青だ。
視界の端まで一面の、青だ。いつも自分が愛機と共に身を投じている、あの空の青。飛び込みたくなるような、手を浸したくなるような、青。


「ってイヤどこだここぁバカヤロウ!!」

目が覚めて、その青に浸る間もなく早々に、菅野は飛び起きた。文字通り、そりゃもう飛ぶような勢いをつけて。

いつもあったはずのものが、ない。
ちょっと待ちやがれ、いっつもワラワラ群れてやがった忠犬ワン公やらミケタマニャン公共はどこだ。あとあの、訳わからん芸人みてーなイタリア爺も。ちぃと寝るから起きるまでに昼飯用意しとけっつったろクソ。どいつもこいつも見当たりゃしねぇ。
とにかく自分の状況を把握しなけりゃあ何にも始まらない。立ち上がり、辺りを見渡そうとした。

「うおっ」

拍子に、バランスを崩しかけた。足元が奇妙に歪んでいる。不安定な足場なのか、体が不自然に右に寄った。

「あっぶねーなコノヤロウ」

小さく呟いて、しかしそこでようやく、菅野は自分が立っている場所を理解した。
どこぞの民家、しかも自分が慣れ親しんだ、日本家屋の屋根の上だ。足場の歪みは瓦のそれだったらしい。
どうも、この家は小高い丘のような場所にあるようだ。眼下には、これまた懐かしい景色が広がっていた。

「松山じゃねぇか……」

かつて自分がいた場所。間違いはなかった。
自分が率いた隊の、その基地もはっきりと見える。幾度か赴いた、士官らが世話になっていた食事処も。気のいい女将の顔がふっと頭をよぎった。
はっきりとした空の青から切り離されたような地平線が、一つの絵のように美しい。
部下らを引き連れてフラついたあの町が、目の前に、当たり前のような顔をして広がっている。まるで何もなかったみたいに、のらりくらりとした表情で、瀬戸内海から吹く湿った夏風にゆるりと撫でられながら。

眼下に広がる、あまりにも長閑で気の抜けた町並みを眺めながら、しばらく立ち尽くし、呆けていた。
天を仰ぎ、鼻から思い切り深く息を吸えば、生温い空気が肺を満たす。瞼を落とせばその裏に、そこで過ごした日々がくっきりと写し出されるようで、目の奥は自然と熱くなった。
しかし、体内に溜め込んだ懐かしい空気は、でかいため息に変わって吐き出される。

ああ、こりゃあアレだ、夢だ。じゃなきゃどうにも説明がつかん。

体を支える足の力が、風船が萎むみたいに抜けていき、菅野はその場に尻からどっかりと座り込んだ。
自分が訳の分からない世界に飛ばされる、ほんの数日前。ここは焼かれたはずの地だ。菅野には、それが顔を背けちまいたいくらいに、嫌というほど分かっていた。この目で見た訳ではないが、当時いた基地で話には聞いていたのだ。あそこも被害は相当なモンだ、と。
偉そうなツラをしながらデンと腰を据えていた県の庁舎も、大層立派な佇まいだった市民会館も、焼け残りはしたものの、灰に黒々と塗り替えられたはずだ。そこでは焼けた服を纏った子供らが親を探して泣き、誰とも分からぬ遺体を前に呆然と立ち尽くす人らが、大勢、集っていたことだろう。

そうだったはずだ。だのに、目の前にはそんな様相の町はなかった。そんな人らはいなかった。
確かに松山だが、あんな地獄をなかったことに出来るわけがない。
やはり夢である。

自分が今いるはずの世界を思い出す。
空を埋めるほどバッタバッタと飛び回るデケェ竜を撃ち落としまくって。ワンニャン共に囲まれて。ローマ野郎にボリビア二人とガイジンばっか居やがる。
これじゃあどっちが夢か分かったもんじゃねえ。

「つかどう考えたってあっちが夢だろーがバカヤロウ」
「あっちって?」
「ああ!?んだァ!?」

胡座をかいた菅野は、背後からの声に向かってバッと振り仰いだ。思い切りよく振り返る勢いに任せてガンを飛ばすが、菅野はすぐにそれを後悔した。
なんの気配も感じさせずに、突如現れたそれは、菅野が出来れば一生会いたくないようでいて、どうしようもなく会いたかった相手だ。
片眉を髪の生え際に届かんばかりに吊り上げ大口をかっぴらいた粗暴な顔面から一気に血の気が引いたのも、無理のない話であった。

「あんた……」
「どうも、お久しぶりです」

女である。
菅野にとって、どのツラ下げて会えばいいのか分からないという意味では、最も会いたくない女であると言えた。



人々の困窮が進む中、この町にも、飯や酒を振る舞う店が、いくつかあった。
しかし「贅沢は敵」のご時世にやっていけるような店はほとんど無いに等しい。大体が店仕舞をするか、もしくは海軍士官などに部屋を貸すか、そのどちらかに転んでいた。
その店々の内、営業を休み、士官の世話をしていた店を手伝っていた女。それがこのみょうじなまえであった。歳は菅野より一つ上。若女将の、女学校時代の先輩にあたる人で、一度遠く、隣の隣の、そのまた隣町へ嫁に行った。が、三年も経たぬうちに出戻ったらしい。詳しいことは何も知らなかった。一度その話になった時、「相手が好みじゃなかったんです」などと嘯いていたが、それだけでわざわざ離縁の噂が流れるリスクを負ってまで出戻りはしないことは明白である。それを菅野も解っていた。
結局、深くは聞かなかった。みょうじの働きぶりはいつだって気持ちの良いもので、そんなワケや事情はどうだっていいと、そう思っていたのだ。
だからこそ、世話になった者らの中にも深入りする者は一人もいなかった。

そんなみょうじと菅野は、特別距離が近いという訳もなかったのだが、たった一度だけ、二人きりで言葉を交わしたことがあった。
空襲が町を焼くよりも数ヶ月は前のこと。まだ肌寒さの残る春先の、降りしきる小雨が月明かりをぼやかす夜のことだった。


「あら?」

部下の一人と共に隊を抜け出した、その帰り道。
女の声が、二人の航空隊士の名を呼んだ。菅野が聞き覚えのある声に振り返ると、暗闇の中みょうじの姿が窺えた。

「こんにちは、じゃないか。こんばんは」
「オイオイオイ、こんばんはじゃねーでしょう傘も差さねぇで」
「菅野さんたちこそ、傘なんて差してないじゃないですか」

その通りである。男二人は傘も差さず、髪やら服やらをしっとりさせながら、たらたら呑気に歩いていた。
雲行きが怪しくなったのは、日がとっぷりと暮れてからのことだ。出撃の命もなく、夕暮れ前からさっさと外出した菅野たちが傘を持っていないのも、仕方のないことであった。
明るい半月に薄い霞のような雲がかかり、肌に染み入る霧のような雨が降っている。それらは未だ止めどなく降り続け、強くもならず弱くもならず。少し歩くくらいなら、肌がほんのり湿る程度のものだ。
だというのに、みょうじは何時間もその中にいたみたいに、頭の先からつま先まで全身がびしょ濡れの、なんともいたたまれない様子であった。

訳が何にしたって、とにかくなんとかせにゃあ。
思いはしたものの、傘を持たない男二人に為す術はなく、菅野が持っていた、ほとんど未使用の手拭いをあたふたと広げ、申し訳なさげにそうっと頭にかけてやった。

「すみません、わざわざ」
「いや、しかしねぇ、なんだってそんな濡れ鼠で」
「ヤミ市でね、買い出しを頼まれたんだけど、思った以上に人が多くて。なかなかうまいこと進まなかったんです」
「ははー、なるほどね」

確かに、みょうじは右手左手両の手に、風呂敷包みを引っ提げている。食い物だけに留まらず、砂糖やら塩やら調味料も買ったらしい。それなりの値が張るそれを、少量ずつ。最低限仕入れなければならないだけを買ったのだろう。
菅野はヒョイと身を屈め、薄い手のひらに食い込んでいるそれをヒョイヒョイと取り上げた。

「いつも世話んなってますから、店まで持って行きます」
「あら、いいんですか?」
「じゃあ隊長、自分、傘取ってきて店まで行きますよ。帰りまでに雨が強くならんとも限らないでしょうし」
「おう、さすが気がきくなァお前は」

頼んだぞ、という言葉に押されるように走り出した自分の部下の背中を見送り、菅野は隣で部下に手を振るみょうじと共に、なんとなく、どちらともなく歩き出した。

さてみょうじであるが、先刻菅野に頭から被せられた手拭いをちょいと指でつまみ、隣を歩く菅野の、濡れてぺたりとした黒髪をじいっと見つめていた。
そうして、しばし考える。

「菅野さん、ちょっと」

ちょうど子供一人が通り抜けられるほどの距離感で隣を歩いていたみょうじは、菅野に向けて小さく手招きをする。よばれた菅野は小首を傾げながら、体ごと彼女のほうへ寄った。はにかむように笑うみょうじの側に、気持ち、こぶし一つ分ほど空けて。
訝しむ菅野をよそに、みょうじは自分の頭に被さっている手拭いを、洗濯物を干すようにパサリと広げ、再び自分の頭の上へ。そうして同じ要領で、その一枚の中に菅野の頭も収まるよう、それをふわりと広げた。

「一人だけ雨避けしてても、なんだか気を使っちゃうから」
「んな気ィ使わんでもいいんスよ。俺ァ頑丈だから風邪なんかもひかねぇけど、あんたはまずいでしょ」
「あら、イヤ?相合傘…相合手拭い?」

イヤなもんか、と勢いのままに口をついて出そうになったのを、菅野は喉元を出かかる寸でのところで堪えた。
多少なりだが、ひっそり抱いている好意や興味を勘繰られる可能性が、なくもない。
それは非常に困るのだ。

「いいじゃありませんか、別に何が減るものでもないし」
「俺は別にいいとして、あんたが嫌なんじゃないかと思ったんすよ。酒臭ぇだろうし汗臭ぇだろうし」
「はは、確かに酒臭はする」
「マぁジか」

腕を持ち上げて匂いを嗅ぐ仕草をすれば、みょうじは大層おかしそうに笑いをこぼした。
そうして笑うみょうじの声が、普段とは比べ物にもならないほど側に聞こえる。鼓膜が揺れるのが分かるほどと、言うのも大袈裟にならないほど。その声も体も、何もかもが近いのだ。
冗談交じりの言葉を並べながら、菅野はそれをできる限り気にしないようにした。香るのは、雨に濡れた髪の、その甘さだろうか。時折触れ合う肩が、布地越しでも分かるほどに熱い。
世界から区切られ、少し蒸れた白の手拭いの中。頭がクラクラするくらいの距離感に、身体の奥底が大きく揺さぶられるような心地がした。背中や額に、じんわりと汗がにじむ。
だから、わざとらしいほど努めて明るい声で、故郷で暮らす家族の話なんかをペラペラと話し続けた。
それに気づいているのかいないのか、分からぬが、みょうじは菅野の顔をしっかりと見上げている。気まぐれに小さく笑いをこぼしたりしながら、相槌を打ちながら。

「あのね、菅野さん」

菅野の話が一区切りついたのを見逃さず、みょうじは徐に切り出した。

「菅野さんに聞きたいことがあるんです」
「聞きてーこと」
「あのね、海と空の違いって何だと思います?」

その問いかけに、菅野は思わず瞬きを繰り返した。
海と空の違い。
違いも何も、その二つは全くの別物である。定義としての説明を求められているのか、それとも一種の謎かけのようなものなのだろうか。
問うている、みょうじの思うところを図りかね、菅野は首を傾げた。

「海も空も青いし、波は白くて雲も白い。青と白の二つで出来てる」
「うん」
「それに、同じように人が死ぬ」

それは、と菅野が口を開くより先に、みょうじは躊躇う素振りも見せず、続けざまに言った。

「前の旦那さんがね、海で死んだの」
「……海の人だったんすか」
「そうなの。水兵さん」

化粧の施されていない素のままの唇は、意外なほどあっさりとその秘密を暴いた。急な話の展開に、こちらは頭がついていかない。
水兵さん、と言った。海軍士官であるならば、自分の知る人かもしれぬが、名前まで聞くのはさすがに憚られる。
上に、知りたくもない。無粋であるし、単純な話、そんな内々の話を知りたくないと思った。無駄に心を燻らせるのも、この人の手前、惨めで餓鬼な自分を曝け出すのも、いやだったのだ。
そんな心中のアレヤコレヤをよそに、さらに彼女は話を続けた。

「その人に聞かれたんです、海と空、人は同じように死ぬ、幾らも違わぬ、斯様な青の何が違うのだーとか何とか言ってました」

それまで菅野の目を見つめていたみょうじは、この話になってからは視線を少し落として、一度も菅野のほうを見なかった。
逆に、菅野はそれからみょうじの、伏せられた黒目ばかり見ていた。

「私、何も答えられなくて。何言ってるんだろう、この人は、って思ってしまって……」
「全くだ、何言ってやがるバカヤロウ」
「へ」

菅野が再びバカヤロウ、と呟いたのをきっかけにするように、みょうじはパッと顔を上げ、すっかり丸くなった目で菅野の顔を見た。
暗がりで、その眉間にものすごい皺が寄っているのが見えて、ぎょっとした。

「海だろーが空だろーが陸だろーが、どこでだって人は死ぬもんだ、けどそれ以上に生きてんだ。どこでだって人は生きて、生きるために人は海や空に行く。人を生かすために、だ。
海と空が違わねぇ? 馬鹿言ってんじゃねえ、俺ぁんなこと一回も思ったこたぁないね。空から見る海の青は、空のそれとはまるで違ぇ。
手前の勝手なブッ飛び思考で一纏めにしてくれんなバカヤロウ」

と、低く潜めた、何か理性のようなもので押し込めた声で、ここまで一息である。
言い切った後、痛いほどスッカラカンになった肺の中を充たすため、あくびでもするようにデカイ口を開けて思い切り息を吸い込んだ。喉の奥がヒュウ、と鳴って、脳みそまで酸素が行き渡っていくような気がした。そして、同様の勢いで、鼻から息を吐き出した。
一通り言いたいことをぶち撒けたことで、ほぼ一瞬で沸騰した菅野の頭は、同じく一瞬で冷静さを取り戻した。
一気にバツが悪くなり、短く切り揃えている頭の後ろをガシガシ掻きながら、不自然に顔を逸らす。
悪い癖だ、と内心で呟いた。

自分の中に、通すべき筋が一本、ある。自分はその、真っ直ぐのびた一本の剣のようなものを揺るがすことを許さないし、それを揺るがされるのが我慢ならない。
各々が別の思いを抱いてこその人間である。それを理解はしているが、どうしても「それは違う」と言わずにはいられなかった。
誰もが悲壮感を抱かずにはいられないのだ、分かっている。それでも俺は、そんな問いにはハッキリ「違う」と言いたい。
空は毎日、毎時間、違う表情をする。海も春夏秋冬、まるで別人のような様相となる。確かに、同じように人が死にゆく場所かもしれぬが、それはこちらが勝手に空や海を戦場にしてしまったからだ。
そんな人間の身勝手を知らん顔して、表情豊かな彼らを一括りとするのは、天から人を見下ろして「誰も彼もみな同じだ」というようなもんである。どこまでも抜けていくような空の薄群青、風に緩く撫でられながら揺れる水面の縹。
人の性格や外見、それらがそれぞれ違うのと同じで、自然のそれらも決して同じではない。同じにしてはいけない。

抑えられずに、まるで10歳もそこそこの子供のようにそれを吐露してしまった。
とても顔を向けられない。

「菅野さん」

呼ばれたが、返せない。
目も見られない。

「菅野さん、ありがとう」
「へ」

今度は、菅野が目を丸くする番であった。
呆れ笑いでも苦笑いでも、何でもされる覚悟は出来ていた。よもや混じり気のない純粋な感謝などされようとは、少しも思っていなかったのだ。
それは、完全なる不意打ちであった。

「実は私、当時も本気でこの人何言ってるの?としか思えなかったの」
「ええー……」
「だって、菅野さんの言う通りじゃないですか」
「お、おお」
「私は菅野さんの考え方のほうが、火が灯るみたいに明るくて、よっぽど好きよ」

だから、ありがとう。
言って、すっかり大人しくなった菅野の、雲ひとつない夜空のような、真っ直ぐで、真っ黒な目を、みょうじは覗き込んだ。好きよと笑いかけられた当人は、熱くなった頬を隠すように俯くばかりである。その様子を見て破顔するみょうじのほうも見られず、ただこのひと時への愛おしさを、心の奥底で噛み締めた。

さて、と何かを仕切り直すみたいに、みょうじは言った。

「何か聞きたいことはありますか?」

地面を這っていた視線は、再び彼女のほうへ。どこか挑発するような、愉しげな笑みを浮かべたみょうじのその表情に、死んだ旦那云々の話の流れに、菅野はそれを察した。
バレている。
冷静になった俺が今、聞きたくて仕方がなく、しかし聞きたくないような、そんな行ったり来たりの感情の中にいるのを、この人は分かっていやがるのだ。頭を抱えたくなり、しかし今を逃せばこの件に関して聞けるような機会はないだろう。
意を決し、聞きたいことをぼそりと一言に集約させた。

「……旦那さんとは好き同士で?」
「だから言ったでしょう?好みじゃなかったって」
「あれホントだったのかよ!?」
「だって好きにさせてもらえるより先に亡くなったから。恋とか愛とかの感情が生まれるより先だった」
「……好きじゃなかった?」

訳はないだろうと思いつつ、希望的観測での質問を投げかける。

「分からないの。好きも嫌いも分からない」
「そんなもんか?」
「案外そんなものでしたよ、夫婦なんて。
それに私、やっぱりここが好きだったから」

みょうじは小さなため息を吐き、灯りのほとんどない暗がりの町をくるりと見渡した。すでに、彼女の手伝う店が見えるところまで来ていた。

「嫁いでも私…ここが好きで、忘れられなかった。この町が好きだし、この町の人が好き」
「分かります。俺もこの町が好きです」
「ほんと?嬉しい。
だからね、私、この町を好きになってくれた菅野さんのことも好きよ」

まるで歌でも歌うみたいな軽やかな流れだったものだから、一瞬何を言われたのか分からなかった。