※現パロ


まるで部屋の隅に固まる綿埃のような灰色の雲が空を覆う。今日みたいな日が、もう何日続いただろうか。天気予報を見ても、青と灰色ばかりが並んでいて、気持ちも塞ぎ込んでしまう。
ブレザーを着た学生や、スーツを着た営業終わりらしきおじさん。すれ違う人の中にはちらほらと傘を持って歩いている人がいる。鞄の中で小さく縮こまっているはずの折り畳み傘の存在を、頭の中で思い出した。街に並び立つビルの窓にも灰色の空が写っていて、世界の全てが薄暗く、鈍い灰色に染まってしまったみたいだ。
ぬるい空気の中に、雨の匂いが混じっている気がした。降ってこないうちに帰って洗濯物を取り込まなければ、と足を速める。曇りだから大丈夫だろうと干してきてしまったことを、一日中ずっと後悔していた。

「あ……」

そんな事を考えているそばから、ぽたり、と鼻先に雫が落ちてきた。その1粒を皮切りに、再び落ちてきたそれは次々に私の髪やら服やらを濡らしていった。もわもわした雲は、それまで抱えていた水分を一気に絞り出すみたいに、大きな雨粒を落とし始めた。
手探りで、鞄の底から折り畳み傘を取り出そうとしたが、それらしきものに手が行き当たらない。もどかしくなって鞄の中を覗きながら探すも、それは見当たらなかった。これは、ひょっとしたら。

「忘れた……?」

耐えられず、周り視線も憚らずに大きなため息を溢したが、今はもうため息を吐いたって事態はどうにもならない。再び出そうになるため息をぐっと喉の奥に押し込め、アパートに向かってひたすら足を動かした。


慌ててダッシュして、なんとかアパートにたどり着いたものの、すでに全身びしょ濡れになってしまった。秋を過ぎて冬に向かっていく木枯らしが、濡れた体を容赦なく吹きつける。肺が縮こまって、息が詰まるような寒さだ。
靴の中にも水が浸みて、階段を一段一段踏みしめるたびに水が浸み出てくるのがなんとも気持ち悪い。そういえば、雨の降る中を走ると、歩くより余計に濡れると誰かが言っていたのを、今頃思い出した。

「最悪だ……」

ドアの前で鞄の中にあるはずの鍵を探すべく、ごそごそと鞄を漁った。悴んで思うように動かない指先があまりにもどかしく、探り当てた鍵を鍵穴へ差し込むのもあっさりとはいってくれない。いい年して若干泣きそうになりながら鍵と鍵穴をカチャカチャいわせていたら、何故かドアの向こうから足音が近づいてきた。思わず漏れた、え、という私の呟きは聞こえているのかいないのか、そのゆったりとした足取りは確実にドアのほうへ近づいてくる。
だって、ここのもう一人の住人は、まだ仕事の時間なはずなのだから。誰かいるというのはちゃんちゃら可笑しい話なのだが。そんな困惑をよそに、いきなりガチャリと、開くはずの無いドアが開く。
ドアの向こうからひょこ、と顔を出したのはここのもう一人の住人、長次。
彼は雨音に消されてしまいそうなほど小さな声で、おかえり、と言った。それは囁くような小さなものだったけれど、私はその声に、言葉に、すっかり安心してしまった。寒さで震えていた指先も大人しくなるくらいに。
ただいまと返事をしながら、とりあえず玄関へ体を滑りこませる。長次は、持っていたタオルを私の頭にふんわりとかぶせて、軽く丸められた新聞紙を二つ、私に差し出した。

「靴に詰めておけば、明日には乾くから…」
「うん……でも長次、いつもはまだ仕事の時間じゃない?」
「いつもより、早めに終わった」
「そっか、ありがとう」

なんだか、長次がお母さんみたいだ。
お茶を淹れる、と言いながら台所へ向かう長次の背中を見送りながらそんなことを考えて、少し笑ってしまった。
柔らかいタオルで、ずぶ濡れになった頭を極力ぼさぼさにならないように拭き、すっかり水分を吸収してしまったストッキングを脱ぎ、言われた通り新聞紙を靴に詰めた。指でつまんだストッキングを洗濯機へ放り投げ、私はようやくリビングで落ち着くことが出来た。
が、落ち着いたおかげでクリアになった頭の隅から、追いやられた記憶が蘇ってきて、私の頭は再び焦りに支配される。

「せ、洗濯物!!」

勢いよく立ち上がり、ベランダの方へ向かおうとする私の肩に、大きな手が置かれた。

「大丈夫だ、取り込んだから」
「え、あ、そっか……ありがとう」

なんだか一気に力が抜けて、私はへなへなと座り込んだ。長次はテーブルを挟んだ向かい側に腰を下ろし、胡座をかいた。
彼が淹れてくれた温かいお茶は卓上で白い湯気をたたせている。そしてもう一つ、いつもはお味噌汁を飲むのに使う漆の椀が。そして、ほんのり甘い匂い。

「お汁粉?」

長次はこく、とゆっくり首を縦に降る。
椀の中では、こんがりと焼き色がついた餅が、黒くつややかなこしあんのお汁粉の中を泳いでいる。そしてもわもわした湯気と共に昇る、とろけた小豆の甘い香り。
それらに誘われるように、椀に自然と手が伸びる。指先が触れると、熱すぎずちょうどよい温かさに心がすとん、と落ち着いた。

「いい匂い」
「美味くできたはずだ……」
「長次が作ったんだし、美味しくないはずないよ」

私の言葉に、長次は眩しそうにぱちぱちと瞬きを繰り返し、ほんの少し目を細めた。長次は意外と分かりやすい。

「いただきます」
「ん…」

ふうふうと息を吹きかけ、そっと一口啜る。まだ少し熱すぎるくらいのお汁粉に、舌が驚いた。でも、それも一瞬のことで、すぐに小豆の素朴な甘さが口の中を満たす。
長次の作るお汁粉はなんでこんなに美味しいんだろう? 以前聞いたことはあるけど、教えてはくれず、少しだけ嬉しそうに首を横に振るばかりだった。ちょっとムッとはした。ケチだとも思った。でも、ずっと二人でいれば、ずっと長次のお汁粉を食べていけるし、それでいいかな、と思う。多分、長次が首を振ったのは、そういうことだ。

遠くで鳴るクラクションの音に、思わず窓のほうへ目をやる。雲が空を覆い隠したせいで、外はすでに夜の様相へと顔を変えていた。道路を滑る車のライトも、青や黄色のコンビニの看板も、居酒屋の赤提灯も、窓ガラスに滴る雨粒を彩っている。

「長次、美味しいよ」
「そうか」
「うん、ありがとう」
「ああ…」
「ね、長次。窓、綺麗だよ」
「そうだな」
「長次」
「なんだ…」
「おかわり」

空になった椀をずい、と差し出すと、長次は小さく笑った。ふ、と小さく声を漏らして笑う長次なんて、あんまり見られない。長次は椀を受け取り、台所へ向かった。去り際に軽く頭を小突かれた。食べ過ぎるな、ってことか。
ああ、気が抜けたせいか欠伸が出る。眠たくなるような気だるさの正体は、多分幸福感からだ。
テレビもラジオも点いていない部屋に、雨音と、街の喧騒と、私たちの声だけが響いている。長次が戻ってきたら、ありがとうをもう一度言おう。二人でよかった、ってことを伝えるために。