※春高予選前くらい


足を前へ前へと運ぶたび、風を切るたび。汗が滲んだ顔に、河川敷の下から吹き上げてくる涼しい風が当たって、前髪を靡かせるのが心地よい。どんなに息が切れてきても、足を前へ進めることが止められなくなる、そんな感覚に陥る。

河川敷の下へ目をやったのは、特に意識的なものではなかったし、何気ない動作だった。滴った汗を手で軽く拭いながら河川敷の下へ視線をずらした、その時だった。

「え」

そこで目にしたのは、なんともよく分からない光景だった。本当に、よく分からないとしか言えないのだ。日常生活ではそうそう見ないような、思わずえ、なんて言ってしまうような。
女の子が、草原の上に仰向けで寝転んだ状態で、カメラを構えていたのだ。しかもなんかブツブツ言ってるのがちょいちょい風に乗って聞こえてくる。空に向けてカメラを構え、シャッターを切り続ける彼女は、そのゴツいカメラが邪魔で顔がよくは見えないが、雰囲気や行動でなんとなく察しがついた。
背の低い草たちを踏み分けながら、上がっている息を整えるためゆっくりと河川敷の下まで降りていく。足元の短い草を踏むたび、サクサクと耳触りのいい音を立てた。

彼女が寝転ぶそのすぐそばに立ってみたが、彼女はいまだに俺の存在に気づいていないらしく、1人でなにやら笑ったり呟いたりしている。

「よ〜しよしいいぞ〜…あ、いやもうちょい……」
「怖いよみょうじ」
「うおっ!?」

女子らしくもない低い声を上げながら、みょうじはカメラを勢いよく顔から離した。その向こう側には、目をぱちくりさせるみょうじの、すっかり間の抜けた顔があった。

「なんだ縁下かぁ」
「何してんの」
「見ての通り、写真撮ってる」
「いやまぁそれは分かるんだけども」
「じゃあなんだい」

どっこいしょ、なんて言いながら体を起こしたみょうじは、立ち上がって体についていた草を払い落とした。細かな緑色が、みょうじの服からぱらぱらと大量にこぼれ落ちる。一体いつからねっころがってたんだ。
みょうじとは1年の時から同じクラスで、委員会が同じだった時期もあった。それなりに仲が良くて、たまに試合を見に来てくれていることも、みょうじが写真部だってことも知ってる。
知ってるんだけども。

「なんであんな体制で写真撮ってたの?」
「なんでって……ホレ」

みょうじの細い人差し指が、ピンと真上を指した。その指の先を目で追い、空を仰ぐ。
そこには、水彩画みたいに淡い空色をバックに、大きな白い雲が浮いていた。そして鳥の黒い影がいくつか、群れをなして飛び回っている。虫でも追いかけているのだろうか、その動きは綺麗に揃っていた。
まぁ確かに、雲は見事だし空も綺麗だ。でもそれだけで写真の被写体になるのだろうか? みょうじのほうを見て首を捻ると、みょうじはちょい待ち、と言いながらカメラの画面を見て何やら操作し始めた。
ピ、ピ、というカメラの操作音が何度か繰り返され、それからみょうじはそのカメラの画面をこっちに向けた。そこにはみょうじが撮ったらしい写真が表示されている。

「ほら、この雲の形、何かに見えない?」
「……鳥?」
「そうそう! 時間経って、ちょっと形崩れちゃったんだけどね。少し前まではいい感じに鳥っぽかったの」
「なるほど、これは確かに」

すごい、と素直に感心した。
その写真は、右側半分以上をその大きく白い鳥のような雲が占めていて、異様なまでの存在感を放っている。今は、翼のように見える部分を中心に形が崩れてしまったようだが、この写真に写る雲は、紛れもなく鳥に見えた。構図の捉え方がいいのか、本当に生きているようにさえ見える。まるで、みょうじがカメラを通してあの雲に命を吹き込んだみたいだ。
そして左側には、黒い鳥の小さな影がいくつか。今も俺たちの頭上で羽ばたいている彼らだろうか。
その写真の中では、まるで小さな黒い鳥が大きな白い鳥に立ち向かっているみたいだった。

「あのさ」
「うん?」
「この写真って、何枚か現像できたりする?」
「うん、出来るけど…あっひょっとして感動? 私のスンバラシイ写真に感動した? ん?」
「うん」

素直に頷くと、ヘラヘラとフザけた調子だったみょうじはきょとんと目を丸くした。
本当に、みょうじの写真の迫力はすごいと思った。けれどそれ以上に、なんだか、この写真の黒い鳥たちに自己投影してしまったのだ。
自分たちの何十倍も大きな相手に立ち向かおうとする、烏野のユニフォームのような黒い鳥。鳥の種類にはあんまり詳しくないし、あの鳥が烏なのかどうかは分からないけど。

「なんか、必勝祈願のお守りみたいにしたいなぁと思って。試合で上手く飛べるように、みたいな……」

なんだかこの写真には、そういう力があるような気がしたのだ。見ると心が奮い立つような、そんな力。

「…よし、わかった」
「いい?」
「うん、でも写真あげる代わりに約束」
「約束?」
「そう、この写真を出来るだけいっぱい試合に連れてってあげること」

ね、といたずらっぽく笑うみょうじは、小指を差し出して俺の目を見る。頑張って勝ち抜けよ、という彼女なりのメッセージだと受け取っていいだろうか。

「うん、分かった、約束」

彼女のぴんと伸びた小指に、自分の小指を絡めた。縁下は指長いねぇ、なんて笑いながら、みょうじの小指がきゅっと絡まるのが少し恥ずかしい。
俺はまだまだ、あのチームの中では無力だ。影山や日向、田中や先輩たち。俺たちのチームはみんな強い。俺がコートに立つ場面なんて一度もないかもしれない。
それでも、もう逃げないから。いつかコートで飛べる日まで、この写真がきっと、俺の背中を押してくれる。そんな気がした。