※諏佐が卒業後、浪人する道を選んでます


私はこんな明け方に一体何をやっているんだろう。まだ辺りは仄暗く、遠くの空がほんの少し白んできている。春を目の前にした河川敷は依然として冷たい風が吹きさらしており、首元に何も巻かずに出てきたことを今更後悔した。
漠然とした不安で浅い眠りはあっさりと覚め、まだ両親も起きていない、電気もついていない暗い家の中することもなくとりあえず家を出てきた。しかし財布も何も持ってきていないし、コンビニも入りづらいわ誰かに連絡も取れないわ、することと言えば座ってぼんやり辺りを眺めるくらいだ。
この漠然とした不安は一体なんなのだろう。未来が見えない不確かで不安定な今、足元が見えない暗がりを走らされているような、そんな感じだ。推薦で大学が決まった人も多くいる。親しい友人にもすでに進路を決めた子がいる。私はと言えばまだ志望校の合格も得られず、滑り止めに進むかもう一年頑張るかも決められずに、こうして現実から逃げている。

改めて思う。私はするべきこともせず決めるべきことも決められず、一体何をしているのだろう。

「何してんだ」
「うわっ」

目の前でゆらゆらと淡くきらめく川面に視線を落としていたせいで、背後のその気配に少しも気づかなかった。イヤホンを耳から外しながら私を見下ろす諏佐が、すぐ後ろに立っていた。

「なーんだ諏佐か」
「なんだとはなんだよ」

失礼なやつだな、と顔を顰める諏佐の顔を、座った状態で見上げ続けるのはちとキツい。
諏佐は平均よりだいぶ背が高く、いま諏佐の頭の位置は私の目線から一メートルは優に超えている。首の筋が張って、そろそろ痛くなりそうだと思っていると、そんな私の心中を察したように、諏佐は私の左隣に腰を下ろした。どっこいせ、なんて親父くさいことを言いながら。

「寒くねーの?」
「んー」
「何してんだこんな時間から」
「んんん」
「…お前会話する気ある?」
「あるある。諏佐は? 何してんの?」
「走ってた。勉強の気分転換に」
「そっか、諏佐はもう一年頑張るんだもんね」

諏佐は頭が良くて、いつもクラスの上位にいた。私とは比べものにならない脳みその持ち主だったのだが、彼の目標は高く、バスケと勉強を両方手を抜かず努力したものの結局その目標には届かなかったらしい。
でも、諏佐ならきっと、あと一年努力すればその高い目標にもちょちょいと手が届くんじゃないかと、私は思う。だって諏佐は、私が知る同級生の中で一番スゴイ奴だ。
バスケ部に強大な力を持った後輩が入ってきて、ポジションを変わることを求められた時も、それを受け入れて自分の役割をきっちり果たそうとしていた。頑なになることなく、意地を張ることもなく、静かにそれを受け入れたのだ。私ならきっとフザケンナと大暴れする場面で、諏佐はあくまでも冷静に、その変化を甘受した。
それを諦めが早いと言い、根性がないという輩もいたが、それは違うと思う。自分の成すべきポジションへすぐに身を投じられるというのは、応用力が高いということだ。自分のチームの勝利という目標のために、諏佐はすぐに自分の役割を理解し、行動に移した。
諏佐はきっと、目標のために熱くならず、どこまでも冷静でいられる頭を持った人だ。

「諏佐はすごいね」
「ん、何が?」
「調子乗りそうだから言わない」
「なんだそりゃひでーな」

諏佐は手に持っていたイヤホンをいじりながら、小さく笑いを溢した。

「なに聴いてたの?」
「ああ、ラジオ」
「え、ラジオ!?」

諏佐はさも当たり前のように言ってのけたけど、私はかなり驚いた。
ラジオというと、今時ちょっと古臭い、と言ってはなんだけど、一昔前のものというイメージが強い。少なくとも私は親の車の中とかでたまーにしか聞く機会はないし、自発的に聞こうなんて思ってもみなかった。

「ラジオって馴染みないんだけど、面白いの?」
「お、聞くか?」

諏佐は目を輝かせてやけに嬉しそうに尋ねる。私が頷くと、ちょっと待ってろと言い、イヤホンを耳につけてポケットから小型のラジオを取り出した。シルバーの、至ってシンプルだけどスマートなラジオだ。なんだか諏佐らしい。
諏佐はチャンネルを調整するためのつまみのようなものをいじくっていたが、しばらくして何か納得したように頷くと、左耳のイヤホンを外し、ずい、と差し出した。

「え、片耳ずつなの」
「俺も聞きたいもん」
「もんっていうな気持ち悪い」
「いいからホラ」

早くしろ、と半ば強引にイヤホンを手に押しつけられて、私は渋々それを耳につけた。別に嫌なわけじゃないけど、正直恥ずかしいというか、照れ臭いというか。冷たい風に冷やされていた頬が急に熱を持った。河川敷で、二人で、片耳イヤホン。はたから見た絵面がどうも一昔前のドラマだか少女マンガみたいになりそうで、人通りのほとんどない時間で良かったとひしひし感じた。誰か、ましてや知り合いにでも見られたら気恥ずかしいどころの話じゃない。

イヤホンからは耳馴染みの良い軽やかで、けれどハキハキとした女性の声が流れてきた。どうやら視聴者からの投稿に応じてリクエストされた音楽を流す番組らしい。
読みあげられたのはちょうど私たちと同じ年の人からの投稿だった。内容はまた一年後に受験をすることになった自分へのエールが欲しいという内容。やっぱりそういう時期なんだなぁ。

「諏佐はこういうの投稿したりするの?」
「ああ」
「今の投稿諏佐だったりする?」
「しないんだよなぁ残念ながら」
「なーんだ」

妙に嬉しそうに聞かせたがるもんだから、自分の投稿が読まれる予定でもあったのかと思った。
しかし諏佐によると、投稿が読まれるかどうかは放送を聞かなければ分からないらしい。自分が送ったものを読まれる読まれないか、期待と不安両方を同時に味わいながら聞くのもまた楽しいんだ。妙にテンション高めな諏佐はそう説明してくれた。しかしよっぽどラジオ好きなんだなコイツ。

投稿に対して、DJは自分の受験生時代について語ったり応援のコメントを述べたりして、曲の紹介へ移った。「全国の受験生のみなさんも、そうでない人も、これを聞いて優しい気持ちで朝を迎えましょう! 曲は、」

「わあ、また懐かしのチョイス」
「なー」

流れ始まったのは、自分たちが生まれる少し前に流行った曲だった。まだ小さい時、なんとなく聞いていた頃はよく分からなかった歌詞も今では一つ一つを飲み込むことが出来た。

「いい曲だよねぇ」
「目に入ることは全部メッセージなんだってよ」
「目に映るでしょ」
「ハイハイ」

今の私の目に映っているのは、緩やかな流れの川面、その川面を照らす白く眩しいほどの朝日。
そして目線を少しずらすと、隣には諏佐がいる。私の視線に気づいたのか、諏佐も私のほうを見て、うん、と一つ頷いた。

「少しは元気出たな」
「え?」
「いや、ヘコんでたろ」
「うん、まぁ…」

ヘコんでいた、というよりは、もっと曖昧な感情だった。暗い色がぐるぐる混ざった絵の具みたいな、そんな感じだったのだ、ついさっきまでは。
でも諏佐が私の前に現れて、朝日が昇って、川面を煌めかせて。それらを目にしてから、そんな感情がどんどん中和されていった。汚い色合いだった心の中は一度綺麗に洗い流されて、今はなんだかまっさらだ。あの朝日みたいな色に、今はなれたんじゃないだろうか。

「ラジオはいいぞー、毎日違う楽しさが味わえる」
「回し者?」
「違うわ。つーかその格好じゃ風邪引くぞ。送ってくから、聞きながら歩こう」
「え、走らなくていいの?」
「いいよ、行こう」

言いながら立ち上がる諏佐に合わせて、慌てて私も立ち上がった。イヤホンが抜けてしまわないように、離れ過ぎないように、微妙な距離感で諏佐の隣を歩いた。隣を見上げると、冷えた耳や鼻が少し赤くなっている。

先のことは分からないけれど、立ち止まってばかりはいられない。私は諏佐みたいにはなれないけど、それでも見習うことは出来ると思う。諏佐の背中を追うというわけではないけれど、隣を歩いてくれる彼を見て、自分の道が少しだけ明るくなったような気がした。