勢いよく蕎麦をすする音。下げられていく食器が擦れる甲高い耳障りな音。客同士の笑い声。
人が犇く飯屋には、止めどなく雑音が溢れかえっていた。ただでさえ人熱が鬱陶しいその中で、なぜ私は熱い蕎麦を注文してしまったのか。後悔しながら汗が滲んだ額を軽く拭い、箸で掬った茹ですぎの麺を口元へ運ぶ。

歯に挟まったネギを舌で追いかけているうち、隣の客の会話がなんとなく耳に入ってきた。

「そういやぁ、最近国崩し殿がよぉ」

国崩しと言えば、近頃南蛮から入ってきたどデカイ火器のことだ。国を崩してしまうほどの威力があるからこその形容であるが、しかしだからといって「国崩し殿」などと敬称をつけるのか。
ちらりと声の主を盗み見れば、男が二人。袖のほつれもそのままな麻の着物を、だらしなくはだけるのも気にせず雑に纏っている。格好からして、どうも下級武士のようだ。余程国崩しが恐ろしいのか? 少し笑ってしまいそうになって、昔自分も石火矢一つに及び腰だったことを思い出し、それをしまい込んだ。

「どうも、女を取っ替え引っ換えしてるらしいぜ」
「いいねぇ、容姿に恵まれてる奴ぁ。おまけに火器の扱いにかけちゃ城中一ときた。取っ替え引っ換えも当たり前っちゃあ当たり前だろうなぁ」
「せめて俺にも火器が自在に操れる腕がありゃあな」
「あっても持ち腐れよ、どーせ顔じゃあ勝ち目がねぇんだからよ」

火器。女を取っ替え引っ替え。整った容姿。
思い当たって、思わず真顔になる。蕎麦の残りを一気にかっこみ、空になった丼の脇にかけ蕎麦の代金を置いて、彼らの背後を通り店を出た。

歩いていてすれ違う人々は、皆一様に、どこか他の町とは一線を画す快活さがある。この町に溢れる活気で肌がヒリヒリするような気さえしてくる。町が、よく栄えている何よりの証拠である。町が元気であるか否かは、人が証明するのだと、これは人の受け売りだけれど、私は今それを体感している。



「国崩し殿」
「はぁ?」

あからさまに眉をひそめる田村三木ヱ門先輩の顔は、やっぱり変わらず女の子のように美しい。長い睫毛に縁取られた丸い瞳をジトリと半分にしながら、私の目の前に腰を下ろす先輩は国崩し?と首を捻った。

「いえね、ここに来る前に寄った蕎麦屋で」
「待て、お前私と甘くて美味いものを食べる約束をしていたくせに蕎麦なんか食べてきたのか?」
「お腹空いちゃって…」

先輩はやれやれとため息を吐き、椅子に体を沈めた。

この人は学園を卒業した後、港町である堺にほど近い城に仕えた。佐武氏に仕える火縄の名手、照星さんの紹介である。
城主は珍品を好む好事家で、港からやってくる目新しい菓子にガラクタ、書物や作物など、種類は問わずとにかく新しい物好きだそうだ。武器も例に漏れず、火器もあれやこれやと仕入れているのだという。
その城主は照星さんとも顔見知りらしく、悪い人間ではないのだが、戦を無駄に大きくしかねない国崩しなどの火器を無邪気に嗜好品として集めるさまに、照星さんは危機感を抱いていた。そんな時、田村先輩を件の城主の元に仕えさせることを思いついたのだと仰っていた。要は、田村先輩を城主殿のストッパー的な役割にしたかったのだ。
田村先輩は、最上級生になってからというもの、アイドルだなんだと騒ぐことを控え、会計委員を支える要となっていった。その様子は、あの照星さんでさえ信頼を寄せるに値するものだったようで、田村先輩はあっという間に自分の道を決めていったのだ。

だが、田村先輩は変わらずに私と接してくれている。
私より3つ年上の田村先輩は、私の憧れだった。私自身、元が何の取り柄もないただの町娘だったため、忍術学園の誰もが輝いて見えたが、特に田村先輩は凄かった。自分の火器を常日頃から脇に携え、自在に操り、時に派手にぶっ放す姿は、学園に入って間もない私を惹きつけた。

私が一方的に田村先輩を慕っていて、今でもこうしてたまに会いに行ったり、相談に乗ってもらったり。そんな関係が、私が最上級生になった今も続いているのだ。

「で、何で私が国崩しなんだ?意味が分からないぞ」
「ああ、いや、蕎麦屋でどこぞの武士らしき人が話してるのが聞こえたんですよ。国崩し殿がどーのこーのって」
「だから、何でそいつらが言う国崩し殿が私だって分かったんだ」
「先輩、女を取っ替え引っ替えする悪い男だと思われてますよ」
「は!?」
「ユリコちゃんカノコちゃんサチコちゃん元気ですか?」
「え、ああ、相変わらずだ。みんな可愛い……あ、ああー……」

合点がいったのか、思い当たる節があるのか、先輩は白玉が乗っかった皿の上でガックリと頭を垂れた。
おおかた、先輩は相変わらず城内で火器たちを可愛がっているのだろう。で、その甘い言葉の数々だけが噂で回り回ってこんなことに。

「そんな噂になっているのか、私…」
「で、どうなんですか実際」
「実際じゃなーい!!阿呆かお前、分かってて私をからかってるな!」
「あはは、すいません」
「ああもう、悪評じゃないか……」

頭を抱える先輩に、真面目だなぁと感心した。女を何人誑かしたかで自慢するような輩だってたくさんいるのに、先輩はそんな素振りさえちょっとも見せない。変わらない先輩の様子に、こっそり安堵のため息をついた。

「でも先輩、すごいじゃないですか」
「ん?」
「そんな通称で呼ばれるほど、先輩の腕は誰が見ても優れているということです。これはすごいことですよ」

視線を落とした先にある湯呑みの中では薄い茶が揺れて、映る私の顔を歪ませる。

先輩はすごい。そんなことは出会った時からずっと分かっていたことだ。

「お前、何か私に相談があるんじゃなかったのか?」

先輩が、私の心中を見透かしたみたいなタイミングで口を開いた。


遡って一月ほど前、私は最高学年になったばかりだった。
運悪く通りすがりの学園長先生から託されてしまった土井先生への書状を届けるべく、とりあえず火薬庫へ足を運んだ時のことだ。
火薬庫の前にはちょうど土井先生がいらっしゃった。先生はどなたかと立ち話をしているようで、話しかけるのは憚られたのだが、意外なことにその人物は向こうから私の元へやってきた。
遠巻きに立ち尽くしていた私目掛けてまっすぐに歩いてきたのは、照星さんだった。

「みょうじなまえだね」
「はい、こんにちは照星さん。学園にいらっしゃるなんて珍しいですね」

少しだけ掠れた低い声で名前を呼ばれたことに、少しだけ驚いた。
照星さんとお話したことは、虎若や田村先輩を交えての、ほんの2、3度しか無かった。覚えていて頂けたことにちょっと感動して、思わず声が弾んだ。

「土井先生に少し用があってな……いや、今はそれについてはいいんだ、みょうじ」
「はい、なんでしょう」
「実は君にも用がある」
「へっ?私ですか?」

思いもよらない言葉に間の抜けた声が出た。何だって私に、何の御用が。
ひょっとして三月前に変装で虎若を騙くらかして散々奢らせたことがバレて、虎若のお父上の代わりに報復しに来た? いやそれはないか。忙しい照星さんがそんなことのためにわざわざ学園に来ないだろう。あ、でも土井先生にも用があるって言ってたからそのついでで…。

「すいません授業だから仕方なかったんです、別に虎若くんじゃなくても良かったんですけど…」
「何の話をしているんだ……」
「え、あれ、違います?」
「若太夫に何かしたのは明白らしいが、まぁ今はいい」
「いいんですか」
「ああ、もっと大事な話がある」



それから照星さんが持ちかけてきた話は、私のちっちゃい想像なんか簡単に飛び越えるようなものだった。

「卒業後の仕え先を紹介してくださるって、おっしゃったんです」
「へぇ、良かったじゃないか」
「いえ、でも……」
「なんだ、何か不満だったのか?」
「違うんです、というか、紹介先も聞きませんでした」
「何? お前、何でそんなことを……」

先輩と私は違うんです。
言いかけて、口を噤んだ。
先輩と私。明確に違うのは、実力だ。

「先輩は照星さんに今仕えている城を紹介された時、即答していましたよね。それは自信と実力に基づいています」

田村先輩は口を閉じて、訝しげにこちらを伺っている。

「私には自信がない。自信に繋がる実力もない」

先輩の視線から逃げるようにして、茶をぐいと煽った。色は薄いくせに苦味だけはやたら強いそれが舌の上で波打って、思わず顔をしかめた。

先輩はすごい人だった。
初めて会った時、先輩は裏山で石火矢の試し撃ちをしていた。私はというと、特に何をするでもなく、一応学園周りのことも知っておこうと散歩をしていたのだ。まったく、何の危機感もなく、警戒心もなく。
そんな時、少し開けた場所に、明るい髪が揺れているのが目に入った。自分の黒い髪とは真逆の、眩しいくらいに煌めく髪が靡く様を、きれいだと呑気に見惚れていた。そばから、急に頭が吹っ飛んだんじゃないかと錯覚するほどの爆音が響いた。数年前の大嵐も酷かったが、そんなの比じゃあない。雷だって、あの音に比べたらちゃちなもんだと思った。
声も出せずにその場にスッ転げた私の元に慌てて駆けてきたのが、田村先輩だった。
私の存在に気づかず石火矢をぶっ放したことを、まず許してくれと、とにかく頭を下げられた。
すでに4年生になり、体つきも大人へ近づこうとしていた田村先輩が、ちんちくりんな10歳の私に頭を下げていたのが妙に印象的だったのもあり、私は今でもたまにその時のことを夢に見る。そういう時は決まって、田村先輩が石火矢をぶっ放すところから始まって、驚きながらそれでもその恐ろしい鉄塊と、きれいな先輩から目が離せなかったあの日の一連をなぞっていく。

結局、田村先輩はあの後、その場で私に石火矢の美しさとその裏側の恐ろしさを説いた。話は長かったけど、私が理解できるまでちゃんと話をしてくれた先輩の優しさが、まだ学園生活に不安を感じていた胸の内に沁みた。
一通り話し終わった先輩は「面白いだろう、火器は」と、大層嬉しそうに顔を綻ばせた。
何故あんなに嬉しそうだったのか、正直今でも分からない。けれど、それだけ火器を心から愛していたのだ、先輩は。それはきっと、今も。

先輩を好きになった私が火器を好きになるのは、ごく自然なことだった。
私は先輩も、火器も好きだけど、先輩はずっと、私の先を行く人だ。火器も未だに半人前のまま、私は中途半端に生きている。

「なまえ」

先輩はため息まじりに私の名前を呼んだ。先輩の口から自分の名前を聞くのがずいぶんと久しぶりな気がして、思わず顔を上げた。

「照星さんの話、断ったのか?」
「いえ、まだ少し考えさせて頂きたい、と…」
「そうか、なら良かった」

先輩は胸を撫で下ろしながら、笑った。まるであの日のような、大層嬉しそうな笑顔である。

「過信しないのはお前の長所だが、行き過ぎれば短所になるぞ」
「いつぞやの自信満々な先輩と逆ですね…」
「うるさいわアホ!」
「すいません」
「……あのな、お前、人の話はちゃんと聞くべきだぞ」

先輩は、イタズラが成功した悪餓鬼みたいな笑顔で、火傷跡の残る人差し指で、自分のほうをまっすぐ指した。

「照星さんがお前に紹介しようとしていたのは、私だ」
「…………」
「私の元に来ないか、という話だ」
「…………」
「おい、ノーリアクションはやめてくれ」
「いや、だって、訳が……」
「分からん、とでも言うのか?」

真っ白になったままの頭で頷けば、呆れたように肩をすくめた。
訳が分かる、訳がないじゃないか。先輩が、何故私を?

「まず第一に、お前は自分が思っている以上に人から評価されているということだ。自分が今まで積んできたものまで否定してはいけないぞ。
たしかにお前は私より遅く生まれて、何周も遅れていると感じているかもしれないが、だからこそ私の元に来ればまた色々教えてやれる。私もお前に教えたいことがたくさんある。お前は人から聞いた話をきちんと飲み込むからな。
それに、今うちは人手が足りない。どうせ人を増やすなら、優秀なもので、出来れば忍術学園の者からと、上からも言われているんだ」

忍術学園というバックグラウンドに改めて慄いたりしながら、人の話をきちんと飲み込むと褒められた手前なんとか先輩の話を理解しようと、焦る頭の中を整理し始めた。

「それからな、お前」
「へ?は、はい?」
「なまえはあらゆる面でもう少し自信を持て」
「へ、それは……」
「まぁそれはいい。で、この話どうする。受けるか?」

先輩にあれだけ言われてしまったら、断るなんて野暮なことをするつもりはない。断る理由も無い。ただ、まるで夢でも見ているような心地で、心臓の辺りがふわふわと落ち着かなかった。

「お前は、私が自信があるから照星さんからの紹介をすぐに受け入れたと思っているだろうけどな」
「え、違うんですか?」
「ああ、ただ期待に応えたかった。ただそれだけで、勢いあまって頷いていた」

それだけ、先輩が照星さんに抱く憧れの感情は熱量が漲っているということなのだろう。
若気の至りだ、とはにかみながら頭の後ろに手をやる先輩の、幼い少年のような仕草は、学園にいた頃に見ていた気がする。まだ、忍びの世界のことなんか一握りしか知らなかった頃。先輩は大人びて見えたけど、こうして思い返してみれば彼もまた齢10を超えて間もない少年だったのかもしれない。
そして先輩は、期待に応えたい一心で、勢いのままに就いた先で揉まれながら、学園にいた時よりもずっと成長したのだろう。

「先輩、私はまだまだです。でもきっと、学園中の誰よりも先輩を見ていたし、誰よりも先輩の力になりたいと思っています」
「そうか」

よく言った、と満足げに口の端を上げた田村先輩は、約束だ、と半ば強引に私の手を取り小指を小指で絡め取った。

「これで逃げたら針千本だからな」
「卒業まではだいぶ時間ありますし、気が変わった時はすいません」
「そういうことを軽々しく言うな、阿呆」

ありもしない心変わりの可能性を口にすれば、先輩は律儀にムッと口を尖らせる。
卒業しても、先輩の側にいられるどころか、今まで以上に先輩の近くにいけるのだ。見たことのない先輩の表情も、きっとたくさん見られるだろう。先輩の元で学んで、先輩の知識も技術も、ついでに心も盗めればいいと思うけれど、それはまだ分からない。
だからとにかく、卒業までは出来得る限りのことをしよう。たくさん学んで、たくさん得て。

散り去った山桜にもう一度会えた時が、また先輩と会える時だ。