鳥になりたい。

非現実的極まりなく、小さい子供が一度は考えるようなありふれた絵空事である。それでも、どうしても考えてしまう。太陽の光をいっぱいに浴びて、狭い町を飲み込むように広がる青い空を背に、目一杯に羽を広げる彼らはまさに自由の象徴だ。

「オイオイ、なんだその目はよォ」
「それはあちらのお客様に用意したものです。あなた注文してないじゃないですか」

小さな町にしてはそれなりに広さのある、港近くの酒場。私が働くその店は、土地柄か明らかに町の人ではないようなガラの悪い連中が集まっては宴をする。多分、海賊だ。たまに手配書の写真と同じ顔を見ることもある。
日は落ちかけて、空は深い藍色に染まり夜を連れてきて、店の中は人で溢れかえり休む間もなく動き通しだった。そんな中にやたらと横柄な態度のおっさんがいたのだが、これがまたタチの悪い客だったのだ。別のお客さんが注文した酒を運んでいる途中、それをひったくるようにして奪って飲み干すのである。それを10回20回と繰り返すものだから大概にしろと、ごくごく当たり前のことを言ったのだが、結果、絡まれた。
下卑た笑みを浮かべながらずい、と顔を近づけられた。なんだその目は、あたりで唾がかかった。最悪だ。店主は完全に見ないふりを決めていて、いつの間か私は目の前の男の手下らしき奴らに完全包囲された。

「酒が不味くなっちまうだろーが、どう責任とってくれんだ、よ!!」

バシャン!と勢いのある水音がしたと思ったら、髪から何か滴った。というか、胸から上は完全にびしょ濡れである。口の周りを舐めたらほんのりと苦い風味が鼻に抜けた。ようやくジョッキ一杯分のビールを掛けられたことに気づいたのはその時だった。

「おい、なんか言うことがあるだろ」
「船長こいつ女っすよ、連れてっちまいますか」
「そりゃあいい。おい女、ついてこい。可愛がってやるからよ」
「お断りします。ていうか絶対イヤですね」

可愛がってやる?気色悪いったらありゃしない。ゾワリと寒気がして、全身鳥肌がたった。鏡見て物言ってください、という一言はなんとか飲み込んだものの、絶対イヤだという発言ですでにアウトだったらしい。顔に青筋を浮かべて切れそうな血管を浮き上がらせ、怒りで震える手を懐に入れた。さすがにまずい、と感じ取れたが為す術はなく、やはり出てきたのは銃で、その銃口は私に向けられていた。
ああやってしまった、人生終わったかもしれない。思いながらもやはり見て見ぬフリを決め込む店主を軽蔑を含んだ目で睨んでみたが、気づくはずもなく無視を決め込まれた。

いつもそうだった。私が働きに出てきた時も、とにかく無関心で、早くに両親を亡くした私にしてみればとにかく生きるためだけに、金のためだけにこの店で働き続けた。
鳥になりたいと思った。鳥になって、自分の見たことのない世界を自由に見てまわって。そんな風に生きたいと何度願っただろうか。

「俺は優しいからなァ、今なら訂正させてやる。頭地面に擦り付けて命乞いしたら許してやるぜ」
「…しません」
「…そうか、それが答えか。だったら」

死ね!という言葉とともに銃声が響く。ギリッときつく目を閉じた。言われなくても撃たれたら死ぬわ、とか、死んでもいいとは思っていなかったし、やっぱりこんな町出ていって色んな世界を見たかったなぁ、とか。妙に冷静に考えていたのだが、死というものは意外とあっさりしているのか、まるで痛みも感じない。即死って、ある意味救いだったかもしれない。さて死後の世界とは、とそっと目を開けると、そこにはさっきとほとんど変わらない状況が広がっていた。周りは賊に囲まれているし、おっさんは銃持ってるし。少し違うのは、おっさんが銃を持っている腕を捻りあげているお兄さんがいることと、店主が泡を吹いて倒れていることだ。弾が当たった跡がそのすぐそばにあるから、きっと弾が当たりそうになったんだ。血は出ていないし。ヨカッタネ。

「女の子に向けて銃ぶっ放すって、さすがに見過ごせないな」
「あ?テメェにゃ関係ねーだろうが」
「海賊がみんなこんなだなんて思われたくないんでね」

落ち着いてよく見たら、このお兄さんは注文した商品をおっさんたちに奪われていたグループの中の一人だ。カジュアルでPENGUINと書かれた可愛らしい帽子なんか被っているから、海賊だなんて少しも思わなかった。目元は深く被った帽子に隠されて見えそうで見えないが、口元は余裕そうな笑みが浮かんでいる。体格にはだいぶ差がある。おっさんのほうがガタイはいいし力もありそうだ。いくら海賊だからって、関係のない人を巻き込む訳にはいかない。さがってくださいと手を伸ばすとそのまま腕をさっと捕まれ、思いきり引っぱられた。ペンギンのお兄さんは私の手を掴んだままぐいぐい引っ張り続け、店の外まで私を連れ出した。突然のことに頭がついていかず、手を振り払ってお兄さんを見やる。

「な、なな……とりあえず助けてくださったことはお礼を言います!でもなんなんですかいきなり!なんでお店の外…あ、あのおっさんなんとかしないと…!」
「ああ大丈夫、あのおっさんなら俺の仲間がなんとかしてるから」

お兄さんは慌てふためく私をよそに相変わらず笑顔でお店を指差す。確かにお店の中はかなり騒がしく、何かが壊れる音やガラスの割れる音が響き、店の窓からおっさんの仲間らしき人が飛び出してきた。ボロボロである。くそー、俺も女の子助けたかったー!なんて叫び声まで聞こえてきたが、これはこのお兄さんのお仲間さんだろうか?

「…お店壊れそうですね」
「うーん、まぁ俺たちも海賊だからね、手加減ってモンを知らない」
「まぁ別に、壊れてもいいですけど」
「そっかよかった、助けたつもりが傷つけちゃってたら申し訳がたたないもんね」
「…お店無くなったら、ホントに鳥みたいに、自由にどっか旅にでも出ようかなぁ」

次々目も当てられない状態になっていくお店を前に、自嘲しつつ溢した言葉は、お兄さんから意外な言葉を引き出した。

「マジで!じゃあ俺たちと一緒に来る?うん、そうしよう!」
「……はっ?」
「うん、名案だよ、女の子が仲間になったらみんな絶対喜ぶ」

驚いて言葉も出なくなった私を尻目にお兄さんは顎に手を当てて名案だ名案だと一人浮かれている。ようやく事態を飲み込んだ私の、ちょっと待ってという言葉に被せるようにして、お兄さんはハイ、と自分の被っていた帽子を私の頭にボス、と被せた。そのまま屈んで、ちょうど私と目線を合わせる。

「今日から君はペンギンだ」
「はい?」
「いや、鳥みたいになって旅したいって言ってたから」
「…ペンギンって飛べないじゃないですか」
「確かにペンギンは空は飛べないけどね、海の中を、まるで鳥が空を駆けるみたいに自由に泳ぎ回れるさ」

ペンギン、馬鹿にしないでよ、なんて戯けるお兄さんは気さくで明るい笑顔で、存外綺麗な目をしていた。ビールまみれで酒臭い濡れ鼠な私の頭に迷いなく帽子を被せたこの人を信じてもいいものか。これはすぐに答えが出たが、正直不安と好奇心ではまだ不安が半分以上を占めている。けれど意外と簡単に、答えはするりと私の口から出てきてしまって、自分自身でも驚いた。

「私、色んな世界が見たいです」
「うん」
「叶えて、くれますか」
「もちのろんだね」
「…連れていってください、私はこの町を出たいです」
「よっし!名前は?」
「なまえです」
「なまえちゃん!よろしくね、俺はペンギン」
「ペンギンさん…」

可愛い名前だな、なんて悠長にもしていられない。行くといったからにはそれなりの覚悟と準備が必要だ。ビール臭くシミだらけになったペンギンさんの帽子を強く握りしめた。空は飛べないけれど、私は海へ、大きく羽ばたくのだ。