好きも嫌いも、人の情である。

厄介かつ面倒なことに、人の身を得た自分にも、人の身を得たその日から、そういう類の感情は次々生まれていっていた。
畑仕事はやりたくない、畳でごろ寝は至福。とりあえず働きたくない、日向の縁側でかじる煎餅は最高。
と、そんな具合で、好きも嫌いも幸せも苦手も、そのどれもが日を追うごとにどんどん増えていっている。

「まさかあの明石くんが、主にお土産なんてね」

長船の祖がやたらと嬉しげに声を弾ませたものだから、思わず眉間に皺が寄った。
そりゃもう深い谷みたいな皺ができた明石の眉間にぎょっとして、燭台切は困惑の汗を頬に垂らした。

「え、何だい、その顔は……」
「や、主はんのためというより……蛍丸のためなんやけど」

真っ白い箱から大きな皿へと1ホールのアップルパイを移動させながら、明石はほとんど投げやりに答えた。

「あれ、そうなの? 僕はてっきり主へのお土産かと」
「昨日テレビで、なんやどこぞの店のえろううんまいアップルパイの紹介〜的なもんがやってまして。それ見てな、蛍丸がえろう目ぇ輝かしてましてん」
「そっか、それでアップルパイを」
「買うてきてみたはええけど、蛍丸、今愛染らと一緒に遠征中ですやん。せやから、とりあえず主はんに思て」
「なるほどね、そういう成り行きかぁ」

明石の話に合点がいったのか、燭台切はうんうん頷きながら、鼻歌まじりで流し台のほうを向き直り、夕飯の仕込みに戻った。まだ3時前だというのに、刀の数が多いこの本丸で手の込んだ料理を作ろうとすると、この時間からの仕込みが必要になる。らしい。時短料理派の自分には想像もできないが。
さて、と気を取り直して、明石は自分が買ってきたそれをまじまじと眺めた。

なんや、亀みたいですやん。
格子模様のパイ生地がきつね色にてりてりと輝くアップルパイを前に、本丸の池で悠々自適なザ・何もしないライフを満喫している大きな亀のことを思い出した。
大きな皿の真ん中にでんと鎮座している様は、まさしく池の真ん中の岩の上でどっかりと腰を据える、ふてぶてしい表情の亀そのものだ。
この、亀の甲羅のようなパイ生地の中には、旬真っ只中で収穫された大きなリンゴが詰まっている。黄金色の実がひしめき合って、はち切れそうなくらいに、そりゃもうぎゅうぎゅうなのだ。

「それよりもなぁ、燭台切はん」
「ん?」

パイの真ん中にざっくりとナイフを入れながら、明石はおもむろに口を開いた。

「あの明石くん、いう言い方はトゲがありますなぁ。何ですのん、自分が気ぃきかんみたいな」
「あはは。いやいや、だって明石くん、普段あんまり主と話してる様子もないしさ。ちゃんと仲良しだったんだって、安心したんだよ」

さやいんげんのすじを手際よく取りながら、燭台切は声色を明るくした。

別に、そこまで仲が良いわけではないと思う。主と仲が良いのは、どちらかというと蛍丸や愛染のほうだった。自分はそのついでで主と二言、三言の言葉を交わす程度。
だからといって嫌いなのかと聞かれたら、別に嫌いではない。
それより何より自分は、蛍丸や愛染が楽しそうにしていることが一番だった。人の身を得たその日から、来派の刀たちの保護者として在る自分にとっての幸せとは、常に彼らの幸せありきだったように思う。この世に生まれたのが一番早かった、という単純な順列で、まるで人間でいうところの兄のような、保護者のような立ち位置になってからというもの、その考え方は一ミリも揺らいでいない。
家族などという人間の概念、あるいは人と人との一つの繋がり方が、物である自分たちに生まれたことが、案外嬉しく思えている。
しかしまぁ、そういう感情を表に出す方では決してない分、結構損をしていることがまあまああると、一応自覚はしていた。
蛍丸と愛染、二人の中心にいる主が楽しそうにしているのを見るのも、案外嫌いではないと思っているのだとか、そういうことも多分伝わってないと思う。

「ま、別に伝えたいとも思わへんけど」
「ん? 明石くん何か言った?」
「いーえ、何でも」

気まぐれなひとりごとに律儀に反応した燭台切に軽く返事を返しながら、切り分けたアップルパイを小さな皿へ移した。



「保護者の名は伊達じゃないね」

主にアップルパイを持っていって、いの一番にそう言われた。

「は……?」
「私の、少し大きいほうをくれたでしょう」

言いながら、主はカットしたアップルパイの乗った白い皿2つを並べ示した。
そうして並べられると、それぞれの皿の上に乗った四分の一サイズのアップルパイがうまい具合に等分されていないのは一目瞭然だった。
改まって言われると若干気恥ずかしいことをさらりと言われてしまって、何となく気まずい。視線だけを真横を逸らして適当な言い訳を述べようとしたが、それより先に主が口を開いた。

「私にも兄がいるからね、こういう優しさは兄を思い出す」

嬉しげに目を細めた主は、アップルパイにフォークを入れ、特別大きいアメ色のリンゴがごろりと入った部分をすとん、すとん、と切り分けた。
バランス良くフォークの上に乗せたそれを、自分の皿から明石の皿へ移す。

「はい」

あげる、と優しい声色で言われて、明石は二回、三回と素早く瞬きをした。

「実の兄には気恥ずかしくて出来なかったお返し、明石に出来たのは何か嬉しいな」

屈託ない笑顔で言われて、なんとなく居心地が悪くなったような気がした。
なおも「兄も夕飯のハンバーグ、大きいほうを譲ってくれてたんだ」とか「歳が離れていたからかなぁ」だとか、しみじみと思い出に浸っている主の笑顔を見ながら、明石は「兄」と言われたことについて、頭の中でふつふつと考えていた。

「主はん」
「ん?」

唐突に呼びかけられて、主は不思議そうに小首を傾げた。

「これは有り難くもろておきますけど」

フォークで、主の皿から自分の皿に移ったアップルパイの切れ端を指し示す。

「自分は主はんの保護者になった覚えはあらしまへんなぁ」

何となく突き放すような言い回しになったことに、言ってから気づいた。
一瞬、主の瞳の奥が揺らいだ。主の顔からゆっくりと明るさが失われていくことにも、嫌でも気付く。
フォークをわざわざ皿の上に置き、手を頭の後ろに持っていく仕草が、気まずさを後ろ手に隠すみたいに見えた。

「そうか、そうだね。悪いことを言った。ごめん」
「や、別に謝らんでも……」

自嘲混じりな主の言葉に若干口籠もりながら、明石は言葉を探すように視線を宙に彷徨わせた。

「や、のうて……」

前後の繋がらない言葉を発して、しかしようやく自分の言いたい言葉に手が届いた気がした。

「主はんは自分と仲良いと思てます?」
「は?」

やっと掴んだ言葉をそのまんま外へ引っ張り出したら、何となく無遠慮な言い方になってしまった。が、一旦外に出したもんは引っ込められない。もう、このまま腹を割って話すしかないのだと、諦めに近い感情が湧いた。

「いや、さっきこのアップルパイ準備してる時、燭台切はんに言われましてん。主はんとちゃんと仲良うて安心した〜て」
「はあ」
「けど自分、そんな言うほど仲良うはなれてないやん思いまして」
「……ほお?」

一度諦めがつけば、意外とすんなり言葉が続いた。

「主はんは、どない思います」

よくもまぁこんな恥ずかしい話が出来たもんだ、と内心で苦笑した。蛍丸たちがいたら、とても出てこない言葉だと思う。
自分は、この人に何と答えて欲しいのだろうか。「私もそう思ってた」と、同意でもしてほしいのだろうか。それとも「それは違う」という否定か、「これから仲良くなろう」だとか、前向きな言葉か。
そのどれもがしっくりこない自分は、多分ただ一つ、この人が発する言葉だけを待っている。

「私は……」

問われて以降、ずっと考え込むように人差し指で顎をさすっていた主がおもむろに口を開いた。

「今日は、明石とたくさん話が出来たから良い日だと思ってる。明石と二人で初めて会話が出来た。これもなかなか楽しかった」

まさかあの明石がアップルパイ持ってきてくれるなんて思いもしなかったから、と余計な一言を言い添えて、主は眉を下げながら、控えめに笑ってみせた。

「私は明石のこと、結構好きなんだよ」

はっきりと言い切られて、いっぺんに肩の力が抜けていくような、萎んでいくような心地がした。安心と納得の中に、ほんの少しの後ろめたさが混じっている。
はっきり言われた「好き」という言葉の意図するところは間違いなく親愛である。そこに安心して、かつ「そうだろうな」と納得もして、しかしそこに少なからず引っかかっている自分もいるのだと、気付いてしまった。
永遠に気づかなくても良かった自分自身の底の底の事実を、自分自身で発掘してしまったのだ。やってもうた。と思った時には、時すでに遅し。墓穴を掘るとはよく言ったものだ。

「このアップルパイ、シナモン効いてて美味しいな。明石も食べてみなよ」

こちらの気も知らず、主はのんびりとアップルパイを頬張りはじめた。
促されて、肩の力が抜けた拍子にズレたメガネを直しもせず、アップルパイの端っこをちまちまとつついて口に運んだ。

「……ちょっと苦ない?」
「そうかな、私はちょうどいいけど」
「ほーん、そらええことで」
「投げやりだなぁ」

呆れたように笑う顔をぼんやり眺めながら、何となく取り返しのつかないことをしてしまった気になっていた。
ほんの少し前まで、蛍丸と愛染、二人を挟んだ距離にしかいなかったはずのこの人、みょうじなまえの表情が、随分近くなってしまった。その距離の違いは多分こちらが一方的に感じているもので、その上さらにもう引っ込みはきかないときた。なんて厄介で面倒くさい感情を掘り当ててしまったのだろうか。
この身と心が生き続ける限り、きっと、ずっと確かめるように向き合っていかなければならないこの感情は多分、少し苦い。