思えば、コウヘイくんは昔から変な子だった。頭はいいしポケモンのことなら何でも知っている。それに結構かっこいいのだけど、如何せん気持ち悪い。大きなメガネを不気味に光らせて笑うさまに女の子はドン引くし、人の背後から急に現れる変な癖があった。けれど分からないことがあれば丁寧に教えてくれるし、案外世話好き。
掴みどころのない変なヤツだけど、それでも私の大切な幼馴染だったのだ。

ぐ、と拳を握りしめた。冷たい手のひらに爪が食い込んで痛いくらいだったけど、そうでもしなければ私の目からは今すぐに涙が零れて止まらなくなるだろう。春を目前にしてなお、テンガン山から下りてくる凍てつくような冷たさの残る風が、耳当てもしていない剥き出しの耳をヒリヒリと痛めつける。

目の前で、今まさに旅に出ようとしている幼馴染を、私は彼の家族と共に見送っていた。彼のお母さんは、なまえちゃんもホラ、笑って送ってあげて、と私の肩に手を乗せた。
とてもじゃないが笑顔なんて作れそうにない。無理やりにでも笑いたいが、どうせぐしゃぐしゃの顔になってしまうだろう。旅立つ前に見せる最後の顔が変な顔になってしまいそうで、そんなのは絶対に嫌だ。私だって可愛い笑顔で見送りたかった。背中を押して、笑ってあげたかった。
コウヘイくんが、なまえさん? と呼びかけてくれたのに、何も返すことが出来ずに私はまるで拗ねた子供みたいに視線を地面に落とした。コウヘイくんもきっと呆れているだろう、今にもため息が降ってきそうだ。

「それじゃあ、また」

歩き出そうとする彼に、また、っていつ? なんて、素直に聞けてしまえばいいのに。そんなことを言ったら嫌われてしまうだろうし、そもそも今言葉を発したらきっと情けなく震えたものになってしまう。

コウヘイくんが、行ってしまう。ずっと一緒だったのに、傍で、一緒に育ったのに。彼がこの街を去っていこうとする足音の一つ一つに、私の心臓の音が重なる。そのたびに寂しさが募って、溢れかえって。
ずっと地面を見つめていた私は気付いたら思い切り駆け出していた。彼のお母さんの焦ったような声が背後で聞こえたような気がしたけれど、そんなのはどうだっていい。
乾いた地面を蹴る私の足音に気付いた彼は、振り返り目を丸くした。メガネ越しに見えるそのぱっちりと大きな目と目が合ったが、もう止まれない。私は勢いのままに手を伸ばした。
そして、彼のメガネを思いきりぶん獲った。

「ええええ!? ちょ、なまえさん!!」
「うわーんごめんなさい! でもやっぱり行っちゃやだ!!」

叫びながら、取り上げたメガネを片手に私はその場から全力で逃走した。あまりに突然だったせいで彼も咄嗟に行動出来なかったのだろう、中途半端に伸ばされた彼の手は私に届くことはなかった。
彼の見送りをしていた親たちの手をかいくぐり、そのまま出来るだけ遠くへと逃げるためがむしゃらに走った。走ると冷たい風がより手や頬や耳を刺すように冷やしていく。すれ違う人の波をぐんぐん駆け抜けて、気付いたら街のはずれの裏路地にいた。
胸のあたりを抑え、切れ切れな息を整えながら、彼から奪い取ったメガネを改めて見つめる。
落ち着きを取り戻してみると、なんて馬鹿なことをしてしまったのだろうと後悔の念に駆られた。こうして彼の足を引っ張ったところで彼がこの街を出て行くことに変わりはないし、もうメガネなんて後でどうにでもなるからと旅に出てしまったかもしれない。
コウヘイくんにしてみれば、今回の私の行動は迷惑極まりないことだろう。サイテーなヤツだと、金輪際会ってくれないかもしれない。
そう思うと、走ったことで一度乾いた涙がまたこみ上げてきて、一人なのをいいことに、私は思い切り涙を流した。メガネを握りしめたまま、声を上げて。一度堰を切って溢れ出した涙は止まることなく次々に湧いてきて、このまま一生止まらないのではと不安になるほどだった。
だから背後の気配になんて、気付くことが出来なかったのだ。

「なまえさん」

思わず涙を拭くことも忘れて振り返ってしまった。だってその声がとても優しかったから、大好きな人の声だったから。我慢なんて少しも出来なかった。
すぐそばに立つコウヘイくんは、困ったように、眉を下げている。口角もいつもは不敵に上がっているのに、今は下を向いている。こんなコウヘイくんの顔、初めて見たかもしれない。それほどに困らせてしまったんだと思うと、取り返しのつかないことをしてしまったのでは、と血の気が引いた。
もう、きっと嫌われてしまった。コウヘイくんはもう、私の行動を許してはくれないかもしれない。冷たくなった指先も、膝も、ガクガク震えて止まらない。ごめんなさい、と言いたくても言葉が出てこない。

「なまえさん、ちょっと」

コウヘイくんは私の手に握られていたメガネに手を伸ばした。コウヘイくんの温かい手が、メガネからそっと私の手を剥がす。その一連の動作はとても優しかった。

俯いたままの私の視界が急にぐらりと歪んだ。コウヘイくんは取り戻したはずのそのメガネを、私にかけたのだ。

「うん、やっぱりよく似合いますね」
「な、何で……」

コウヘイくんは私の顔を覗き込みながら目を細めた。綺麗に笑ったコウヘイくんは、私の肩にそっと手を置き、言葉を続ける。

「このメガネは、魔法のメガネなんですよ」
「魔法……」
「そう、これをかければ、僕がどんなに遠くへ行っても、僕がどこで何をしているか、見えるんですよ。だから」

そのメガネはなまえさんにあげますね。
そんな子供騙しな言葉が、私にはとても暖かく沁みて、冷え切っていた心が解けていったのだ。笑ってしまう。小さい子供をあやすような、そんな言葉を受けて、私は大人しく彼を見送ることに決めたのだ。


彼が旅立った後、私は一人、部屋でコウヘイくんがくれたメガネを何度もかけてみた。当然だけど、一度だってコウヘイくんの姿が見えたことはない。けれど私は、そのメガネをかけるたびにあの日のコウヘイくんの笑顔を思い出すことが出来た。
それだけで、私にとっては十分、このメガネが魔法のように思えるのだ。