体感では、もう何年も何十年も会っていないみたいにも思える、懐かしい人の姿を見た。

朝靄すら立たぬ張り詰めた夜明け前の、薄暗い小道の先で、その後ろ姿を目に留めた瞬間。
飛びついてしまいたい気持ちが湧き上がるのをぐっと抑え込んで、声の届く距離までそろそろと間を詰めていく。

「そこ行くおにーさん、どこ行くんです?」

意識的に、素知らぬ声色で声をかけてみた。
背後から近寄る気配に気づいていなかったわけでは無いだろうが、そこに敵意が無いと分かっていたのだろう。その人はとても静かに立ち止まった。
うっすらと淡い闇の中で、その闇よりもずっと深い黒色の髪の毛がしなやかに靡く。
絹布のように美しい髪の毛を見せつけながら振り向いた立花先輩は、なんだみょうじか、などと若干失礼な言い方をして、肩の力を抜いた。

「久しいな、私が卒業して以来だから大体一年ぶり……になるか。何をしているんだ、こんな朝っぱらから」
「朝っていうか、朝まだきですけど」

駆け足で先輩に追いつき、隣に並んで歩き始める。
朝日の気配はいまだ遠いが、空は藍色に白んで、星が一つ、一つと姿を消し始めていた。

「私は金楽寺とか、その他諸々にお使いです。五年になってから夜にお使い頼まれること増えたんですよね……」
「そりゃそうだ、夜に動ける時間が長いほうが後々役立つからな」
「先輩は? 忍術学園へ行かれるんですか?」

夜通し歩き回って、筋肉がつっぱった感じがする足を前へ前へと投げ出すみたいに歩きながら、何気なく先輩の顔を見上げた。
まっすぐに前を見据える先輩の鼻先が、おぼろげな薄闇に白く浮かび上がっている。

「先月、台風があったろう」

先輩がやつれ気味に言うので、たじろぎながら頷く。
ひと月前に、じりじり時間をかけて昇ってきたらしい台風が、ここら一帯で散々暴れ回った。たっぷりと力をつけたそれは雨、風、雷なんでもござれで、上も下も関係なく全ての人々の生活を一揉みにしていった。
あらかじめあちこちの補強をしていた忍術学園でさえ、数カ所の扉や屋根がべきべき剥がされ、飛ばされていったほどだった。そんな訳で、学園では生徒も先生も関係なく、しばらくはそれらの修繕にてんてこ舞いだったりしたのだ。

「あの台風で要所の砦が崩れ落ちたという某城から、砦の修復費用の工面をなるはやで依頼された」
「……忍ってほぼ何でも屋ですよね」
「よく分かってるじゃないか」

ふふん、と鼻先で笑った先輩は、隣を歩く後輩にようやく一瞥くれた。
が、すぐに視線を逸らし、浅く息を吐いた。

「それで、私なりに動いてみたが、何分急務だったのでな。どうしても学園のツテに頼らざるを得なくなった」
「へー……って、え? 立花先輩、最近忍術学園に来てたってことですか?」
「ああ、だが学園長先生にお会いしてすぐに学園を出たからな、学園長先生以外ほとんど誰にも会わなかった」

先輩は、何かトドメでも刺されたみたいな深いため息を吐き出して、背筋は伸ばしたまま、視線だけを地面に落とした。
いつにも増して白い顔をしているように見えるのは、この青みがかった薄暗がりのせいだけではなかったのだ。

「本当は、学園に頼るつもりはなかった」
「……どうして?」
「私は……学園で受けた恩は、とても返しきれないと思っている」

クールだとかいう異名が泣くようなことを言って、先輩は細い眉を、音が出そうなくらいにきつく寄せた。

「その返しきれない恩を、世の中とか、そこで生きる誰かとか……大きい世界に少しずつ返していくのが、回り回って学園のためにもなると思っている。だから、」

一瞬、先輩は息を止めた。喉の奥でなんとか押し留めたらしいため息を細く吐き出し、とても静かに口を開いた。

「私は出来るだけ、学園に縋るようなことはしないつもりだったんだがな」

水中を歩くような無音の最中で、自嘲混じりな立花先輩の声だけが空気を震わせた。

優秀だった、立花先輩。尊敬する立花仙蔵先輩。
先輩は、会えなかったこの一年で、何度こんな風にして、苦汁をなめてきたのだろう。
どれだけ、こんなため息を飲み下してきたのだろう。私が過ごしてきた一年と、先輩が過ごしてきた一年は、どんなに密度が異なるのだろう。
私が辛いと思った、その何倍の辛さを、この人は背負ってきたのだろう。

「あ」

ふと、目の端で何かが動くのが見えた。
人だ。
空が白み始めたのを合図にするみたいにして、峠の入り口の小さな店にのれんを上げている人。
ぽってり丸い白抜きの「餅」の字が揺れているのを見たせいか、お腹がすっかり空っぽであることを思い出してしまった。
台風であっちもこっちもめちゃくちゃになった今、こういう小回りのきく小さな店は逆に立ち直りも早くて稼ぎ時だったりする。
こんなに早くからのれんを上げる殊勝な店だ、きっと美味いに違いない。

「そうだ! 先輩、待っててください!」

きょとんとした顔で目を瞬かせる先輩を置いて一足に店先へ駆けていき、注文を伝えて指を二本立てた。
餅が炙られる香ばしい香りに、胃袋の位置がはっきり分かるくらいの空腹を感じた。
店主に銭を手渡し、かわりに串に刺さった磯辺餅を受け取る。お礼を言って、すぐさま先輩の元へ駆けていった。

「ほら、これ食べながら歩きましょう!」

薄く焦げ目のついた餅をひとつ、先輩に差し出す。
焼いた餅のふくよかな香りに包まれながら、先輩はしばらくそれを見つめ、珍しく遠慮がちに手を伸ばしてきた。

二人で餅を頬張りながら、峠道を登り始める。
みょん、と伸びる餅を前歯でちぎり、はふはふいいながら、醤油味の薄いケチな磯辺餅を味わった。味が薄い分、餅のほんのりとした甘みが胸のあたりをほっとさせてくれた。
伸ばすだけ伸ばした餅を器用に口の中へ収めていく先輩は、小さく「うまい」と、ひとこと溢した。

「米も食いたいな。魚も」
「台風でどこの港町も壊滅的でしょうから、当分魚は高値でしょうね……」
「ああ」

んなこと言われなくとも分かっている、と元気に言ってもらえた方が、どれだけ良かっただろう。
立花先輩は、自分が思っているよりずっと分かりやすい人だ。
後輩として可愛がってもらってきた、長い時間の中で気づいたこと。先輩が学園を出た後も、そういうところはあまり変わっていないのかもしれない。
それは先輩の弱点なのかもしれないけど、そういう先輩が、先輩の中に残っているということが、私にはほんの少し、嬉しい。

「食堂のおばちゃんに言えば、きっと焼き魚定食を作ってくれます」

立花先輩、と。
学園に先輩がいた頃のことを思い出しながら、しみじみとその名前を呼んでみる。

「食べましょう、一緒に!」

わずかに回復してきた力をありったけ込めて言うと、先輩は目を一度大きく見開き、すぐにフ、と小さく吹き出した。

「ああ」

お腹の中に収めた餅のおかげなのか、先輩の声に少しだけ芯が戻ったような気がした。

学園の食堂で、食材が湧いて出てくるわけではないこと。学園が、私たちのためにどれだけの力を尽くしてくれているのか。
それが分からないほど、私は子供ではなくなった。どれだけの力があの学園で作用して、私たちが生きているのか、もうちゃんと世の中の仕組みを理解できている。

でもねえ、先輩。
先輩が学園のことを想ってくださっているのと同じくらいに、学園は先輩や、卒業していった先輩方のことを想っているんです。
だから、先輩。
一緒に、学園でご飯を食べましょう。先輩の元気が出るように。
きっと私だけじゃない、学園そのものがそう思っているはずだから。

「あ、おい、見てみろみょうじ」

先輩は弾んだ声で私の名を呼び、東の空をまっすぐに指差した。

遠くで穏やかに波打つ黒々とした山脈の奥から、白み始めた藍色の空を押し上げるような朝日が登ってきていた。
透き通った橙色の光の筋が、扇がゆっくり広がるように空を彩りはじめる。

朝がやってくるのを、1日の始まりを、これまで何度も見ているはずだ。
なのに、いつもその光は、日々生まれ変わっているかのように美しい。
こっそりと盗み見る先輩の横顔は穏やかで、白い肌が眩しく思えた。

「そうだ、みょうじ!」

パッと顔を明るくした先輩は、不意にこちらを向いた。
こそこそ横顔を見ていたことに若干の後ろめたさを感じたが、しかし先輩はそのことに気づいていないのか、どうでもいいのか、分からないが、とにかく愉しげに話しはじめた。

「この間な、フリーの忍び仲間と火薬の調合の実験をしていたのだが、そいつが火薬の配合を間違えてな」
「え、それってめちゃくちゃヤバイのでは?」

先輩にしては脈絡のない話だと思いつつ、相槌を打つ。

「ああ、けどな、それが面白い光り方をした。試しで使ってみたら緑色の炎が上がったんだ」
「み、緑!?」

ていうか、試しで使わないほうがいいのでは、とか言いたいことは色々あったが、先輩が心の底から愉しそうに、まるで子供のような笑顔を見せたものだから、そんなものはすぐ喉の奥に引っ込んでいった。

「今、空の色の変わりように感動したおかげで思い出せた。あれは楽しかった」

口元に手をやり、肩を揺らして笑う先輩の顔は、学園にいた頃のものに戻っていた。
真面目に物を言っていたかと、思ったそばから人をからかって笑ったり、かと思うと片眉を吊り上げてムッとしてみたり。
そういう、意外と茶目っ気のある、立花仙蔵先輩の顔だった。

「お前にも見せてやりたかったな」

愉しげな笑みの一欠片が残る、穏やかな表情を向けられて、なぜだか無性に泣きたい気持ちになった。

この人が、少しでも楽しい気持ちで生きていけたらいい。
美味しいご飯を食べたいとか、誰かに会いたいとか、空を見上げて綺麗だと思ったりとか、そういうことを忘れずに生きてほしい。
どうせ辛いことばかりの世の中だ、ほんの少し、少しだけでもいいから。
この人が『立花仙蔵』として生きていける日々が、少しでも長くありますように。