※捏造設定かなりあります


中国。
個性の発現が、世界で初めて確認された国。

そういう自負のある国では、無個性の人間に対する視線が相当にシビアだったらしい。と、聞いたことがある。
向こうにいた時は、たまたま周りに無個性の人がいなかったからか、はたまた大人の手でそれらが都合よく隠されていたからなのか。分からないが、とにかく自分の目で直接差別的な思想を目の当たりにすることはほとんど無かったと言っていい。
しかし、祖父母から聞いた話では、昔むかしは子供の目を気にして隠すことすらままならないほどの荒れようで、ほとんど内争に近かったという。
個性至上主義を掲げた政権に対する無個性の人間によるデモ活動の激しさ、それらに牙を向いた半ば暴力的な弾圧。結局それらはデモとすら呼ばれず、有象無象の犯罪集団として扱われていたのだそうだ。
そんな時代の中にあった国のヒーローもまた、「無個性」という存在に対する思想の違いで二分化した。
本来、無個性の人間は一番に守られるべき存在であるとし、彼らを庇護する者。
その考えこそ平等ではない、人をみな平等とするならば無個性の人間の起こした騒ぎは正しく罰するべきとし、彼らの弾圧に加わる者。
報道もヒーローすらも二分化し、まさしく国の分裂が目に見えて起きていた、そういう時代が真実として、自分の故郷にあった。
他の先進国でも、そういう流れはあったことには違いない。そうだとしても、国の、世界の歴史の中に、そういう差別が根付いていたということ、今もそれらは世界中で小さく息を潜めながらも澱み、完全には消えていないこと、それらが、時折今を生きる自分たちの首を真綿のように締めてくることがあるということ。

直接そういうものに関わる機会はなくとも、「個性が無い」ということに対する空気の悪さは、何となく感じていた。



日本に来てまだ間もない頃、迷子になったことがある。
後にも先にも、迷子になんてなったのは、あの一度きりだ。
引っ越してきたばかりの町が物珍しく、よそ見をしながら歩き回っていたら、帰り道が分からなくなった。よくある子どもの失態に違いないが、言葉一つすら未だ曖昧な国での迷子には軽く死を覚悟した。つまり、それほどに幼かった。
必死になって帰り道を辿ろうとして、あちこち歩き回ったのが裏目に出た。足が疲れるばかりで全く知った道に出ないばかりか、家から遠ざかっている気すらした。
もう歩けない、というよりは、動く気力を失って、住宅街の小さな公園のベンチに座り込んだ。
黄色い声を上げてはしゃぐ、自分と同じくらいの年の子どもが走り回る様子を、多分死んだ目で眺めていた。
この子たちは、自分の家へ帰るための道を知っている。ひょっとしたら、親が迎えにきてくれるのかもしれない。
かたや、自分は帰り道すら分からないうえ、言葉すら分からない。すれ違う人々の、発する言語すら理解できない。

引っ越しが嬉しかったわけでもないが、嫌だったわけでもない。日本語も少しだけ勉強した。まだ見ぬ日本という国に対する好奇心もあって、だからこその迷子だった。でも、だからなんだっていうんだろう、と塞ぎ込むように思った。
もう帰りたい。
ずっと我慢していた涙があと一度まばたきしたら溢れるんじゃないかというところまできた、その時に、その人と出会った。

「君、どうしたの? お名前は?」

俯き見つめていた先の地面に影ができて、はっとした。
顔を上げると、小さなビニール袋を片手に提げた女子が一人、目の前に立っていた。眦の優しさから、その人が自分よりちょっとばかり年上なのだと分かった。

「低学年だよね? あんまり見かけない子だけど、迷っちゃったかな?」

ぽかんとするばかりの自分を気遣ってか、その人はしゃがみ込んで、下から覗き込むように目を合わせてくれた。
その優しさに気づかないわけではなかったが、何と言っているのかが分からなかった。
善意に応えられないもどかしさで余計に頭が混乱する。
何も応えられずにいたら、見捨てられてしまうかもしれない。
そんな不安も募りつのって、どんどんいっぱいいっぱいになって、言葉一つ出てこなくなった。焦れば焦るほど、喉の奥が固く閉ざされていくような心地がした。
けれどその人は、その場から立ち去る様子など微塵も見せなかった。

「うーん、どうしよう……こういう時に何かしらの個性があるといいんだろうなぁ」

女の人が何事かを小さく呟いたが、この時はまだ何を言っているのかは分からなかった。
それでも、困りながらも、気分を損ねるような素振りひとつ見せないこの人は、人を見捨てるような人ではないのだと、それだけは分かった。

「ね、お名前だけでも教えてもらえないかな?」

その人は、パッと顔を上げて、こちらの目を覗き込んだ。
名前、という言葉だけは聞き取れた。この時ようやく、ギリギリ知っている日本語を拾い上げられたのだった。

「リン、フェイロン」

おそらく聞き慣れない発音に戸惑ったのであろう彼女の様子を子供ながらに察して、ベンチから飛び降り、近くに落ちていた枝を拾い上げて漢字を記した。
とはいえ子供が書く漢字なんて、多分ほとんど絵みたいな出来だっただろうに、それでも何とか伝わったらしい。

「うろこ、に……飛ぶ、竜。これで、リン、フェイロン?」

反芻された名前を聞き留め、こっくり頷くと、その人は両手を叩いて、大袈裟なくらいに愉しげな声を上げた。

「すごい、かっこいいね!」

やっぱり言葉の意味は分からなかった。
けれど、それを分かった上でなのか、その人は言葉以外の表情や身振り手振りで自分とコミュニケーションを取ろうとしてくれているのかもしれない、と、子供ながらにそんなことを思った。

「そっかぁ、海外の子だったんだね」

ごめんね、驚かせちゃったね、と目尻を柔らかく下げたその人は、持っていたビニール袋をがさごそと漁り始めた。
そこから取り出されたのは、真っ白くてまん丸い、ひねり上げたみたいな模様が特徴的な包子のようなもの。日本では中華まん、と呼ばれていることは後で知った。
その人は、それをちょうど真ん中で二切れに分け、片方をこちらに差し出した。

「はい! 半分こ」

眼前に差し出されたそれに、自然と手が伸びた。
もうもうと湧き立つ湯気から、豚肉の優しい旨味がほかほかと香ってきて、鼻先をくすぐられたのだ。
今にして思えば、知らない人から食べ物をもらうなんてことは危ないことだったと思う。が、空きっ腹に肉まんの香りは到底耐えられなかった。それに、自分はその時すでにその人を疑う余地なんて少しもなくなっていた。
受け取った肉まんを頬張ると、少しふやけた白い皮がふにゃり、と前歯にひっついた。

「私は、みょうじなまえです」

その人は、肉まん片手に自分自身を指差して、再びみょうじ、なまえ、と繰り返した。
多分、これがこの人の名前なんだろうなと思った。

「みょうじ、なまえ……」
「そう!」

口の先で、慣れない言葉の響きをもにょもにょリピートしてみると、その人ははしゃいだような声を上げた。

二人で肉まんを食べ終えてから、その人は迷子の困ったちゃんを交番まで送り届けてくれた。
その後、警察のお世話になって何とか家に帰れたけれど、その人は事態が落ち着くまでずっとそばにいてくれた。最後にまともにお礼を言えていたかどうかは、正直今でも覚えていない。
結局、みょうじさんとは後日、自分の通う小学校で再会することができて、自分の口で「ありがとうございました」を伝えることができたのだけど。

みょうじなまえさん。
自分の4つ上の学年。
友達はたくさんいて、いつでも誰かと一緒に笑っている。
個性が無い、という話はあとで本人から聞いた。
そういう話を聞かせてくれるくらいには、仲が良かったのだと思う。

個性の無い、だけど自分を助けようと、励まそうと、必死になってくれたお姉さん。
その行為はまさしくヒーローのそれだった。
あのみょうじさんとの出会いのおかげで、自分の目に映る世界が少しだけ明るくなった気がしたのだ。



「フェイロンくん?」

と、懐かしい呼び方をされて、ショッピングモールの人波の中を勢いづけて振り返る。
突然立ち止まった男子高校生たちを避けて歩く人の流れの中、自分らと同じく立ち止まってこちらを見つめる女の人が一人。

「……みょうじさん?」
「や、やっぱり! フェイロンくんだ! 久しぶり、覚えててくれたんだ!」

俺を挟んだ両隣で円場と回原が「ふぇい」「ろん」と不思議そうに顔を見合わせている。
そらそうだろう、自分の名前をピンインで名乗っていたのなんか引っ越してから数ヶ月程度だ。当然雄英に入ってからは「リン、ヒリュウ」としか名乗っていないわけで、不思議がられても仕方ない。
ともかく二人のことは置いといて、と心の中で独り言ちながら、みょうじさんと二人、どちらともなく歩み寄る。

「え、ええと……何でここにみょうじさんが?」
「今年からこっちの大学通うことになって、今一人暮らししてるの!」
「そうか、なるほど……なんか、本当にお久しぶりですね」
「ね! お話しするのは1、2年ぶりくらいかも……あ、ごめん。お友達が……」
「へ?」

何となく申し訳なさそうな顔で、みょうじさんは俺の背後を覗き見た。
振り返ると、なんか知らんがものすごく嬉しそうにニヤニヤしている円場と回原と目が合う。
途端に、ものすごい勢いで手招きをされて、思わず眉間に皺が寄った。
みょうじさんに「すいません、ちょっと」と言い残し、多分なんかめんどくさい勘違いしている二人のところに駆け戻った。

「何なんだよ」
「何なんだよじゃないぞ鱗ちゃんよ!」
「鱗……買い出しは俺らに任せろ!!」
「は?」

やっぱり妙なテンションでバッチリ勘違いをしている二人組に弁明するより先に、円場に肩をバシバシ叩かれた。

「モーマンタイだ、買い出しは俺らがやっとくから!」
「お前は後から合流でいいから、な!」
「ちょ待てよ」

キムタクみたいな言い方になっちゃっただろうが、というツッコミが口から発せられるより先に、二人は腹が立つくらい爽やかに笑いながら走り去っていき、半端に伸ばした手が宙ぶらりんになった。

「ごめん、なんかタイミング悪かったかな……」
「ああ、いえ。全然大丈夫です、あいつらが勝手にはしゃいでるだけなんで」

申し訳なさげに眉を下げるみょうじさんに向き直り、きっぱりと言い切る。
今頃、円場と回原はみょうじさんと俺の関係を恋愛と結びつけてキャッキャしているのだろうな、と思うと盛大なため息が出そうになった。後で質問攻めにされるのは、もう確実だろう。

「なんか買い出し……? って聞こえたけど、大丈夫?」
「はい、文化祭近いので。それの買い出しに来たんです」
「そっかぁ、じゃあなおさら申し訳ないことしちゃったね」
「全然、みょうじさんが気にすることじゃありませんよ。もう全部あいつらに任せてやります」

投げやりに言って笑って見せると、みょうじさんはようやくほっとしたような笑顔を見せてくれた。

「本当に時間大丈夫? よかったら中華まん食べに行かない? 最近、ここのフードコートに美味しいお店出来たんだよ! 奢ったげる」
「へ? いや、奢りなんて悪いですから」
「ていうか、一緒に来て!」

顔の前でぱちん、と両手を合わせたみょうじさんは、おずおずとした調子で言葉を続けた。

「肉まんとあんまんを……両方食べたいのですが……」
「食べ切れずに残してしまいそうだから半分ずつにして、俺に半分食べて欲しい、と」
「さ、察しがいい……」
「いいですよ」
「あ、ありがとうぅ〜」

みょうじさんは、まるで仏でも拝むみたいに手を組んで、大袈裟なほどに嬉しげな声を上げた。
フードコートの並びにあるらしいそのお店に向かって、二人並んで歩き出す。
ふと、自分の隣を歩くみょうじさんの頭の丸っこさに気付いて、そういえば今まではこんなことに気づくことはなかったな、と思った。
みょうじさんの背丈を追い越したのは、わりと最近のことだったように思う。だからかもしれない、だから、みょうじさんという人の姿の見え方も変わったのかもな、と一人で納得した。

「フェイロンくん、雄英入ったんだもんねぇ……体育祭も見てたんだよ! 頑張ってたね」
「ほとんど活躍出来なかったですけどね」
「そうなの? 私からしたら十分すごいと思ったけどなぁ」

そうして二人で、とりとめのない会話をした。
久しぶりに近くで見たその笑顔が、昔と変わっていなくてほっとした。
昔と変わらない笑顔が嬉しいと思う、身の小ささに驚いたりする、そういう人のことを、事情を知らない同級生になんと話せばいいのだろう。



「あ、角煮まんだ……美味しそう」

店先に辿り着くなり、みょうじさんがぽつりと呟いたのを聞き逃さなかった。

「食べ切れなかったら食べますよ」
「えっ、いいの?」
「はい」
「ありがとうフェイロンくん〜」

いちいち手を組んで俺を見上げるみょうじさんの仕草に、小さく笑いがこぼれた。
久しぶりに呼ばれる名前の響きが懐かしく、同時にこの人に名前を呼んでもらえているという事実が嬉しくもある。

「俺のことそんな風に呼ぶの、多分みょうじさんだけですよ」

数人が成す列の最後尾に並びながら言うと、みょうじさんはきょとん、とこちらを見上げた。

「え?」
「フェイロンって。みんな鱗か、ヒリュウって呼びますから」
「あ、そっか……ごめん、嫌だった?」
「いえ、全く」
「ほんとに?」
「はい」

力強く頷くと、みょうじさんは照れくさそうに笑った。

「昔、初めて会った時、俺がそう名乗ったんですから。そうそう、あの時みょうじさんが肉まんくれたの覚えてますよ」
「あ、そうだったねぇ! あれ実は家族の分だったから、家帰って一個足りない! って騒ぎになってね」
「え」

今だから言えるけど、みたいなおどけた口調で言われて、ぎょっとした。

「それは……重ね重ね申し訳ない……」
「あはは、いやいや笑い話! 迷子の子にあげたって言ったら許してもらえたし」
「……何か改まって迷子って言われると恥ずかしいですね」
「私もリアル迷子と遭遇したの初めてだったな」
「リアル迷子て」
「でもねぇ、やっぱり私フェイロンくんと知り合えて良かったって思うよ」

唐突に率直な言葉をかけられて、目を点にしながら「へ」と間抜けな声を上げてしまった。

「私、個性無いけど昔からヒーロー好きだったし。ヒーロー志望のフェイロンくんのことテレビで応援できたりとかさ、楽しいし嬉しいんだよね」

雄英で起きた事件知らない訳じゃないけど、と小さく言って、みょうじさんは優しく細めた目をこちらに向けた。

「心配だけど、なりたいものに向かって頑張るフェイロンくんのこと本当にすごいと思うし、そういう姿見てると私も頑張ろうって思えるから」

列が一人分前に進んで、なんとなく会話が途切れた。
途切れた会話をどう再開するべきか、何と返したらいいか、分からないまま顔やら胸の奥やらが熱くなる。
飾らない言葉が嬉しい。幼い頃、助けてくれたみょうじさんの、一言ひとことが胸に滲みて、俺はこの人のことが大事なんだろうな、と思った。
大事な人。
思い至った少し恥ずかしい表現を、まさか同級生たちにそのまま伝えようとは思わないが、しかし一つ得られた結論は自分の中でしっくりきた。
多分、出会った時の思い出ごと、ずっと大事にしたかった。

こんな気持ちを抱えたこちらに気づいていないらしいみょうじさんは、店の奥で中華まんが作られている様子をわくわくしながら見ている。
それでもいい。気づいてくれなくてもいいから。

「みょうじさん」

名前を呼ぶと、丸い瞳がこっちを向いた。

「俺がちゃんとヒーローになれたら、いちばんにみょうじさんに伝えますね」

あなたがずっと、好きなものを食べて、笑っていられる世界を守る、そういう歯車のひとつになれたら。
必ず、あなたに一番に伝えよう。