あの時の気持ちが単なる憧れだったのか、それとももっと違う何かだったのか、今となってはもう分からない。
それを鮮明に思い出すには時間が経ちすぎていて、手を伸ばしても掴めない、靄のように不確かなものとなってしまっていた。



轟焦凍くんと初めてお話をしたのは、小学生の頃。

私は小学4年生の時、轟くんと初めて同じクラスになった。
とても有名なヒーロー・エンデヴァーがお父さんだという噂と、整った顔立ちも相まってか、轟くんはおそらく本人の意思とは無関係に目立っていた。それまで違うクラスだった私ですら、轟くんのことは情報としてよく知っていたほどだ。轟くんからしてみれば、よく知らない相手から一方的に認知されるのは、気持ちのいい話ではなかったと思うけれど。
そんな具合に、学校内の有名人だった轟くんとは、クラスが一緒になってからも、お話したこともなければ目が合ったことすら無かった。
当時の轟くんは、何となくいつも俯きがちだったから。
こちらが轟くんのことを見ていても、向こうから視線が返ってくることなんて一度も無い。

そんな轟くんと、ただの一度だけでも、しっかり目を見てお話することが出来たあの日は、平凡な日々を過ごす私にとって間違いなく非日常だった。

霧のような雨がそぼ降る帰り道でのことだ。
ブロック塀の曲がり角で、いつも一緒に帰る友達に手を振ったあと、ひとり水たまりを蹴りながら家路を辿っていた。汚れ一つついていない真っ赤な傘は最近買ってもらったお気に入りで、それもあって、その頃の私は雨の日にすこぶるご機嫌だったように思う。
鼻唄でも歌いたくなるような気分で歩いていると、少し先で誰かがうずくまっているのが見えた。その誰かは、自分の背中が濡れるのも構わず、目の前のダンボールのようなものに向かって黄色い傘を傾げていた。
その横顔には、確かに見覚えがあった。

「あの、と、轟くん?」

そろそろと近づきながら、おどおどと声をかけた。
こちらの存在に気付いていたのかいなかったのか、地面にしゃがみ込んだ轟くんは静かにこちらを振り仰いだ。

「わ、私、みょうじなまえ。クラスが一緒の」

まっすぐにこちらを見据える瞳に若干怖気づき、傘の柄を握りしめながら必死に話しかけた。
とりあえず名前を言ってはみたものの、轟くんは何も言わず表情も変えず、足元のダンボールの中に視線を戻してしまった。
轟くんに倣ってダンボールの中を覗き込んでみると、そこにはまだ目も開いたばかりというほどに幼い子犬が二匹収まっていた。
白と黒、全く異なる色の二匹が、まだ世界のことなど何も知らないような黒目でこちらを見上げている。

「捨て……犬?」

言うと、轟くんはようやくこちらの問いかけに応えるように頷いてくれた。

「俺の家では飼えないだろうから、傘だけでも置いていこうかと思ってた。自己満足にしかならねぇけど」

捨てるような奴らになんて、飼われなくて良かったかもしれないよな。

雨に掻き消えそうな声で言い添えて、傘を地面に立てかけた轟くんは雨の中で腰を上げた。
丸い頭やほっぺたには似つかわしくないような大人びた口調に、内心ひやりとした。
彼が常日頃から見せている、私たち普通の子どもには到底理解できないような仄暗さの一端を、唐突に見てしまったような気がしたのだ。

このままでは、轟くんが帰ってしまう。
雨に濡れながら、寂しい背中のまま。
犬のために自分の傘を置いて帰ろうとする轟くん。
学校では知ることはなかったかもしれない、轟くんの優しさ。

「轟くん、待って!」

背を向けて歩き出そうとしていた轟くんの手を、慌てて掴んだ。
驚いたように振り返った轟くんと目が合って、喉の奥で息が詰まりそうになった。

「わ、私……この子たち連れて帰るよ!」

それでも、何とか声を振り絞り、自分の不安も、轟くんの寂しさをも吹き飛ばせるくらいにと、努めて明るい声を出した。

「うちで飼えないか、聞いてみる! もしダメでも、ほかに飼ってくれそうな人を探してみるよ」

轟くんの手を、両手でぎゅっと握りしめたまま、私は必死に訴えた。
だから、轟くんが濡れて帰る必要はないんだよ。不安に思ったり、寂しい気持ちになる必要なんて、無いんだよ。

「みょうじ……」

驚いたように見開かれたままだった轟くんの目が、静かに細められた。

「ありがとう」

言いながら、轟くんは私の手を握り返してくれた。
球技が苦手で、決して器用ではない私の手とはまるで違う、男の子の手だった。



あの後、轟くんは犬の入ったダンボールを抱え、私の家までついてきてくれた。雨でふやけたダンボールの底が抜けないよう、ダンボールをしっかりと抱きかかえる轟くんに傘を差しかけながら、何とか家まで犬を連れ帰ったのだった。
結局、黒い子犬をうちで飼うことにして、白い子犬は友達のうちで引き取ってもらうことが決まった。黒い子犬は、真っ黒でふさふさでクマのようだから「熊五郎」と父が勝手に名付けてしまった。その名前のおかげなのか、熊五郎は本当のクマのように大きく元気に育った。もともと犬好きな家族ばかりだったのは、運が良かったとしか言えない。

後にも先にも、轟くんとあれほどお話出来たのはあの時くらいだ。
クラスメイトではあったけど、学校で会う轟くんはなんとなく近寄りがたくて、気軽に話しかけることは出来なかった。
そのかわり、熊五郎の散歩をしている時に偶然轟くんと会うと、轟くんは嬉しそうな顔をして熊五郎の頭を撫でていた。そういう時の轟くんは、とても優しい顔をしていた。

けれど、私は轟くんとは違う中学校に通うことになり、それをきっかけに轟くんとはどんどん疎遠になっていった。
時々轟くんを見かけることはあったけれど、轟くんはいつも冷たい目をしていた。一日一日、何事かへの怒りを絶やさず積み重ねてきたかのような冷たさが、彼の優しく柔らかなところを覆い隠してしまったように見えた。
それを私は熊五郎と共に、遠くから見ていることしかできなかった。一度遠くなった距離の縮め方が、まだまだ子どもの私には、まるで分からなかったのだ。
そうして話しかけることも出来ず、ずるずると高校生まで上がってしまった。
轟くんがあの雄英に推薦入学したと知った時、ああ、もう轟くんは手の届かないところに行ってしまうんだと悟った。
彼は、まだ進路すら定まっていない自分の道とは、交わりもしない道に進むのだ。
体育祭で大活躍をしていた轟くんを見て、住む世界が違うという現実に悲しみすら湧かず、わずかな喪失感だけが残った。



私が轟くんに抱いていた気持ちは何だったのだろう。
それは多分、きっと、もう一生分からない。

そう思っていた。
だって、もうきっと交わらない道に行ってしまったのだと思っていたから。

「みょうじ、熊五郎」

だというのに、熊五郎の散歩中、住宅街の路地で偶然出くわした轟くんは、さも当たり前みたいに私と熊五郎の名前を呼んだ。

「覚えててくれたんだ……」
「忘れるわけねぇだろ」

さらりと言われてしまって、心臓のあたりがぎゅっと締め付けられるような気がした。逸る気持ちを抑えようと、熊五郎のリードを持つ手に思わず力が入る。

「熊五郎触っていいか?」
「あ、うん! もちろん!」

熊五郎の顎と頭を挟み込むようにもふもふ撫でる轟くんは、随分と表情が優しい。眉は緩やかな弧を描いて、口元には穏やかな笑みを浮かべている。そばで見ているだけで息が詰まるような、優しい顔だった。

「えっと……体育祭、見たよ」

轟くんと話をしたい。
その一心で、何とか話題を絞り出した。

「……そうか」
「轟くんは、すごいね」

熊五郎の背中を撫でる轟くんの手が、いつか握ったあの手と同じには、とても思えなかった。

「どんどん……手の届かないところに行っちゃうんだろうなって」

幼い男の子の手は、しっかりと男の人の手になっていた。
もう、今の私には、轟くんの手に手を伸ばす勇気は無い。目の前にある手が、今の私にはとても遠く思えるから。
未だに現実感の湧かない再会に、素直に浮かれ気分になれないのは、きっともうあの時抱いていた気持ちが成就することは無いと、分かり切っているからだ。
あれは確かに初恋だった。
改めて轟くんを目の前にしてみて、ようやくあれが初恋だったのだと、薄々気づいていたそれを飲み込むことが出来た。
叶うはずがない想いだったのだと分かってしまえば、案外すんなりと受け入れることが出来た。
多分、これで良かったんだ。

「いや……」

熊五郎ばかりに視線を合わせていた轟くんの目が、小さな呟きと共に突然こちらへ投げかけられた。

「ヒーローが手の届かないところにいたら人助けられねぇだろ」

大真面目な顔で、眉ひとつ動かさず、轟くんは「手の届くところにいなきゃヒーローの意味無くないか?」とさらに天然のダメ押しをした。
しばらく呆気に取られて、だけど堪えきれなくて、私は声を上げて笑ってしまった。

「あはは、確かに! そうだよねぇ」
「笑い事じゃねぇよ、ヒーローには死活問題だろ」
「ふ、あはは、そうだね、ごめん」

轟くんの思いがけない言葉に、涙が出るほど笑ってしまった。熊五郎が不思議そうにこちらを見上げているのが余計におかしい。
私が言いたかったの、そういうことじゃなかったんだけどなぁ。でも、きっと真剣にヒーローを目指す轟くんだからこその言葉なんだね。

昔、教室で黙って俯いていたのも轟焦凍くんだった。
雨の日に、犬のために濡れて帰ろうとしたのも轟焦凍くんだった。
中学の頃、冷たい目をしていた彼も。ヒーローになるため、雄英に入った彼も。体育祭で頑張っていた彼も。
私が見てきた全部が、ちゃんと轟焦凍くんだったんだ。
 
「なあ、また熊五郎触りに行ってもいいか?」
「もちろん!」

何度も頷くと、轟くんは「ありがとう」と目を細めた。

轟焦凍くん。
私の憧れだった人。初めて恋した人。
今、とても応援したい人。ずっと、ずっと、憧れの人。

昔抱いた気持ちの延長線上にいるようでいて、少しだけ違うところに辿り着けたような感覚がした。
私はきっと、轟くんをこれまでよりずっと近くに感じられる。そのせいで辛い思いをすることも、悲しい思いをすることだってあるだろう。
それでも、私は構わない。
だからまた今度会う時も、変わらないきみのままで、私の名前を呼んでほしいよ。