※番外編「ぽつん」からひと月ほど後の話

8月も半ば、ちょうど暑さの盛りの時期を迎えて、頭のてっぺんに降る日差しは髪の毛一本一本を焼きつけるように熱い。
夏至を境に少しずつ日が落ちるスピードが早まってはいるものの、午後の5時を過ぎても盛んな太陽のせいで、祖母の家がある田舎の小道はとても夕方とは思えないほどの明るさだった。
なまえは、手桶にたっぷり汲んできた水を、柄杓で一杯掬い上げた。この暑さの中、溶けた飴のようにも見える水面に輪っかの波紋が広がっていくのが愉快だ。
靴底を焼くような熱さでもうもうと熱気が沸くアスファルトに、柄杓で汲んだ水を思い切り撒く。ぴしゃん、という音と共に、アスファルトの上で水が元気に跳ねる。かんかん照りの中、仄白くすらなっていたアスファルトが、息を吹き返すみたいに色を濃くした。
水が跳ねる様子と、その音。
涼しげな景色に、ほっと肩の力が抜けた。
気を抜くと暑さでくらくらしそうな炎天下のもと、打ち水はやって楽しい見て楽しい、通る人らもちょっぴり涼しい、と良いことずくめだ。

休みの日、祖母の家に遊びにきたのだが、いま祖母はご近所さんに野菜のお裾分けをしに行っている。留守の間の暇を持て余し、気まぐれに始めてみたことだったものの、意外な楽しさでちょっとハマってしまいそうだ。
昔の人がこれで夏を乗り切っていたなんて、と信じられない一方で、ちょっとだけでも効果はあったんだろうな、と納得もできる。もちろん昔と今とでは気温が違いすぎるから、今の私たちにクーラーは必要不可欠だけど。

さあ、もう一杯。
なんだか妙に楽しくなってきて、柄杓にたっぷりと水を汲み、勢いよく水を宙へ放った。

「え゛」
「あ」

ぱしゃ、という、アスファルトにぶつかるよりも鈍い音に、低い悲鳴が被さった。
柄杓で水をふん撒いたままの格好で固まるこちらに、苦笑いで視線をよこすのは。

「ご、ごめんなさい留三郎さん!!」
「いや、いいけど……ふ、ははっ、びっしゃびしゃだ」

なまえに水を浴びせかけられたおかげで、カーキのスキニーの膝から下がびしょ濡れになった留三郎は、怒るでもなく、むしろ不測すぎる事態が心底おかしいのか、眉を八の字にしたまま小さく笑い続けている。

「今日はずいぶん元気なんだな」
「す、すいません本当に! わあ、どうしよう……とりあえず上がってください!」
「はは、悪いな」
「いやもう、悪いのはこっちですよ……!」

ほとんど無理やり背中を押すようにして、なまえは留三郎を玄関まで通した。

「今、タオル持ってきますから!」
「ああ」

バタバタと慌ただしく洗面所に向かう背中に「慌てて転ぶなよ」などと、からかうような声が投げかけられたので、恥ずかしくて余計に足が早まった。
ああ、もう。またやってしまった。去年の夏も留三郎さんに迷惑をかけたのに。そうだ、去年の夏祭りでは転んで足に怪我をして、留三郎さんに背負ってもらったんだった。慌てて転んで、また失態を見せる、なんてことには絶対にならないようにしなくては。
去年の夏のことを思い返しながら、それらの記憶がいちいち鮮明であることに、いちいち嬉しくなってしまう。足を挫いたり、いいことばかりではなかったけど、あの時があっての今なのだから。

この一年間で変わったことはいくつもある
二人で会って、たくさん話をするようになった。
食満さん、と呼んでいたのが、一年経って留三郎さんに変わった。
同じ想いを抱いていることが分かって、それを伝え合うことが出来た。

そういう変化は、全部あの夏のことがきっかけだ。あの夏からまた一年が過ぎようとしている。
一週間後、またあの場所でお祭りがあるのだ。



肌に馴染む、着心地の良い浴衣だ。
留三郎は内心で感心しながら、袖をつまんでみたり、襟元を触ってみたりして、生地の滑らかさを指先で味わった。風通しが良いそれを着ているおかげか、日陰の縁側にいるとそれなりに暑さがマシになる。
この浴衣は、濡れた服を乾燥機で乾かす間に着るよう、なまえが持ってきてくれたものだった。なまえの祖父が祭りの時には必ず着ていたものらしく、数年前に亡くなった祖父が使っていた箪笥を慌てて漁り、その奥から引っ張り出してきたのだそうだ。同年代の男の人と比べると少しばかり体格の良い人だったそうで、そのおかげか、着丈も留三郎にぴったりだった。

「祖父の浴衣、サイズちょうど良いみたいですね」

ほっとしたような声のほうを振り仰ぐ。
氷をたっぷり入れた麦茶と団扇を両手に持って戻ってきたなまえは、縁側に腰掛ける留三郎の元へ歩み寄った。

「悪いな、わざわざお茶まで」
「いえ本当、悪いのは私のほうなので……」

くう、と申し訳なさげに眉間を狭くさせながら隣に腰を下ろすなまえの様子に、留三郎はおかしそうに肩を揺らして笑った。

「打ち水する時はちゃんと周り見てないとだめだぞ」
「以後気をつけます……」
「うん、よろしい」

俯きがちななまえの頭をそっと2回、からかうようにぽんぽんと叩いた。頭から手を離しても、なまえの顔は上がらない。表情が見えづらい代わりに、耳まで赤いのはよく見えたので、それで全部伝わってきた。
こうして自然に触れることができるような距離感に至るまで、随分遠回りをしてきた。何度も間違えて、後悔をして、ようやく自分はこの人の隣にいられる。
昔に出会った時から、なまえが漠然とした寂しさや不安を抱えていたのは、なんとなく気付いていたかもしれなかった。それらを分かった上で、ほんの少しずつでも近づけたら良いと思った。その感情を解いていきたいと思った。
今度はもう、ちゃんと全部言葉にして、話をするから、と。

「今日はお祭りの準備してたんですよね?」
「ん? ああ、そう。もう一週間後だしな、少しずつ用意しとかないと」
「今年も楽しみ。去年は足怪我しちゃったから」

言いながら、なまえは麦茶と一緒に持ってきた団扇を手に取り、ぱたぱたと仰いだ。こちらに風が来るように、団扇をこちらに向け、静かに風をおこしてくれた。
生温い風に頬を撫でられて、まさか寒い訳でももないのに、肌が粟立つ。自分の中の、ありもしない記憶の一部分と目の前の景色が重なった。
夏の夕時、団扇がゆるやかに動く様子、音、頼りないなまえの手首。
目に焼き付けたまま何百年も抱えてきてしまったかのような、普通の、幸せな風景。

「留三郎さん?」

押し黙ったこちらの様子を訝しく思ったのか、なまえは不思議そうに数回、瞬きをした。
首を静かに振って、柔らかく瞼を下ろした留三郎は、笑いまじりの短いため息をついた。

「いや、ありがとな。なまえ」

ずっと呼びたかった名前を、当たり前に呼ぶことが出来ている。
この瞬間も、景色も、間違いなく今のものだ。体の奥底から湧く温かな気持ちも、間違いなく。
ゆるやかに瞳を開くと、顔が茹で上がっているなまえが、目を見開いたまま息が止まったみたいに固まっていた。

「顔赤いぞ」
「えっ」
「はは、ほら。貸してみろ」

声色を明るくして、留三郎は石みたいに固まったなまえの手から、団扇をぱっと奪った。
なまえがしていたよりも少しばかり勢いをつけて団扇を動かし、真っ赤になったなまえの顔めがけて風を送る。

「わあ、強風」
「涼しいだろ」
「涼しいけど髪ぼさぼさになりますよ〜」

半笑いで前髪を抑えるなまえが、留三郎はこの上なく愛おしいと思った。
二人で笑い合える時間は、こんなにも容易く作り出せるものだったのだ。自分が一歩踏み出せれば、こんなにもなまえを近くに感じられた。
きっと、ずっとそうだった。ようやく得られたこの時間を、もう絶対に手放したくない。
そういう思いで、留三郎はなまえの前髪に手を伸ばし、少し乱れたそれを軽く整えてやった。

「祭りの時さ、また一緒に花火見ような」

時折額に触れる指先に緊張していたなまえは、留三郎の言葉に数回瞬きをして、それから肩の力の抜けたような顔で笑った。

「ええ、ぜひ!」
「あー、暑いしかき氷も食べたいよなぁ」
「そうですねぇ。あ、もちろん太鼓も楽しみにしてますからね」
「ああ、見ててくれよな」

次に会う約束が出来る。
未来の話が出来る。
ただそれだけで、どうしようもなく浮き立ってしまう。

暑さを忘れるほど賑やかな祭囃子や、心臓を揺らす花火の音。胸の高鳴りを後押しするような夏の音の中、声が聞こえる距離にお互いがいる。
そういう景色を、きっと二人とも願っている。