬ現象を描きながら、読む者をその世界観へと連れて行くかのような、奇妙でありながら愛に溢れた、奇譚であるそうだ。そしてそれは、今もなお、新たな物語が次々に紡がれているのだという。