◎化野先生と、ギンコと同じ旅の蟲師の話


緑がかった透明な水平線に、山のようにそびえ立つ入道雲が見えた。
高台に建つこの家は、夏でも涼しい風が吹き抜けていく。
眼下に広がる海から吹き上がってくる海風、生い茂る木々の間を通り抜けてくる山風。
窓を開けておけば、ここは団扇のいらない避暑地となる。

「人んちを勝手に避暑地にするなよ」

厨で何やらごそごそやっている化野先生が、不満げな声を上げた。

「お前といい、ギンコといい、こっちが呼んでも気まぐれにしか顔見せんのに……都合のいい時ばっかり頼るんだもんなぁ」
「人徳ですよ、先生の」
「心にもないことをよく言うよ、ホントに」

のんびりとした動作で、化野先生は盆に2つの湯呑みと硝子の皿ひとつをのせて戻ってきた。

「ほれ、おまちどう」

先生が出してくれたのは、お茶と、それから鮮やかな緑色をしたキュウリの漬物だった。透明な硝子の皿の上で、つややかな緑色がひたすらに美しかった。

「村の者からもらったんでな。自分で漬けてみたんだ」
「わあ、ありがとうございます」

楊枝を受け取って、一口大にぶつ切りにされたキュウリをひとつ刺した。いただきます、と言い添えて、つやつやしたそれを口の中へ。

「どうだ、美味いか」

うきうきと期待に満ちた眼差しをこちらに向ける化野先生の顔を眺めながら、ぽりぽりと音を立ててキュウリを齧る。

「うん、ちょっとしょっぱいけど」
「む……酒には合うんだぞ」
「あ〜確かに」
「酒出そうか」
「まだ昼ですよ」

本当だぞ、本当に酒には合うんだぞとしつこい化野先生の気を何とかお漬物から逸らそうと思い、隣の部屋の隅に転がっている化野コレクションのほうを指さした。

「先生は相変わらず変なもの集めてるんですね」
「ヘンって言うなよぉ」
「ヘンテコだけど面白い。あの掛け軸は何ですか?」
「おお、あれな」

化野先生は嬉しげな声を上げ、いそいそと掛け軸を持ってきた。そこには、黒と白の、丸々とした生き物のようなものが描かれている。嘴があるから、鳥に見えなくもないが、翼は短く胴体は重たげだ。

「何でも、どこぞの旅の者が描いた異国の鳥らしくてな。話によると、空は飛ばず海で暮らす生き物なんだそうだ」
「異国……どこまでホントなんですか、それ」
「さあなぁ。だが想像するだけで、こう……心ん中がザワッザワするし、ワクワクするだろう」
「まあ、面白いですけど」
「そうだろ、よく見りゃ愛嬌もあるしな」

掛け軸を愛おしげに眺める横顔は、幼い子供そのものだった。強い風が吹き込んでゆらゆらと煽られる掛け軸を、慌てて隣の部屋へ仕舞いにいく姿を見ながら、ふ、と肩の力を抜く。
本当、面白い人だなぁ。
いつ来ても変わらない。ここに来れば、必ず会える。
そういう存在は、私やギンコさんみたいに、ひとつ所に留まらない人間にとっては、かけがえのない拠り所となるのだ。

「化野先生、これからもずっと変わらないでいてくださいね」
「へ、何だ急に、どういう意味だ」
「ちょっと抜けてる化野先生のままでいてねってことです」
「抜けてねえよ!」