真っ青な空から、太陽の白く淡い光がさんさんと降り注いでいる。彼は広い広い草原の、そのど真ん中にある池の畔で、傘をさしていた。

「三郎、何してるの」

こんな爽やかな晴天の日にまったく不相応な行動を不審に思いつつ、その横顔に声をかけずにはいられなかった。雲一つなく突き抜けるような清々しい空を映した池の前でぼんやりとしていた三郎は、ゆっくりこちらを向く。眠たげだった瞳はぱちりと開かれ、その丸っこい愛嬌のある目と、私の目が合う。今日も今日とて雷蔵の変装をしている三郎はしばらくそうして私の目をじいっと見ていたが、ふいに空を見上げる。普段から傷の絶えない、けれどすらりとした指で私たちの真上にあるお天道様を指差して、こう言った。

「光を集めてる」
「…ん?」
「お日サマの光」
「…ツッコミどころ満載なんだけど」
「お前のためにやっていることなんだがなぁ」

私のため?口にはしなかったが、訝しげな私の視線に気づいたのか。彼は意味ありげに目を細め、ニヤリと口角を上げる。

「昔、雨の日はお日様が見えなくて寂しいーって、言ってたのはどこのどいつだったかなぁ、と」
「……ここのこいつです」
「だろ」

三郎はこっちが覚えていて欲しくないことほど、いちいちきっちり覚えている。確かに言ったかもしれないけど、そんなの小さな頃の話だ。なんだって今更そんな話を蒸し返されなきゃならないんだ。
なぜか得意げな彼は、心なしか少しばかり胸を反らせて、私を見下ろす。三郎とは幼い頃からの付き合いだが、いつの間にやら追い越された背丈の差はそれから二度と埋まることはなく、彼と話す時はいつも目線を少し上げなければならない。それが少しばかり悔しく、無邪気に私を映すその瞳から、さっと目を逸す。
その際に彼のさしている傘の内側がちらりと垣間見ることが出来た。傘の色は真っ赤だというのに、その内側はほんのりと柔らかな、温かみのある乳白色に光っているように見えた。まさか三郎は、本当にこの傘に光を集めていたのだろうか?そんなまさか。

「ねえ三郎、その傘…」
「おっと、なまえはまだ駄目だ」

そう言うより早くその傘をさっさと閉じてしまい、私は結局、その傘の内側をよく見ることが出来ないままだ。

「なんで閉じるの、私のためなんでしょ?なら見てもいいじゃん」
「まだ駄目なんだよ」
「なにそれ」

三郎は、はぐらかすように笑って、さっさと歩き始める。急いでその背中を追おうと足を前へ運ぶ。けれど何故か私は、三郎のその背中に追いつけない。確かにあいつのほうが足は早いが、そういう問題ではない、奇妙な感覚だ。待って、待ってよ三郎、と言う私の声が届いているのかいないのか。三郎はくるりと振り返り私のほうを見てくれるが、ただ笑うだけだった。少しだけ寂しそうに、小さな笑いをこぼすだけだった。



もうこんな夢を、何度見ただろうか。追いつきたいのに、こんなに必死に足を動かしているのに、どうして。三郎、三郎、と、繰り返し呼んでも、何も言葉を返してくれないし、おまけにあんな哀愁漂わせた笑顔。三郎のくせに。そんな笑顔全然似合わないし、変だ。ごちゃごちゃと悪態ついてはみるが目頭に溜まったものはまだ乾かない。
寝衣から着替え、涙で腫れた目を濡らした手ぬぐいで冷やし、ボーッとした頭を切り替えようと外に出た。

三郎が死んだ。忍びとしてそれはそれは優秀だったはずの三郎は、あまりに呆気なく、合戦場でその命を落としたらしい、と。雷蔵からの文が届いて、久々に何の用かといそいそと広げて見たらこれだ。人の命がこんなにあっさりと潰えるものなのか、本当にあいつは死んだのか。文が届いて半月ほど経ったが、未だに三郎の死を実感することが出来なかった。それが事実だとしても、そんな事実飲み込むことはしたくなかった。
何が光を集めてる、だ。本当のあんたはどこで何をしてるの、三郎。

つう、と頬に水滴が滴る。あれ、私泣いてたのかな。思うと同時に、ポツ、と足元に水滴が落ちて、渇いた土にシミを作った。それを皮切りにどんどん雨粒は勢いを増していく。ぼんやりしながら歩いていたらいつの間にか町のはずれまで来てしまっていたようで、慌てて店の軒先に逃げ込んだ。湿った前髪が鬱陶しく、ペタリと引っ付く着物も邪魔くさい。空を見上げてみたが、しばらく止んでくれそうにない空模様だ。店の軒先にずっといたら邪魔になるだろうし、さっさと走って帰ってしまおうか。悩んでいても雨足は強くなるばかりだし、と覚悟を決めて軒先から一歩踏み出した。

「風邪引くぞ」

とん、と軽く肩を押されて、少しよろけながら軒先に押し返された。その、耳馴染みのある声は確かにあの旧友の声だった。傘をさすその男は、顔を隠すように傘を傾げていて、私は慌ててその傘の中を覗き込もうとした。三郎、三郎なんでしょ、叫んでしまいたいのに、喉がカラカラに乾いてしまって上手く言葉が出てこない。
男は私が傘の中を覗くのを拒むように、すっと一歩引いて、それから傘を地面に置いた。

「さ…」

三郎、と呼び掛けるより前に、彼は顔を見せないように踵を返し、ゆっくりと雨の中を歩き始めた。どうして、せっかく会えたのに、生きてたんだ、三郎、風邪引くって、あんたもそのままじゃ風邪引くでしょ。言ってやりたいことがたくさんある。慌てて傘を拾い上げ、その後を追おうと、三郎がいたほうへ顔を上げた。

「さ、三郎?」

男が歩いていった道に目をやっても、そこに彼の姿は見えなかった。

「三郎、三郎!!」

叫びながら必死で辺りを見回した。走って、路地を探して、細い裏道も長く伸びた草陰も、探して、かき分けて、隈無く彼の姿を追ったが、すでにその姿はなくなっていた。そもそも私は三郎の本当の顔は知らないのだが、それでもなんとなく分かった。三郎は、あの一瞬だけで、この町からいなくなっていた。
そう気付くや否や身体中から力が抜け、傘を投げ出しその場にへたり込んだ。道の真ん中でペタリと座り込んでいる私に向けられる視線は冷ややかで、それは分かっているのだが、どうしても心が抑えられない。悔しくて地面を叩くと泥が跳ねて、少し口に入った。馬鹿、と呟こうとしても声にならず、結局出てきたのは言葉にならない嗚咽だった。
死んだと言われていたはずの三郎は、生きていた。生きていて、私のところに姿を現した。なぜすぐに姿を消すくせに、私に存在を知らしめるような真似をしたのだろうか。別に私がびしょ濡れになろうが風邪をひこうが、三郎には関係ないじゃないか。ひょっとして、三郎がこの世にいないことを受け入れられない私自身の心が見せた幻でも見たんじゃないか、なんて考えも過ったが、三郎の残していった傘は確かにここにある。

「え…」

放り出した傘を見やると、その傘はまるであの夢の中のように淡く光っていた。今まで三郎を追いかけるのに、三郎のことを考えるのに必死で少しも気付かなかった。柔く優しい光を帯びているそれに、手を伸ばす。普通じゃない現象だが、不思議と恐怖心の類はまったく湧かなかった。立ち上がり、開いた傘をそっと頭上に掲げる。ただただ優しい光に包まれたが、それも次第に消えていき、やがて普通の赤い傘に戻っていった。三郎が何故私の前に現れたのか、ようやく分かった気がした。三郎には、いつかちゃんとお礼を言わなきゃいけない。遠くで泣いている私のために、生きているよと伝えるために、三郎は来てくれたのだ。勝手な解釈かもしれないが、何も言わない三郎が悪いんだから、あいつも文句は言えないはずだ。

土が跳ねて汚れた着物や髪の毛に今さら気づいた。三郎、あんたのせいだぞ。これもきっと、いつか伝えてやるんだ。

「待ってろよ、三郎!」

傘がまた少し、光った気がした。