「好き」

二度目、今度は言葉の端に色を加えて。小さな唇が二度、形を変えるのが、暗がりの中で辛うじて見えた。
春、目を覚ました虫の鳴く声が遠く聞こえる闇の中。二人分の人熱が混じり合い、生温く淀んだ空気が立ち込める、手拭いの中。
薄っすら白いその頬に、手を伸ばさずにはいられなかった。いけないと思いながら、それでも手の届くところにこの人がいる今、触れずにいられる訳がなかった。
ずっと操縦桿を握ってきた手は、全体がまるで木肌のように固い。その指の背を、ゆるいカーブを描くみょうじの右頬に滑らせた。形を確かめるみたいに唇を触る。ざらついた指の腹でなぞると傷つけてしまいそうで、しかしそれでも触れたいと思った。左の頬を包み込むと、雨でしっとりとした肌が吸い付いてくるみたいで、収まりが良い。
触れられるはずもないと思っていたそれの感触にいちいち感動して、自然と動作はゆったりとした。
それが、よりその場の空気を甘くした。

「くすぐったい」

目を閉じて、指先まで固い菅野の手の感触を感じているみょうじは、笑いをこらえるみたいに口元に手を当てた。
菅野はその手をどかして、その先にある唇に自分のそれを重ねようとした。脳みそが煮え立っているんじゃないかというほどに頭がグラついて、目の前の彼女に触れたいということ以外、何も考えられなくなった。

急に胸の辺りをぐい、と押されて、二人の間に距離ができた。
え、という間すらなく、気づけばみょうじは菅野の側から離れ、手拭いの中からも抜け出し、顔を伏せている。

「な……」
「ごめんなさい」

みょうじはほとんど声にならないようなか細い声で、よりによって謝罪の言葉を口にした。いま、この瞬間、菅野が一番聞きたくない言葉であった。

「ごめんなさい、菅野さん」

手拭いの中に一人置き去りにされた菅野は、目の下の筋肉をピクリと痙攣させた。
額や眉間から消えていた皺が、再び戻ってきた。

何故、何故謝るのだ、この人は。
何故俯くんだ? 伏せた目に仄暗い哀しみを湛えているのは何故だ? 性急な自分に嫌気がさしたのか? 触れられたくなかった?まだ触れるには早かったのか?
自分の何が、彼女の中に住んでいる哀しみを膨らませてしまった?

「なんで」
「菅野さんは悪くないんです。私です、悪いのは」
「あんた、何で謝るんだ。わからん。俺には皆目分からん。あんたが考えていることがさっぱりだ」

そんなつもりはないのに、元々荒っぽい喋りと場の空気も相まって、逃げ場の無い部屋の角に追い詰めるような言い方になった。徐々に強まる雨足でさえ何かを責めているようで、しかしそれは、誰を責めているのであろうか。
謝るのは、明らかに俺のほうだった。

なぁ、教えてくれよ、頼むから。



結局、あの後何も答えなかったみょうじは浅い水たまりに足を突っ込むのも気にせずに、走って帰っていった。
それから5分もしないうちに、手拭いを被ったそのままの状態で立ち尽くす菅野を、部下が迎えに来た。全身ずぶ濡れな上、手拭いを被ったお化けのような格好の菅野は明らかに不審者だったので、部下の早い到着は大変なファインプレーであった。

そんなことがあった後、すぐに基地の移動があり、忙しない時間を過ごした。そうこうしている間も会いにいくべきか行かざるべきか、考えあぐね、結論として、このままで、何もせず、あの夜を忘れようと決めた。

人から、あれほどにはっきりしない拒絶をされたことが、あまりなかった。
人と意見をぶつけ合うこと、一方的に理不尽な圧をかけられること。菅野はその粗暴さ故に、一部の人間から、というか上官等々からニラまれたりはした。が、名前の通り、常に真っ直ぐなその生き様を嫌う者はほとんどいなかった。
そしてそれは、女も例外ではなかった。
そういう店にいけば、まぁ当然拒否なんてされることはない。で、さらに有り難い事に、言い寄ってきてくれる女性も多い。となると、当然本気の拒絶はされたことがないに等しい。

みょうじが自分の胸を押し返した時のことを、思い出しては勝手に一人で傷ついた。日を置き、落ち着きを取り戻してみればみるほど、あの時の自分のなんと余裕のないことか。拒絶されたのは仕方のないことだったのかもしれない。
しかし、では何故あの時あの人は「好き」と口にしたのか。つまりはそういう「好き」ではなかったということなのか。だとしたら、もう二度と顔なんざ見たくねーんじゃないか。
そういう訳で、二人きりで過ごしたのはそれが最後となった。
その後、空襲の報せを受け、まさか、いやまさかと思っているうちに、菅野はこっちの世界に呼ばれた。みょうじの安否は結局、菅野の知るところとはならなかった。

だから今、入道雲が遠く浮かぶ夏空を背にしたみょうじが、松山の町で笑って、自分を見下ろしているという事実が、上手く飲み込めずにいた。

「あんた…よく無事で」

兎にも角にもこれだ。よく生きていてくれた、と。ただそれだけだ。

「ひどい被害だったと聞いてたもんで……こりゃあ、夢でしょう」
「夢ですね、じゃなきゃ可笑しいですから」
「そうか、そうだよな」

何もかもが可笑しい。焼けたはずの町が焼けていない。あまりにも長閑。手の届く距離にいるはずのない人間が目の前にいる。
しかし、なかなかどうして目の前で自分の目を見つめている人は、夢とは思えないほどにその存在を感じさせる。夢のような景色の中で、ただ二人だけがくっきりとした輪郭を持っている。むしろ、あの雨の日の二人のほうが、夢のような、非現実であったかもしれない。

言葉が切れて、空気も心もシンとした。
菅野とみょうじ、互いに思うことは同じだった。
何を言ったらいい。
息を詰めていた二人は、ほぼ同時にため息をついた。不意に目が合う。
ふっと糸が切れたみたいに、空気が緩んだ。

「なぁみょうじさんよ」

その隙を見逃さず、すかさず菅野が切り出す。

「なに?」
「何であの時、あんたは謝ったんです」

何で顔を伏せた? 好きってのは、結局なんだったんだ。
聞きたいことは、頭の中でこんこんと湧き出る湧き水のように、いくらでも出てくる。菅野はそれを喉の奥で、なんとか堰き止めていた。

本当のところ、もう会うこともないだろうと思っていた。そうなれば、全てはなかったのと同じになる。あの夜が、すっかりそのまま無かったことになる。それでいいんだと自分を押し込めた。
そもそもだ、と菅野は思う。例えば好き同士になれたとして、この身がいつどうなるとも分からぬ自分のような人間は、共に生きたいと願う相手を持つべきではない。所帯を持つ仲間たちの、遺体すら見つからないこともあった。
待っている人がいるということへの一種の恐怖心だった。これが、菅野に二の足を踏ませていた。
しかし、これは夢だと思えば案外簡単にそれを口に出せた。こいつは夢だ。だったら、何を聞いたって、目を覚ませば。

みょうじは言い淀み、開きかけた口をすぐに閉じてしまう。

「言いたくないすか」
「ううん……違う、違うの」

小さな吐息のような声は、生ぬるい海風に巻き込まれながらどこか遠くへ攫われていく。

「怖かったんです」
「怖かった……」
「菅野さんが、じゃないですよ」

自分のしたことを鑑みて顔を青くした菅野に、みょうじは慌ててフォローを入れた。
その恐怖心の大本は、決して菅野の行為のせいではない。それはまごう事のない事実であった。

「好いた人に……菅野さんに、優しくしてもらえて、嬉しかった。でもやっぱり…あの人が死んだ報せを受けた時を思い出して、それが」

少し、怖かった。

言わせる前に、半ば強引に腕の中へ引き寄せた。
名前が出ずとも、あの人という言葉を聞きたくなかったというのが半分。もう半分は、ただ愛おしかった。
好いた人。あの日と同じ、柔な唇がそう告げてくれた。それだけでもう、十分だった。

足元の不安定さを物ともせず、しっかりとみょうじの体を受け止めて、自分の胸の中にしまい込むように抱き締めた。

「同じだ」
「え?」
「俺も、好きになるのもなられるのも、どっかで怯えてた。あの時はただあんたに触れることしか考えてなかったんだ。
でもやっぱり、待たせるのが怖かった。不安にさせるのも嫌だった」
「菅野さん…」
「怖かった、俺もだ」

同じ思いを抱いていた。それだけが、いとも簡単に菅野の枷を外した。
声が聞こえる。肌に触れる。髪が靡く。瞳が揺れる。心を分かち合える。

同じ悲しみや寂しさを分け合う。これが傷の舐め合いだと言われても、なんだか構わない気がした。
舐め合わなくては、人間は生きてゆけないのだ。触れ合いながら舐め合いながら、人はいつかまた何もないような顔をして歩けるようになるまで、誰かと共にある。舐めた傷口が塞がれば、また歩いていける。生きていける。そうやって人は生きていく。過去のことを適度に忘れて、たまに思い出したりして。
人間の記憶ってのは不思議なもんだ。普段思い出しもしないようなことを、水底から水面に泡が浮かびあがるみたいにポンと思い出したりする。忘れたいと思っている記憶のほうが、彫刻刀で彫り込まれたみたいに鮮明に残ってしまったりする。
いま自分の腕の中にあるのは、覚えている。間違いなくあの夜と同じ体温だった。

「菅野さん」
「みょうじさん」
「ねえ、菅野さん」
「みょうじさんがいる」
「いますよ、いますけど、菅野さんったら」
「なんすか」
「苦しい」

名前を呼びながらその喜びを噛み締めていた菅野は、あっ、とすぐさま腕の力を緩めた。決して通気性の良くない飛行服に顔を押し付けてしまっていたのだ、当然息は詰まる。胸元に手を置いて深呼吸をするみょうじの背中を、慌ててさすってやった。

「大丈夫です、ありがとう」

みょうじが伸ばした手が、菅野の両頬を包んだ。
自分を見上げるその人の笑顔が、目の前にある。細い指先に、優しく撫でられている。

「……やっぱり夢だな」
「ん?」
「俺にとって、あんまり都合がよすぎる」
「私にとっても随分と御都合な夢です。あの日にケリをつけられるなんて思ってもいなかったから」

どこまでも同じようなことを考える人だなぁと、菅野は妙に感心した。
案外似た者同士なのかもしれない。ひょっとしたらこのシンクロが、この夢で二人を引き合わせたんじゃないだろうか。安っぽい文学じゃああるまいし、それこそ御都合主義だろうが。しかし本当にそうだとしたら、御都合主義万歳、ってなもんである。

「そうだ、菅野さんにいいものあげる」
「なんすか」
「口あけて」

言われてすぐに口を開ける菅野を見て、みょうじの頭の中で、昔飼っていた犬の顔がよぎった。
あー、と開いた口の中、赤い舌の上に、ポケットから取り出し包みを破ったそれをのせた。

「あま」
「チョコ。お好き?」
「んまいっす」
「良かった」

むぐむぐと咀嚼しながら、その甘さを楽しむように破顔する菅野を微笑ましく思いながら、自分も一欠片、それを口に入れた。
同じ物を口にして、なんてことない時間を過ごす。この一瞬が一生の宝物になりそう。まるで垢抜けない少女のようなことを考えて、みょうじはそれを菅野に伝えず胸の内にしまい込んだ。

「なあ、みょうじさん」

一足先にチョコを飲み込んだ菅野が口を開く。喋ると少し、喉の奥がチョコでざらついている気がした。

「何です?」
「いつか、この夢も覚めちまうんですかね」

夢とは、いつか覚めるものだ。
考えたかないが、それはきっと避けようのない現実である。

「もしそうだとしても、忘れないです。私きっと、ずっと覚えてるから」
「本当ですか」
「本当ですよ」
「……本当に」
「菅野さん」

あやすみたいに短い髪を梳かれて、ガラにもなく泣きそうになった。

気づくと、今まで鮮明だった街並が揺らめいている。景色は少しずつ、蒸発していくみたいに揺れながら、まるで蜃気楼のような幻に変わっていった。これが必ず終わる夢であると、嘲笑いながら、そう突きつけるように。
それに菅野は必死に抗おうと、自分の頭を撫でるみょうじの手を掴んだ。

「嫌だ」

両の手で、その頼りない小さな手を祈るみたいに挟み込んだ。
頼む、頼むから。離れないでくれ。俺からこの人を奪わないでくれ。この人がもう、誰も失わないで済むように。頼むから、俺たちからもう何も奪わないでくれ。

「菅野さん」
「嫌だ、クソっ」
「菅野さん、聞いて」
「どうせあんたはまた会いましょう、とか言うんだろ、そんなもん聞きたかねぇんだ俺ぁ!
そんな言葉、言った瞬間終わっちまうかもしれねぇ、俺は嫌だ、嫌なんだよ」
「違うの、ねえ、一つ提案があるの」

提案、という言葉に、菅野はゆっくりと顔をあげた。苦しげに歪んでいた顔から、それが少しずつ引いていく。

「手紙を書いてほしいんです」
「手紙?」
「それをビンか何かに入れて、海に流して。
菅野さんがどこにいるのか分からないけど…海はどこにでも繋がってるでしょう? だから、ひょっとしたらそれが私の元にも届くかもしれない」
「……手紙、か」
「私も書く。私は、そうだなぁ……紙飛行機にでもして、空に向かって飛ばします」

空も、どこまでも続くものでしょう?
言いながら微笑むみょうじの姿まで、いつの間にか滲んでいる。夢から覚めゆくからなのか、涙で滲んでいやがるのか、そんなのはどちらでも良かった。
終わるのだ、この夢は。

「約束する、絶対に書く。10枚20枚じゃ収まらないくらいに書いてやる。全部読めよコノヤロウ」
「上等ですよ、バカヤロウさん」

目蓋の裏の熱さを覆い隠そうとするあまり、口をついて出た暴言に、みょうじもそれを察してか、軽口で返した。

「……直さん」

菅野の唇は、え、と半開きになった。
その中途半端な形に開いた唇に、不意にみょうじの唇が触れた。
名前を呼ばれた喜びも、その柔らかさを堪能する間も、名残惜しむ間も無く離れていったみょうじの目には、はっきりと涙が浮かんでいた。
しかし同時に、心の底から湧き上がる愛しさ、嬉しさ、喜びを抑えられないと、そういう笑みが浮かんでいた。

「なまえ」

ほとんど消え入りそうなみょうじの体を、菅野は御構い無しに掻き抱いた。消えかけた中に残った、ほんの少しの体温と、ほんの少しの甘い香り。
貴女の全てが好きなんだと、菅野直という人間全てで伝えるように、力いっぱい抱き締めた。それに応えるみたいに、抱き締め返されるような感覚を、背中に感じた。
夢が、二人が、水彩絵具みたいに溶けていく。



「そそそ、空神様!空神様!!離してください!!首が!首が折れる!!ギブですギブ!!」
「んあ」

フサフサする。
気がつけば、イヌころをギリギリと羽交い締めにしていた。辺りは鬱陶しいまでに生い茂った木々に囲まれ、ひっきりなしにキィキィと甲高い鳥の鳴き声が響き渡っている。
間違いなく、これが今の俺の現実だ。
ああ、終わっちまったのか。

「寝惚けながら関節技を決められるとは……流石ですな」
「……まぁな」

菅野のほとんどスリーパーホールド状態のそれから解放され、涙目で喉元を摩る犬人に目もくれず、菅野は何か考え込むように視線を落とした。
普段なら、これくれー避けろバカヤロウ!! くらいの理不尽を言いそうなものだ。しかしそんな、いつものような勢いのない菅野を訝しむ犬人に向かって、菅野は静かに手を差し出した。

「おい、紙あるか」
「かみ……?」
「バッカヤロウ紙だ! ペラッペラの! なんかこう……書くやつだよバカヤロウ!!」
「え、えええ、何ですか急にー…」

口の中に残った甘ったるさ。確かに覚えているあの人の全て。
しばらくは余韻からも抜け出せず、雨が降れば、空を見上げれば、あの人を、あの夢を思い出すのだろう。
けれど俺には約束がある。果たさねばならぬ、あの人がくれた約束がある。

この世にゃあ不思議なことがあるもんだ。
ふ、と混じり気のない少年のような笑いをこぼした菅野は、懐から愛用の万年筆が刺さった、残り少ないメモ帳を取り出した。
こんなもんじゃあ、到底書き足りないだろうから。

「手紙書くんだよバカヤロウ」