仕事終わり、休日の前の日、誕生日。
仕事の最中ずっと我慢していた痛みは限界を超える一歩手前だった。何とか駅の近くまで歩いてきたものの耐え切れず、道すがらのベンチに腰を下ろし、靴を脱いだ。ストッキング越しに滲む血が痛々しい。ケーキでも買って帰ろうと思っていた、朝に立てた計画が台無しだ。

「あれ、みょうじさんじゃない?」

少しクセのある、高めの声は聞き紛うことはない。断言してもいい。
ゆっくりと、顔を上げる。新しい靴で擦れて、真っ赤になった自分のかかとばかり気にしていた。ついさっきまで流れていくばかりだった人の波の、その最中。急に歩みを止めた男を厭わしそうに避けて歩くたくさんの人の中、立っていたのはやはり、高校時代の級友であった。



もう何年も前、及川となまえが高校3年の時。新しく買った靴を履いて、友達と遊んだ日のことだった。
友人と駅前で合流し、特別何かする訳でもなく駅の辺りをふらつこうという話になった。まずはご飯を、と駅構内の小さなファミレスに行くまでは良かったのだ。
それから友人の買い物に付き合い、駅ビルをあっちこっちしている内、左足のかかとに違和感が生まれた。始めは意識を逸らせばごまかしの効くような小さなものだった。しかしそれは、次第に存在感を増していった。靴擦れを起こしていたのは、もう明らかだった。
またか、と天を仰ぎたくなるようなやるせなさに苛まれた。靴を買う時は時間をかけて、自分の足に馴染んでいるかを確認しなければ。そう思って、実行して、買ったはずの靴だった。だというのに、友達と別れる頃にはすでに痛みが限界に達していた。
改札に吸い込まれていく友人の背中をを見送った後、無機質な灰色の壁際に寄った。壁を支えに片足立ちになり、患部を見てみる。買ったばかりで安物のプラスチックみたいに固いパンプスは、かかとの、ちょうど皮膚が薄くなっている部位をじわじわ削っていたようだ。じんわりと血が滲んでいる。
ゴキゲンに足取り軽く歩いていた頃の自分と、今この場から少しも動きたくない自分。何よりも憎たらしいのは靴を買った時の自分だった。なんでもっと吟味しなかったんだ。その場で一目も憚らずに頭を抱えたくなる衝動に駆られながら、大きくため息をついた。

「みょうじさん? どうしたの?」

そこに現れたのが、及川だった。普段教室か校舎内のどこかか、はたまた体育館かのどれかでしか見ない彼の普段着は、意外にもラフなものだった。いかにも伊達男、といったイメージからは外れていたが、それでも無地の白シャツやカーキのジャケットは、よく似合っていた。
どうしたのと問いかけられて、なまえは言い淀んだ。友人に靴擦れを黙っていたのも、心配をかけたくないからだ。突然目の前に現れた、そこまで接点のないクラスメイトに頼っていいものか。少し迷って、しかしいつまでも黙っているほうが可笑しいだろうと、ありのままを話した。

「ああ、そっか。確かにみょうじさんが履いてる靴、ピカピカだもんねぇ」
「うん…この間の休みに買って、今日下ろしたばっかりだったの」
「女の子は大変だよね、ヒールとかあるし」
「男子も靴擦れすること、ないの?」

そう問いかけた時の、及川のきょとん顔は今でもわりと鮮明に思い出せた。髪の色に近い、明るい茶色の目が、彼がいつも追いかけているバレーボールみたいに丸くなっていくのが、なんだか可笑しかったのだ。

「確かに…男が靴擦れってあんまり聞かないよなぁ。なんでだろ、やっぱ皮膚の厚さとかかな? あとヒールのあるない?」

そうやって、何気ない疑問にあれこれ答えを探そうとする及川は、なんとなく新鮮だった。
3年で初めて同じクラスになる前までは、及川の存在自体は知っていた。しかし噂に聞く彼は、ドラマや小説の登場人物が如く扱いで、どうにも学校の七不思議のうちの一つのようにしか感じられなかった。いざ同じクラスになった時、端正な顔立ちを毎日拝むようになって、別のクラスの友人に羨ましがられたのも覚えている。

「あ、とにかく一旦座ろうか?」
「うん、とりあえず向こうのベンチまで行こうと思って」
「歩ける? 肩貸すよ」
「あ、うん。大丈夫、歩けるよ」
「そう?」

及川はじゃあ、と口元に小さな笑みを浮かべながら、まるで踊りにでも誘うように、流れるように手を差し出した。

「さ、行こうか」
「…いや、えっと……私普通に歩けるよ?」
「いいじゃん、手くらい貸させてよ」

有無を言わさないような、ムダにキラキラとしたオーラに、なまえは苦笑し、おずおずと手を伸ばした。満足したように目元をくしゃりとさせる及川は、すかさずその手を掬い上げるように取り、ゆっくりと歩き出した。

「女子は靴選ぶの大変だね」
「うん……自分の足にピッタリくる靴を探すのって、何でこんなに難しいんだー! って、靴擦れするたびに思うよ」
「そういえばフランスのことわざで、いい靴を履くとその靴が素敵な場所へ連れていってくれる、ってのがあるんだってさ」
「へえ、なんか素敵だね」
「いつかみょうじさんも見つかるといいね、そんな靴」



「……及川くんって、何でか私が靴擦れしてる時に現われるね」
「え、また靴擦れ!? 大丈夫?」

また、という及川の言葉に、及川もまたあの時のことを覚えていてくれたのかと、なまえは少し嬉しくなる。
結局あの後、ベンチまで歩いていって、絆創膏を何枚も貼って、及川くんに家まで送ってもらっちゃったんだっけ。その道中も途切れることなく動き続ける彼の口を見ながら、よくこんなに言葉が続くものだなぁと思ったのを、なまえは思い出した。
思い出して、記憶の中の及川と、今目の前にいる及川、ほとんど変わっていないことに気づく。あの時から他の男子より大人びてはいたが、当時よりも垢抜けて、髪も少し短くなっている。

「何笑ってるの? みょうじさん」
「いや、私及川くんと特別仲良い訳じゃなかったけど、なんか及川くん変わんないなぁと思って」
「……あの時よりイケメンになったと思ったんだけどな」

不満そうに口を尖らせる及川の、子供のような仕草に、また笑いがこみ上げた。
当の及川は、肩にかけていた旅行カバンのように大きなスポーツバッグを地面に置き、なまえが脱いだピンクベージュのパンプスを手に取った。華奢なそれを包み込んでしまうような大きな手で、それを弄ぶ。くるくると、物珍しそうに色んな角度からそれを眺めた。

「可愛い靴だね」
「うん、気に入ってたんだけど……慣れるまで時間かかりそう」
「ふぅん」

及川はややあって、手に持っていた靴をなまえの足元に置き立ち上がった。

「みょうじさん、ちょっとここで待ってて」
「え?」
「いいからいいから」
「あ、ちょっと及川くん!」

呼びかけた時には、及川はすでに走り出していた。なまえが呼びかける声に反応した及川は少し振り返り、何故か笑顔で頷きながら、そのまま駅の方面へ走って行ってしまった。一体何だというのだろう。

結局在学中、及川徹という人についてあまり知ることなく終わった。イケメン、キラキラ、エース。それに案外努力家らしいという噂も、女子バレー部の友達から聞いたことがある。
今もまだ、バレーを続けているのだろうか。及川が自分の足元に置いていったスポーツバッグをぼんやりと眺め、その中身をあれこれ想像してみた。
部活中の及川は、普段とはまるで違う人のように見えていた。ボールを大きな手で弄び、宙に高く放ったそれを叩きつける、まるで射るようなサーブ、そして目線。及川徹という人間について知っていることは少なかったが、それでも及川がどれだけの実力者か、バレーという競技に真剣かはなんとなく察することができた。
きっと及川のファンだった女子たちの、何百分の一程度しか彼のことを知らない自分だが、及川がバレーを続けていてくれたら嬉しく思うだろう。


しばらくして戻ってきた及川の手には、カサカサと音を立てるビニールの袋が一つ提げられていた。ひょっとして絆創膏でも買ってきてくれたのだろうかと思ったが、どうやら違うらしかった。

「お待たせ」

じゃーん、と笑いながら及川が袋から取り出したのは、ベランダや縁側に置くようなつっかけのサンダルだった。見た目にも安っぽいシリコン製のものだったが、なまえが靴擦れした靴と似た色合いの淡いピンクが可愛らしい。

「これならかかと痛めないで歩けるかなって思って。ホントはもっと可愛いのがいいかと思ったんだけど、今はデザインより歩きやすさだよね」
「ありがとう……まさかサンダル買ってきてくれるとは思わなかった、予想外」
「前にみょうじさんが靴擦れしてるところに出くわした時、ほとんど何もしてあげられなかったからさ」

このサンダル、貴女にピッタリだと思いますよ。言いながら及川はなまえの前に跪き、サンダルをなまえの足元へ差し出した。地面に置いてくれればいいのにと思ったが、及川は笑顔でサンダルを差し出したまま、なまえの目の前で微笑んでいる。公衆の面前でなんとも恥ずかしい。思いながら、仕方なくそれに足を通す。
少し足をプラプラさせてみる。確かに、サンダルはしっくりくる大きさだった。つっかけだけど、足に合っているおかげで不安定にならない。さっき靴を手に取り、眺めていた時にサイズを確認していたのか。及川の抜け目ない行動に、なまえは内心感心していた。

「ありがとう……久しぶりに会ったのに、迷惑かけちゃって、ごめんね」
「いーえ! 迷惑なんてことぜーんぜんないからさ、気にしないで? 俺も久々に昔のクラスメイトに会えるなんて思ってもいなかったから嬉しいんだ」
「私も、誕生日なのに靴擦れしちゃってやんなっちゃうーって思ってたけど、及川くんが来てくれて色々吹っ飛んじゃった」
「誕生日? 今日?」
「うん。友達にはちょっと早めにお祝いしてもらったから、今日はケーキでも買って帰ろうかなって思ってたんだけど、今日はやめとく」

なまえの眉を下げた笑顔を前に、及川はなぁんだ、と明るく笑った。

「じゃあ俺今から買ってくるよ」
「え! さすがにそれはいいよ、申し訳ないもん」
「俺さ、靴買い替えてから歩き心地がすごいよくて。言ったじゃん? いい靴を履いてるといいところに連れていってくれるって」
「うん……覚えてる、ちゃんと覚えてるよ」
「だから超ウマイケーキ売ってるお店にも、こいつが連れてってくれるかもしれない。だからさ」

待ってて! と言うや否や走り出した及川を止める間は、なまえには与えられなかった。

「……口が上手いなぁ」

女の子の扱いに慣れているというのが全身から滲み出ているような及川の一挙手一投足に、なまえは思わずひとり言を洩らした。
でも、今日くらいは、あの王子様のような元クラスメイトに甘えてもいいのかもしれない。偶然の再会ではあるが、これもきっと何かの縁。及川が戻ってきたら聞きたいことも、なまえには山ほどあった。仕事は何をしているのか、まだバレーを続けているのか。当時のクラスメイトで、まだ交流がある人はいるのか。
あれやこれやと及川に投げかける質問を頭に思い浮かべるなまえだが、やたらと献身的な彼の想うところは、まだ知る由もない。