押して駄目なら引いてみる。これはポケモンバトルにおいてもかなり重要な、立派な戦略である。攻撃を続けてみて、不利な状況になったら一旦相手との間合いを取り、もう一度冷静に方程式を組み立てていく。

そう、押して駄目なら引いてみる。そういう作戦がいわゆる男女間のそういうそれにも通じるということは僕も知識として頭にあった。だが、分かってはいても実践の機会も経験もなく、僕はひたすら彼女の後ろ姿を追い、追いかけ、追いかけ続けに続けて早一年。なまえさんに振り向いてもらうどころか彼女との心の距離はどんどん広がるばかりのような気配、これは僕も察することが出来た。この結果をもって僕はなまえさんとお近づきになることを諦めることも考えたが、しかし一度、引いてみる作戦を試してみて、僕の方程式に加えておくのもいいかもしれない、と思ったのだ。いかんせん僕は恋愛において連敗中というかむしろこれまでの人生において一度たりとも勝ったことがないので、このあたりでしっかり経験値を積んでおかなければならない。

そして僕は、なまえさんとの接触を絶った。なまえさんが道に迷っていようが分からないことがあって悩んでいようが大変可愛らしい格好をしていようが声をかけずに見てるだけ。
いやしかし、ずっと見ているだけの状況を続けるというのも苦しいものである。それなりになまえさんの観察を続けてきてはいるがいつもだったらすぐに案内やら解説やらにパッと出ていくところを、ただ見ているだけなんていうのは。心の奥のほうがモヤモヤして妙なもどかしさが拭えず、なまえさんより先に、まず僕のほうがおかしくなってしまったようだ。
なまえさんはというと、特に何か変化があるようには見えない。彼女に押して駄目なら引いてみる作戦を決行して半月ほど。少なくとも今まで、確実に週2回は声をかけていたから、少しは異変に気付くとか、コウヘイくん何かあったんじゃ…どうしよう!てな具合で心配するとか。
あったって、いいじゃないですか。距離を取っているせいで表情全てを読み取れるわけではない。しかし彼女は落ち込むわけでも心配するでもなく、ただいつものようにひたすら前に進む。今だって草影から彼女を見ているが彼女に変わりはなく、いつも通り、パートナーであるレントラーをナデナデしている。嗚呼いっそ僕だってレントラーになりたい。そしてバトルのたびに「いけっ!」って命令されたい。バトルが終わったらお疲れ様って笑いかけられたい。

まあなんというか、結果的にこうして僕だけが変な気分になっただけだった。眼前に広がる変わらぬ景色に、どうしようもない虚しさが襲ってきた。
これはもう、やめるべきじゃないか?こんな不毛なことは今すぐやめるべきだ。いっそなまえさんに声をかけてしまえと思ったが、あまりに彼女の中の自分の存在が小さすぎて、そんな気もすぐに萎んだ。
やめてしまいましょう。世界は広いんですから、彼女とは別の、世界のどこかにいるであろうステキに強く麗い女性を探せばいいんですよコウヘイ、そうしましょうコウヘイ。
なかば躍起になりため息を吐いて、数メートル先の彼女に気づかれないよう、重い腰を上げようとした。

「そういえばあの、突然現れては妙なことを言うメガネの少年、覚えてる?」

突然耳に飛びこんできた彼女の言葉に思わず飛び出しそうになるのをなんとか堪え、慌てて頭を引っ込め聴覚を研ぎ澄ましまくった。
それ、ひょっとして僕のことですか。僕の話なんですか。彼女の隣にいるレントラーはこくりと頷いている。

「なんだか奇妙な少年だったね、あの子」

頭上から何か重いものが落ちてきたような感覚がした。空気とか言葉とか、目には見えない何かが僕の頭に思い切りのしかかってきたような、そんな感じ。
奇妙な少年という微妙すぎる評価に想像以上のショックを受けた僕は、しばらく動けそうになかった。彼女たちの小さな笑い声を右から左へ受け流しつつ思った。僕は一体何をしているんでしょうHAHAHA。渇いた笑いを心の中で零し、しかし次に彼女が零した言葉は意外なもので、僕はまた固まった。

「でもあれだね、彼がいないと旅が物足りなく感じる」
「なんだかんだ知り合ってから長いこと経ってるし」
「なんなんだろうね、この気持ちは」
「人のことを言えないくらい、私もおかしくなってしまったかな」

ぽつりぽつりと、まるで小雨のような言葉の粒が僕の心の中へ染み込んで、僕の中のモヤモヤと溶け合って、混ざり合って、丸く温かい何かに変わっていった。
僕も思わず考えた。なんなんだろうか、この気持ちは。

「コウヘイくんは今、どこで何をしているんだろうね」

久しぶりに彼女の声で名前を呼ばれたことで僕はもう耐えられなくなって、ガサリと盛大に音を立てて立ち上がった。その音に肩を揺らし、振り返ったなまえさん。見開かれた大きな目にはきっと僕が映っている。彼女のレントラーも僕を見ている。
ただただ呆気に取られるなまえさんに、本当に勢いだけで立ち上がった僕。どちらが先に動くのだろう。
ポケットの中のモンスターボールがカタカタ揺れて、僕に「動け」と背中を押す。