※死ネタ


一日の仕事がひと段落して、分隊長も大人しく眠ってくれて、さて寝る前に一人晩酌でもしようかと自室へ戻ると、部屋のドアの前に腰掛けている同僚の姿がそこにあった。ぼんやりと宙を眺めている彼女は、まだこっちには気づいていないらしい。
もう遅い時間なのだから普通なら夢の中でもおかしくないというのに、という言葉はブーメランになるからしまっておこう。

「どうしたの?」

声をかけると、なまえは小さく肩を揺らして顔を上げた。驚いたように丸くなった目は、俺の姿を確認すると、すぐに安心したように緩まった。

「ごめん、急に来ちゃって」
「いや全然。どうかした?」
「あのさ……モブリットって、絵、上手いよね?」
「絵?上手い…って程でもないと思うけど。なんでまた?」

問うと、彼女は口を少し開いたが、すぐにぐっと閉じてしまった。何か言いづらいことなのだろうか? 絵に関する何かであることは確かだ。
確かに仕事上スケッチなんかも多少するけれど、自分ではそこまで絵が上手いとは思っていない。絵が上手い下手というよりは、起こっていること、目に見えていることをいかに正確に描きとれるかが大事なわけで。
なまえが期待しているような力があるかどうかはわからない。

「えっと、とりあえず座って話す? 立ち話もなんだし」

話しながらドアノブに手をかけ、彼女に問いかけると、不安気だった表情は分かりやすく明るくなった。ひょいと立ち上がりドアから離れ、彼女は「お邪魔します!」と顔を綻ばせる。
どうぞ、と言いながら中へ入るよう促すと、彼女はぺこぺこと何度も頭を下げながら部屋に足を踏み入れた。彼女は初めて俺の入る部屋に落ち着かないのか、キョロキョロと部屋の中を見回している。
パッと見は仕事関係のものばかりで、殺風景で何の面白みもない部屋だと思う。しかしよく見ると、昨日飲み干した酒の瓶が転がっていたり空いたグラスが机の上に置きっ放しになっていたりとだらしがないので、正直あまり見回されると恥ずかしい。誤魔化すみたいに、なまえには椅子に座るよう言って、自分はベッドに座った。

「それで、どうかした? 何か相談とか?」
「あーっと……うん、相談、かな?」
「絵のこと?」
「まー…うん、そうだね」

彼女の言葉はいまいち歯切れが良くない。そんなに言いづらいことなのだろうか。ひょっとして、好きな人の絵を描いてほしいとか。たまにいるんだよな、好きな人がいるからその人の似顔絵が欲しいとか言う人……いやまさかそんな、真面目な彼女に限ってそんなことは。
一人で勝手にあれこれ思案を巡らしていると、彼女はその間に意を決したのか、すっと息を吸った。

「笑わないで聞いてほしいんだけどね」
「うん」
「夢のね、絵を描いてほしいの」

彼女の言葉が、瞬時には理解出来なかった。夢を描く、とはよく使う言い回しだが、一体どういうことだろうか。

「あのね、馬鹿みたいって思うかもしれないけど、今日見た夢がすごく綺麗で、目に見えるものに残しておきたいなー……なんて、思ったんだ、よね」

言いながら、どんどん尻すぼみになる彼女の声は、ついには消えてしまいそうなくらい小さくなってしまった。それと同時に彼女は、膝の上に置いていた手をぎゅっと握りしめる。
なるほど、夢というのは寝ている時に見るほうのものか。つまり、なまえが見たというその綺麗な夢の光景を、絵に描いて残しておきたい、俺にそれを描いてほしい、ということ。
一瞬、何も考えずに承諾の返事を投げかけようとした。が、それに心の中で慌てて待ったをかけた。

「…あんまりちゃんとした風景画とかは描かないから、正直あんまり力になれる自信はない、かな……」

俺が得意、だと言えるのはあくまで「状況を記録する」スケッチだ。彼女の夢がどんなものかは分からないが、俺は芸術としての絵を描く機会は無いに等しいし、自分の目で見ていない風景を、彼女の期待に応えられるレベルで描ける保証はない。無理したとして、微妙なレベルのものを彼女に見せたとして、変に気を遣われたりしたら俺にとっても彼女にとっても良いことはないだろう。

「ごめん、やっぱりちょっと、出来ない、かな…」
「うん……そう、だよね」

彼女は俺の言葉に、寂しげに眉を下げて、けれど顔を上げ、笑ってそれを受け入れた。



あの時、どうして彼女の願いを聞いてやらなかったのだろうかと、彼女の寂しげな表情をたびたび思い出しては、胸に重く暗い感情が垂れ込める。無理を承知でもとりあえずやってみれば良かったのだ。下手でもいい、落書きみたいなひどい出来でも、彼女はきっと、ありがとう、と笑ってくれたはずだ。あの時はまさか、彼女がこの世からいなくなるなんて思いもしなかったのだ。
この世界は酷く残酷で、いつ誰がいなくなってしまうか分からない。隣にいるのが当たり前な人が、いつも目の前でごはんを頬張る友人が、自分を信じて頼ってくれる人が、いついなくなってもおかしな話じゃない。頭ではそんなこと分かりきっていたはずだ。今までもそうだったのだから。
けれど何故なのだろうか。人はどうして、そんな大事なことも忘れてしまうのだろうか。彼女がいついなくなってもおかしくないということを、何故忘れてしまっていたのだろうか。
いや、きっと違う。忘れていたなんて、もっともらしいただの言い訳だ。俺は単純に嫌だったのだ。彼女に頼まれたことをやり遂げられないことが。自分の得意ではない風景の絵を無理にでも描いたとして、不出来なそれを彼女に見られるのが嫌だったのだ。あまりにも単純で子供じみた理由で、自分自身に反吐が出る。喉の奥になにかこみ上げるような気持ち悪さが、あの時のことを思い出すといつも付き纏う。馬鹿だ、お前は。彼女の想いよりも、自分のちっぽけで、あるかないかも分からないようなプライドを優先したんだ。
馬鹿だ、俺は。


「モーブリット」

朝日が昇り始める時間。いつもは自分が叩き起こしているはずの分隊長が寝起きで頭が朦朧としている俺の部屋にやってきた。

「珍しいですね…随分早起きで」
「いやね、やっぱりこれはモブリットに渡しておくべきかなと思って」

分隊長は、手にしていた一枚のメモ用紙のようなものをずい、と俺に差し出した。怪訝に思いながらも受け取ると、分隊長はメガネの奥の目を少しだけ細めた。うん、と一つ頷き、俺の肩をポンポンと叩き、それから手をヒラヒラさせながらさっさと俺に背を向けた。「ゆっくり読んでから仕事でいいからねー」なんて言いながら、ドアをバタンと音を立てて閉め、行ってしまった。
一体なんなのだろう。分隊長も、この紙も。あの分隊長がこんなに早く起きて。しかも自分より早く。言っちゃ悪いがちょっと怖い。

分隊長の足音が聞こえなくなり、静寂が戻った部屋で、渡された紙切れに目を通した。そこに書かれた、少し丸みを帯びた、けれど丁寧な文字には見覚えがあった。


一本の、長い道を歩いていた。周りは若草が広がる草原で、私はそこを一人で歩いてる。その道をずっと歩いていくと、小高い丘のような場所に繋がっていた。そこには見たこともない、白っぽいような、少しピンクがかっているような、そんな花が咲いた木が、一本立っていた。綺麗な木で見惚れてしまったけれど、何より嬉しかったのは、そこに

「モブリットがいて、私を待っていてくれたらしいこと、だった……」

モブリットの、色素の薄い髪の毛も、とても綺麗だった。とても綺麗に笑って、手を振っていた。多分私はずっと、この夢の光景を忘れない。


メモはそこで終わっていた。

それからは、ひたすらスケッチブックに向かい合った。鉛筆を走らせて、筆を滑らせて。まっさらだったスケッチブックが、どんどん彼女に夢で埋まっていく。目の奥のほうが熱くなって、何度も視界が滲んだけど、その度にそれを指で拭って、ただただ描き続けた。
一枚の絵が出来る頃には昼を過ぎていて、だけど分隊長は何も言わなかった。怒るでもなく、ただ一度、俺の肩を軽く叩いて、それから普通に仕事をした。

初めて描いた風景画は、初めてにしてはいい出来なんじゃないかと我ながら感心した。俺は彼女が目にした鮮やかな色彩を見た訳じゃないけれど、俺はそこにいたというのだから、きっとこれで合っているんじゃないかと思う。
白く煌めく草原に、鮮やかだけれど淡い色合いの花々、澄んだ青空を渡っていく柔らかな、ちぎれ雲。

「遅くなってごめん、なまえ」