※転生要素あります


「池田さぁ、川西と仲良いでしょ」

教室へ向かう足が止まる。

「小学校の頃からやたらクラス同じになるからな。左近がどうかしたか?」
「川西って、何でいつもあんなイライラしてるの?」

吹奏楽の雑多なパート練の音が頭の中でまぐわう。グラウンドで精を出す野球部の野太い掛け声が、みょうじと三郎次の話し声に混じってきて、耳がざらついた。
三郎次がみょうじの問いに窮したのか、変な間が空く。

「……言うほどいつもか?」
「うん」
「お前だけなんじゃないのか、それ」
「え、ひどくない?」
「知るかよ、お前のこと好きなんじゃねーの」
「はは、池田もそんな冗談言うんだ」


たった今「いつもイライラしている男」のレッテルを貼られた僕は、さっそくイラついていた。
保健委員のくせにカルシウム不足かな、なんて言うみょうじの、間延びした呑気な声に心の奥底から腹が立った。頭を掻きむしりたくなるほどに、自分の手のひらに爪が食い込むほどに、酷く心がささくれた。

「あ、やばい。私委員会行かなきゃ。それこそ川西に怒られる」
「さっそくかよ」

みょうじが来る。

踵を返し、三郎次の笑い声を背にして、廊下を半ば転げるようにして走った。
教室から出来るだけ遠くへ、みょうじから可能な限り離れて。出来るだけ足音を立てないよう。つま先に意識を集中させながら階段を駆け下り、保健室がある隣の棟に続く、渡り廊下へ飛び出た。氷のように冷えた鉄の手すりに両手でつかまって、乱れた息を整える。

みょうじに追いつかれる前に、保健室へ戻らなければ。
ついさっき、委員会の先輩からみょうじを呼んでくるよう言われたくせに、連れてくることも、声一つかけることすら出来ずに戻ってきた僕を、みんなどう思うだろうか。くせ毛の生意気な後輩は、呆れたように笑うかもしれない。好奇心だけは一丁前な後輩にはあれやこれや聞かれるかも、気をつけよう。一つ上の先輩が宥めてくれればいいけど。
そして、高等部の優しい先輩はきっと、何も聞かずに笑って許してくれるのだろう。「まぁまぁ」とみんなを宥めて、僕には多分感謝の言葉まで投げかけて。
みょうじが心底惚れているらしい、あの柔な笑顔で、きっと。

「あっ、川西だ。何してんの?」
「げ」

危惧していたにも関わらず何故近づいてくるみょうじに気づけなかったのかって、あれこれ考え事をしていたからなのだが、それにしても嫌になる。
振り返った瞬間、彼女の顔が視界に入ったその瞬間、眉間に寄る皺も、反射でそんな態度を取る僕のすべてが、もう心底嫌になる。頭で分かっているというのにどうしようもないのは、染みついてしまった癖だからなのだろう。

「げってひどくない? 何なの?」
「別に」

たったひと言で取り繕ってはみるが、みょうじはさして気にしていないのか「まぁいいけど」とひとりごとのように小さく零して、僕から目をそらした。

「ホラさっさと行こう、委員会遅れちゃう。ハイよーい、ドン」
「もう遅れてんだよ廊下走るなよ」

みょうじは僕の言葉に反応してすぐ、バタバタ言わせていた足をピタリと止めて、今度はさっさと早歩きに切り替える。足音がほとんどしないその様は、まるでフィクションの中の忍者みたいだと冗談まじりにそう思った。
遠ざかるばかりの彼女の背中に、仕方なく僕も足を早めた。



「ホラ左近、早くしてよ」

思い出すのは、踏み固められて白くなった山道を駆け上がっていく、彼女の背中だった。

暑くて暑くて、今にもぶっ倒れちゃいそうな夏の日だったと思う。照りつける太陽を隠してくれる雲一つすらない、驚くほど真っ青な空に向かって、人影のない坂をひたすらに上っていく。
彼女は「見せたいものがある」と言って、学園が休みの日に半ば無理矢理僕を連れ出した。見せたいものが何なのかも聞かされていない僕は、ただただ足を前へ前へと進ませることだけに意識を持っていっていた。いやいや、仕方なく、というのを顔にありありと出してみたつもりだったのだけど、彼女には内心を見通されていたのだと思う。
ふいに振り返った彼女の長い髪が、ひょこんと揺れる。まるで意思のある生き物みたいに思えた。

「左近は足が遅いわね」
「うるさいな、なまえは足が早いしか取り柄がないだろ」
「出た、あんたたちの学年の得意技」

一言多いってやつ。
笑いながら言って、彼女は再び走り出す。僕を置いていくみたいに、地面を蹴りながら。

「ほらほら、早く! 見てよ、すっごい綺麗なの!」

早く早くと急かされて、切れた息を整えながら登りきった先は、拓けた丘のようになっていた。
その眼下に広がるのは、野原であった。戦を少しも知らないような顔で、少しも乾いた土の色が見えない、若草の緑。太陽をいっぱいに浴びて、時折白い光の波が走っていくのが海のように美しい。ぽつぽつと点描のように黄色や白色が見えるのは、野の花だろうか。

「うわぁ、綺麗だな」
「でしょう?」
「薬草もありそうだ…こんな場所、知らなかった」
「だって私の秘密の場所だもん」
「秘密って、教えちゃってるじゃん僕に」

馬鹿だなぁと続けようとして、しかしそれは喉の奥で消えていく。彼女の深い黒の瞳が、僕の顔を覗き込んでいた。

「綺麗なものは、ほら。一緒に見たくなるじゃないの」

誰と、とか、どんな人と、とかは言わなかったと思う。けれどなまえが連れてきたのは、僕一人だ。はにかむ彼女の瞳に映っているのは、僕だけ。
つまり、そういうことだったのだ。

「左近」

風一つ吹かない、太陽の獰猛な光に焦がされるような夏の日。
彼女は僕の名前を呼んで、僕の頬に手を伸ばした。彼女のさらりとした指が、汗が滴る頬を滑る感覚が心地よく、思わず瞼を下ろした。
彼女の手から伝わる、少し低い体温を、僕はその時はじめて知ったのだ。



「川西、早くしないと委員会遅れるよ」

瞼を開ける。
彼女は遠くで手招きをするだけで、僕に触れもしない。僕は、今の彼女の体温を知らない。
そもそも記憶の中で、彼女が僕のことを下の名前で呼んだ年を超えても、今、彼女は僕の名前を呼ばない。記憶の中の笑顔が僕には向けられたことは、ただの一度もない。出逢った歳だって違っていた。

僕だけが、僕の思いだけが、ひとつ取り残されたようにあの時と変わらずに在るのだ。

僕がもし、伊作先輩のことが好きなの? と聞いたとして、彼女は三郎次に問われた時と同じように、川西もそんな冗談言うんだと笑ってくれるだろうか。何でもないように、カラリと笑ってくれるだろうか。
そんなありもしない、いや、出来もしない妄想を心の中でぐしゃぐしゃに丸めて、ちょうど視界に入ったゴミ箱に投げ捨てた。

「川西ー早く早く」
「川西川西うるさいんだよ」

彼女から名前すら呼ばれない今の僕。
伸ばすことすら躊躇している、情けなく冷たい僕の手では、未だにあの夏を取り戻すことが出来ていない。
体を包む冬の空気はひやりと冷たく、僕はあの夏から動けない。


request by ぴさん(rkrn・川西左近であまり明るくない現代転生のお話)