息を吸い込むと喉の奥がひんやりするような、秋晴れの午後。

医務室を出て戸を閉めた私は、すぐさま踵を返して忍たま長屋に向かった。
潮江から善法寺へ、言伝を預かったのだ。
六年忍たまがクラスごとに異なる日程で行う校外実習が、明日より開始するらしい。潮江曰く、トップバッターはい組なのだそうだ。その準備で忙しいからと、慌ただしい雰囲気を隠すことすらしない潮江にまんまと捕まり、半ば無理やり頼まれてのことだった。
しかし、探すとなると何故だかなかなか見つからないのが探しものというやつらしい。医務室に行けばいるんじゃなかろうか、という目論見を呆気なく外し、今度は仕方なく長屋の一室を目指している。

ええと、『補正予算申請の件、保健委員だけ特別は認められん。諦めろ』と。
言伝を忘れないよう、頭の中で何度も潮江の言葉を思い出し、廊下が軋む音に乗せて反芻する。
くのいちのたまごたるもの、預かった情報を口に出してなぞるのは言語道断。なぞるのは、あくまで自分の頭の中だけで。

そうしてようやっと辿り着いた六年は組の部屋には、人影一つすら無かった。

「ハズレかぁ……」

ため息まじりに独り言ちながら、誰もいない部屋へ勝手に足を踏み入れる。せめて食満がいれば、善法寺がどこにいるか分かったかもしれないのに、生憎その期待すら打ち砕かれた。
こうなっては仕方ない。
壁際に寄せられた文机に歩み寄って、机上に置きっぱなしになっている紙と筆を拝借する。
善法寺、だか食満のだか分からないけどごめん。借ります。でも探してもいないそっちも悪い。
理不尽!! という善法寺の叫びがどこかから聞こえてきそうなことを頭の中で呟きながら、勝手に墨をすり、筆先にちょい、と吸わせた。

「えーと、『補正予算の件、保健委員だけ特別は認められん、諦めろ』と……」

筆を走らせ、善法寺に伝えるよう言われた言葉そのままを紙に記した。
最後の仕上げに、潮江、と書き添える。

潮江。
改めて書き文字で眺めてみれば、縦に二つ並んださんずいが涼しげな名前だと不意に気づく。
六年にもなって今更だが、おそらく何度も何気なく呼んでいたこの名前が、こうして書き記してみると、とても綺麗なものに思えた。

「みょうじさん、いつから潮江姓になったの?」
「善法寺」

足音はほとんど立てずに背後までやってきたらしい善法寺が、私の手元をひょっこり覗き込んだ。

「まず最初に注目するところがそこなのおかしいでしょ」
「ええー、だってみょうじさん、ひょっとしてそういう……文次郎と名字が同じになる感じの……?」
「違う。違うから。潮江からの伝言って意味」

大袈裟な困り汗を垂らしながら下世話な勘違いをしていた善法寺は「なーんだ、そっか」などと声色を明るくし、人差し指で頬を掻いた。善法寺は動作がいちいち能天気で、一緒にいると何となく気が抜ける。

「でも、潮江って良い名だよね」

善法寺のほうへ向けていた視線を、改めて紙面に戻した。墨で記した二文字の並びを、指の先でそっとなぞる。

「凛としてる。生まれた瞬間からついてくる名がこれって、ちょっと羨ましい」
「そうだねぇ」

確かに、と善法寺は浅く頷いた。

「僕はずっと文次郎って呼んでばっかりだったけど、確かにかっこいい名字だ」
「まぁ善法寺って名字も相当かっこいいと思うけどね」
「そうかなぁ? え、本当にそう思ってる?」
「うん、半分ほんと」
「ええー、もう半分は?」

善法寺の不満げな抗議を半笑いで流して、伝言を記した紙を押しつけた。

「はい、善法寺に潮江から伝言。予算ムリだって」
「やっぱり駄目かぁ。駄目でもともと! と思って申請書出してみたんだけど、やっぱり厳しいなぁ」
「金勘定に関して厳しいのはある程度仕方ないけどね」
「まぁね、文次郎はそうでなくちゃね」

わざわざ伝言ありがとう、と眉を下げながら笑う善法寺に軽く手を振り、部屋を出た。

さて、これにて任務終了。
自室に戻ってお勉強でもするかと一瞬考えて、肌に当たる日の光の暖かさに、すぐその気持ちは萎れていった。ここしばらく曇り空が続いていて、今日は久しぶりの晴れの日だ。わざわざ部屋にこもることもあるまい。
長屋の廊下を歩きながら、ふと思い立って、庭へひょいと降り立った。
一つ、思いきり伸びをして、腰を伸ばしながら辺りを見回す。地面に落ちていた筆サイズの枝に目を留め、しゃがみ込んでそれを拾い上げた。
手に握ったそれで、乾いた土をざりざり言わせながら文字を記す。

潮江文次郎。

名前には、その人そのものが宿っているような気がする。
人が生まれてから、おそらく初めて人から与えられるもの。長い人生の中、生きているうちに何度も何度も、数え切れないほどに呼ばれる、名前というもの。

けれど、私たちは忍びだ。世に憚らず、忍ばなくてはならない存在だ。
私たちは、後に名前を残すことをしてはいけない。時に名を偽り、名を捨てながら仕事をする。人を偽ったり、自分を捨てたりしながら生きていく。世界が回るために、どこかの誰かが生きるために、私たちはそうして人の記憶に残らないよう、働かなくてはならない。

「何してるんだ」

訝しげな声に振り返ると、眉間に皺を寄せた潮江がこちらを見下ろしていた。

「校外実習の準備で忙しいんじゃなかったっけ」
「自分の名前が地面なんぞに書かれてたら気になって足止めるだろう、普通」

言いながら、潮江はどっこいしょ、と年寄りくさい掛け声と共に、私の隣にしゃがみ込んだ。

「いや、善法寺ともさっき話してたんだ。良い名前だなって」

地面に書いた名前の、さんずいが二つ並んだところを、一年生の授業をする先生のように枝で示す。

「涼しげだし、さんずいに朝の『しお』っていうのも爽やかだし」

潮の字をぐるぐると丸で囲う。
「海そのものみたいな名前で、かっこいいよなぁって思って」と素直に思うところを付け足してみたが、よくよく考えてみたら結構恥ずかしいことを言っていることに気づき、枝を持つ手を止めた。
急に何言ってんだろう、と内心でこっそり焦りながら潮江の横顔を盗み見る。
珍しく眉間の皺が取れた潮江の、少しだけ緩んだ表情に、息が止まりそうになる。いつもより少しだけ幼くすら見える顔で、潮江は私の手元の文字だけを見ていた。

「そうだな……」

小さく呟いたかと思うと、潮江はおもむろに手近な石ころを手に取った。
その石を指先で摘み、器用に文字を記していく。潮江文次郎、と記した、その隣に。

みょうじなまえ。

「お前の名前もなかなかだろう」

俺の名前と並んでも遜色ないぞ、と弾んだ声で言われて、改めて二つ並んだ名前を見てみる。
何となくだが、妙に気恥ずかしい。
口に出して名を呼ばれることはそれなりにあれど、書き文字で自分の名前を、というのはあまり無いからだろうか、くすぐったいような気さえする。まるで潮江に、自分そのものに触れられたみたいな気持ちになっていて、自分の女々しさに自分で呆れてしまいそうだ。
潮江になんと返すべきか、言葉を探しあぐねて、その空気から逃げるように立ち上がった。

「えー、と……そうだ、善法寺にちゃんと伝えといたからね、予算のこと」
「そうか、助かった」

わざとらしく話題を逸らすと、潮江はそれに合わせるみたいに軽い調子で腰を上げた。自分で逃げておきながら、ちょっとだけ拍子抜けしたような気持ちになる。

「実習帰りにお土産買ってきてくれてもいいよ」

自分の胸のうち全部を隠したくて、軽口を飛ばす。呆れたように「図々しいな」と笑う潮江は、手に持っていた石ころを放り投げながら「けど、まぁ」と口の中で小さく呟いた。

「団子の一つくらいなら、買ってきてやろう」

ふ、と一瞬だけ目元を緩めた潮江は、静かにひそめた声でそう言った。
徐々に冷たさを増す風が頬に当たって、上がっていく体温を心地よく下げていく。

「いってらっしゃい、潮江」
「ああ」

潮江、と呼びかければ返ってくる返事が、ただそれだけで、こうも嬉しくなってしまう。

いつか、潮江がその名前を捨てる時が来たとしても。私はきっと、その名前を胸のうちで唱えるだけで前を向けるのだと思う。
いつか、潮江が名前を偽ることがあっても。私は心の中で、何度でもこの名前を呼びたい。それに潮江が応えてくれればこの上なく嬉しいけれど、私たちはまだまだ未熟で、先のことは何一つ分からない。

秋晴れの青空、冷たい風、柔らかな潮江の表情。
好きな人と、好きな人の名前と、好きな人が書いた私の名前。
土の上に刻んだ文字はすぐに消えてしまうけど、目に焼きつけたこの景色だけは、忘れずに持っていこうと思う。