※現パロ


遠くで犬が高く吠えているのが聞こえる。主人が帰ってきたのを喜んでいるのだろうか。
もう夜の12時を回っているというのに、目の前を行き交う人の流れは忙しなく、止まる気配はない。駅の入り口から漏れる柔らかな白い灯りと、繁華街の鮮やかなネオンピンクやオレンジが夜の街を照らし出す。

「煙いなぁ」
「だから向こうで待ってろっつっただろ」

眉間に皺を寄せた、不機嫌なのを隠す気もない表情は相変わらずだと思った。私が喫煙所までついてくると、潮江はいつもこういう顔をする。夜の少し冷たい風と一緒に、灰色の柔らかな煙が辺りを漂った。
潮江の目の下にはうっすらと黒く隈が浮かび上がっていて、視線もどこか遠くへ放り投げられている。仕事が忙しいのだろう、くたびれた表情で煙草を吸う潮江は私のほうを見ない。私の誕生日だからと、疲れているところわざわざ会ってくれたのが嬉しい反面、申し訳なさで視線を地面に落とす。
ビルの合間を抜けてきたであろう風が、まるで口笛のような音を立てながら木の葉をくるくる舞わせている。
その葉を目で追った先に、ギターを片手にメロディーを口ずさむ女の人がいた。どんな顔をしているかよく見えないほど遠い場所にいるのに、音や声はやけに響いてくる。まるで指の動きが見えるみたいな滑らかなギターの音は、耳障りがとてもいい。
彼女が歌っているのは私がいちばん好きな歌だ。名前も知らない彼女の歌声に、時折足を止める人の姿もあった。何人かは、ずっと彼女の目の前でその音と声に耳を傾けている。
柔らかなメロディーラインの三度下を小さく口ずさむと、潮江は細く煙を吐いた。

「…飛び入り参加してきたらどうだ」
「あ、馬鹿にしてる?」
「してねーよ」

言いながら、潮江は煙草を灰皿に押しつけ、ストレッチでもするみたいに腕を大きく伸ばした。体にたまった疲れを丸ごと吐き出すみたいに大きなため息をついた後、行くか、と呟いた。

「え、もうちょっと聞いていきたい」
「終電無くなったら歩いて行くしかなくなるぞ」
「ええ〜そんな……シオえも〜んなんとかして?」
「ざけんな」
「誕生日くらい多少のわがまま言っても許されるかなと思って」

えへ、と首をかしげてみたらあからさまに引かれた。
彼女の歌に後ろ髪を引かれてぶーたれる私に、潮江は顔をしかめ、肩をすくめながらため息をつく。そして真っ黒な鞄に手を突っ込むと、小さな何かを取り出した。

「これやるから行くぞ」

ぶっきらぼうな言葉と共に差し出されたのは、小さな箱。
潮江のごつい手の中にちんまりと収まる箱は淡い紫色で、白いリボンがかかっている。
繊細そうなそれを、潮江の手からそっと持ち上げてみた。見た目に反してわりとズッシリしている。潮江のことだから無難にアクセサリー類かと思ったが、どうやら違うらしい。

「開けてもいい?」
「ああ……って、もう開けてんじゃねーか」

潮江の了承を待ちきれずに、きゅっと結ばれたリボンをほどく。
箱の蓋を開けると、中から顔を覗かせたのは、機械仕掛けが透けて見える透明の。

「オルゴール?」

ダイヤモンドのようにカットが施され、街の灯りをクリアに反射させている。その輝きに思わずわぁ、と感嘆の声をあげてしまった。慎重に持ち上げて、色んな角度からそれを眺める。
底には曲名が書かれたシールが貼ってある。駅前で疲れた人々の心を癒やしていた、彼女がたった今歌い終えた、あの曲。

「すごい、素敵」
「この間出張で行った先がちょうどそういうのが有名なところだったから、そこで買った」
「へぇー」

潮江が、きっとこんなキラキラで溢れたお店の中で、この可愛らしいものを手にとって、私が好きなこの曲を探してくれて。
一連の流れを想像してみたら、なんだか温かなものがふつふつと心の奥から湧き出て来るみたいで、意図せず上がった口角を抑えきれなかった。

「潮江、ありがとう」
「ああ」
「ていうか、結局最後まで聞けちゃったね。あの人の歌」
「おかげで歩いて帰らにゃならんがな」

遠くの彼女はまばらな拍手を受けながら、笑顔で頭を下げていた。終電はあと1分で発車する。わざわざ走ってホームに行くのも、なんだかそういう気分ではないし。
ここから潮江のアパートまで30分ほど。1日仕事をして、とても疲れているはずなのに、心はすごく元気だ。

「私今ならドバイ辺りまで歩いて行ける気がする」
「歩いて行けねーだろ」
「それくらい浮かれてるってことだよ」
「おめでたいやつ」
「ん?おめでとう?」
「言ってないわ」

バカタレ、と言う潮江の声は少し笑いまじりで、顔を覗き込んでみたら頭のてっぺんをペシリと叩かれた。少しも痛くなくて、それがなんだかすごく嬉しい。
隣を歩く潮江の歩幅は、少し小さくてゆっくりな気がした。