※転生要素あります


「やぁ、一番星が出たよ」

西の山にどっぷりと日が沈み、月がひょっこり顔を出すより少し前。ちょうど、完璧な闇がなんもかんもをまっ黒く染め上げるとき。
暗闇に紛れて顔の見えない、穴を覗き込むその女の人は、穴の中で蹲る僕に、そんな言葉を魔法みたいに振りかけたのだ。



「時に闇を連れて、時に夜明けを連れてくる星。金星です」

へぇそうなのか。
喜八郎は思った。思うだけで、闇だ夜明けだの意味は考えなかった。
ただただ、ドーム型の天井に映し出された偽物の星々をぼんやりと眺め、ニュースキャスターのように滑らかな話し口の、その声に耳を澄ませた。とても一日の最終プログラムとは思えない、一片の疲れも覗かせない声だ。
暗闇の中、顔の見えない彼女の声だけが聞きたくて、喜八郎はここへ来ている。彼女が朗々とした声で解説している星も見ようとせずに、そっと瞼を下ろした。

「金星は、愛の女神ヴィーナスの名がつく、愛と美の星として世界中で親しまれています。日本でも古くから宵の明星、夕星と呼ばれ、他にどんな灯りもない真っ暗闇の中、艶やかなまでの明るさを放ち、人々を魅了してきました」

へぇ〜。ふんふん。ほおー。
心の中でいかにも適当な相槌を打ち、その滑らかな声が鼓膜を震わせる感覚のみを楽しんだ。正直なところ、星の話はどうでもよかった。
この、大きいながらも寂れたプラネタリウムで、彼女は解説員をしている。プラネタリウム専門の、博物館や芸術館でいう学芸員のようなものらしい。数多の煌めきを、まるで友人でも紹介するみたいに嬉しげに、けれど丁寧に、一つ一つ拾い上げていく。
そんな彼女の友人たちには目もくれないで、喜八郎はただ、その声に浸る時間だけを求めてここへ来ていた。



「お疲れ様です、みょうじさん」

当たり前みたいな顔で、仕事場のスタッフ専用入口の目の前で出待ちをしていた喜八郎に、みょうじは口をポカンと開けたまま固まった。上着のポケットに手を突っ込みながらスマホをいじっていた喜八郎は、彼女の姿が見えるとすぐに、それをポケットへしまい込んだ。

「また来ちゃったか」
「また来ちゃいました」
「来るなら来るって連絡してって言ったのに」
「膨れないでくださいよ」
「膨れてない、呆れてる」

はあぁと、生まれた呆れと溜まった疲れの両方を吐き出すようなため息をつき、まるで反省の色が見えない喜八郎の顔を見上げた。
かたや社会人、かたや大学生。年下であるはずのこの男に、みょうじは何故だか何一つ敵わないような気がした。仕方なく喜八郎の隣に並び、帰路を歩き始める。
そういえば付き合い始めて早30日、なんだかんだ毎日のように喜八郎に会っている。きちんと待ち合わせをして会う時間だってちゃんと取っているのだが、こうして喜八郎が勝手に来る頻度もかなり多い。

「勉強忙しくないの? ちゃんとレポートとかこなしてる?」
「大丈夫ですよ、僕だって留年はイヤですから」
「ホントに? なんか私、最近毎日綾部くんの顔見てるから」
「みょうじさんに会いたいから頑張ってるんですよぉ」

喜八郎はわざとらしく唇をとんがらせて、軽い口調で返した。
簡単にこんな歯の浮くようなセリフが言えるのは、彼の整った顔によるものなのか、それとも自分がそれほどまでに惚れられていると自惚れてもいいのか、はたまた。みょうじは何か気のきいたことの一つも言わなければと口を開いたものの、頭が追いつかず、言葉は浮かばず。結局「ありがとう」と、口先でごにょごにょと濁した。

「みょうじさん」
「ん?」

喜八郎は、突然足を止めた。みょうじは不思議に思いながら、俯いたまま口を閉ざしてしまった喜八郎のもとへ近づく。

「どうかした?」
「僕は」
「うん」
「いえ、僕らは、何でまた出会ったんでしょうね」
「え」

また。
とは、一体なんだ。喜八郎の言わんとすることがいまいち掴めず、何故だか奇妙なほどに寂しげな色をしたその目を覗き込んだ。

「みょうじさんは、憶えていませんか」
「な、何を……?」
「僕は、貴女は憶えているんじゃないかと思っています」
「だから、何を?」

はぐらかすみたいに笑うみょうじの目を、眉間にぐっと皺を寄せて見返した。

喜八郎には昔から、何か膨大な記憶が頭を巡る癖のようなものがあった。物心ついた時からだ、それはかなりの頻度で起こった。初めて会う人、初めて見る場所に、ごく自然な懐かしさを感じさせることが、多々ある。それは自分のものではないはずの記憶なのだが、確かに自分が見た、聞いた、感じたことなのだ。矛盾しているけれど、感覚としてそうとしか言いようがない。
ようは、俗にいう前世の記憶というものだと、喜八郎は小学生の頃に何気なく見ていたテレビ番組で知った。当時人気だったタレントが語る「そういう記憶」の話に、周りの出演者たちは馬鹿みたいに真剣な顔で頷きながら耳を傾けていた。
その次の日に同じテレビを見ていたらしいクラスメイトに「ぼくも前世の記憶あるよ」と言ったら、呆気ないほど普通にバカにされた。テレビの中ではあんなにも真面目に取り合っていたのに、何故。がーん、と思いつつ、このことで幼い喜八郎は「バラエティ番組」という、そういう世界の裏を思い知らされた。
親に話したら戸惑われ、クラスメイトに話したら茶化され馬鹿にされ。なんにせよ、前世の記憶、とかの話に関しては、散々な思いをした。

「一度、前の記憶の中の初恋だったみっちゃんの名前を初対面で呼んだらめちゃくちゃに怖がられました」
「……それは綾部くん、ドンマイだね」
「まぁそれはいいんですけども」

そんな具合にいいこと無しで、結局喜八郎は、その記憶についての諸々を人に話すことをやめた。

みょうじのことも、出会う前から知っていたのだ。喜八郎は、みょうじに初めて声をかけた時、彼女の名字を呼んだ。呼ばずにはいられなかったのだ。
みっちゃんの時のトラウマから、記憶の中で見知った相手だろうと突然名前を呼ばないようにしていたのだが、この時ばかりは口をついてポロリと、彼女の名前が記憶の底から溢れ出た。しまった、と思った時にはすでに取り消せない。喜八郎はその、自分にとって愛おしいらしかった文字の並びを、口にしてしまっていた。
が、その時のみょうじは喜八郎の顔を見て明らかに瞳を揺るがした。見開かれた瞳には、恐怖でもない、猜疑でもない、ただ純粋な動揺があった。
それを、見逃さなかった。

「僕は貴女を知っています。貴女も僕を知っていたんじゃないですか?」

だから、突然見知らぬ男に声をかけられても驚かなかった。

「違いますか?」
「……ごめん、憶えては、ないの」

その言葉に嘘はない。喜八郎は、直感でそう思った。こういう類の勘は、よく当たった。

「でも、綾部くんの、顔だけは知ってた」
「ええ〜っ、顔だけ……」
「ご、ごめん、でも憶えてるっていうのとは違うっていうか……」
「違う?」

どうにも要領を得ない話し口に、喜八郎は首をずいっと前に出した。みょうじの言葉を促すみたいに。
それでようやく、みょうじは観念したようにため息をつき、ことの顛末をポツポツと零し始めた。

「……夢でね、綾部くんによく似た男の子を見たの。それで私は綾部くんのことを知ってた。それだけ」
「それだけってことはないでしょう、そんな話」
「そうだよね……だから、危ない奴だって思われそうでなんか怖かったんだ、話すの」

でも、綾部くんの話を聞いてなんだか安心したんだ。
言って、みょうじは眉を八の字にして笑った。それから堰を切ったように、みょうじは夢の話を話し始めた。

「夢の中でさ、綾部くんが穴?みたいなのの中で蹲ってて。真っ暗な中で。でも私は綾部くんを引っ張りあげて、それで薄っすらとだけど、ちゃんと顔が見えた」

綺麗な顔がね、と彼女は悪戯っぽく笑った。
喜八郎は、憶えていた。それは自分と彼女とが、初めて会った時の記憶だ。

穴を掘るという作業は、無心になれた。ちょうど、まだその学園に入学して三年と経たない頃。喜八郎は深い穴の中にいるようなどん詰まりの心地で蹲っていた。
自分の先行き、身の振り方。特殊なことを学ぶ場で、やたらムツカシイ言葉を使って話す気取ったクラスメイトや女の名前をつけた武器をぶっ放し出す奴に囲まれて、しかし意外にもしっかり見据える方向が定まっている彼らと自分とを見比べて、喜八郎は、ありゃ? と首を傾げた。自分の行く道は、一体どこへ伸びているんだ?

「やぁ、一番星が出たよ」

そんな真っ暗闇をさらに自分で深く深く掘り下げて、挙げ句膝を抱えた喜八郎にとって、その一声はやたらと鮮烈だった。膝に埋めていた顔を上げても、暗くて顔の見えないその人は、女であるということしか分からなかった。

「上がっといで、もうじき冷えるから」

はらりと垂らされた縄の先で、女の人が笑ったような気がした。そういう明るさのある声だったせいだろう。喜八郎は、見えない彼女の顔を見たような気になって、勝手に安心して、誰だかも分からぬ人間が垂らした縄に手をかけた。
穴から出た先で待っていた彼女は、何故だかは分からないが嬉しげに空を指差した。

「ほら、一番星。他には何にもない。ものすごい存在感よ」
「はぁ……そうですね」
「なんだ、リアクション薄いなぁ」

りあくしょん……と、喜八郎は唸った。はは、と彼女は笑った。

「君は穴を掘るのが上手い子だ。穴掘り小僧の綾部喜八郎くん。そうでしょ」
「あれ、何で僕の名前知ってるんですか」
「有名人だからね、穴掘り小僧」
「はえ〜、そうなんですか」
「君のトラップは相当ヤバイと噂だよ」
「悪名じゃないですか、それ」
「ははっ、そんなことないよ。君の強みじゃないの。なかなか出来ることじゃないよ、そんな噂がたつほど罠を作るなんてのは。
これは立派な武器だよ、君だけのね」

悪戯好きの悪ガキみたいな笑い方で、彼女は言った。
それからしばらく二人で話をした。特別、悩み相談をしたりとかではなく、流れるように色々な話をしたのだ。けれど、年上だったらしい彼女の一言一言がいちいち眩しくて、なんだか彼女そのものが星のように思えた。

その時僕は、これから自分がどんな風に生きていくのか分からなくて、考えたくなくて、縮こまっていた。そこにあなたが、一番星を連れてやってきてくれたんですよ。
憶えていませんか?

言おうとして、けれど喜八郎は、それを喉の奥にしまい込んだ。憶えていてくれなくても、なんだか構わないような気がした。

「僕はあなたが好きです。僕にとってみょうじさんは、いつだって一番星みたいに眩しいんです」

喜八郎の言葉に、みょうじは肩の力が抜けていった。何故だか自分は、喜八郎からのそんな言葉をずっと待っていたような気がした。理由は分からないけれど、きっと理性や思惟なんかじゃ手の届かない、もっと深い心根が、それを欲していたのだろう。

「じゃあこれからはちゃんと、プラネタリウムに来たら星も見てね」
「あ、バレてましたか?」
「そんなこったろうなぁと思って」

呆れたように笑いながら、みょうじはあくまで自分のペースを崩さない喜八郎のまっすぐな目を見た。ガラス玉みたいな目玉がなんだか星みたいだと思って、ふっと心が温かくなった。
私たちは、僕たちは、これから始まるんだ。そんな二人の予感が重なった、空を埋める星々の夜は、まだ終わらない。


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