ポケモンセンター近くの湖の畔で月明かりを浴び、淡く光っているようにすら見える彼女のその白い頬を、キラキラとした何かが一筋伝っていった。美しい曲線を描く彼女の頬に沿って顎まで伝ったそれは、極小さな雫となり彼女の足元に吸い込まれていく。その様があまりに美しくて僕は彼女が泣いていると気づいていながらただただ身を隠したまま立ち尽くしていた。
再び彼女の目から輝きを放つそれが溢れ出したのを見た時、ようやく僕はハッとした。このままではいけない。好いている女性が一人涙を流しているというのにここで行かねば男が廃るというものでしょう。
さあどうするか、ひとまず声はかけるとして、なんと言えば良いか。とりあえず出だしはこうだろう。

こんばんはなまえさん、何かあったのですか。僕で良ければ話をお聞きします。

これだ。ベタではあるがこういう時はサラリと声をかけたほうがいい。むしろシンプルなくらいがスマートな大人の男性の対応、というものでしょう。ええ。
数回綿密な脳内シミュレーションを行い、成功を確信。いざ、と意を決して足を踏み出した。カサリと足元の草が揺れ、小さく音を立てる。
僕の存在に気がついたなまえさんはハッとしたように振り返った。涙で潤んだ瞳はまるでヤミラミの瞳が放つ宝石の光が如く美しい輝きを湛えており、その目と僕の目が合った瞬間僕は今まで感じたことがないほどの目眩がした。なんて綺麗なのだろうか。
例の脳内シミュレーションを実行に移すことも忘れ彼女に見惚れる僕の目の前には、いつの間にか彼女のモンスターボールから出てきていたモルフォンが。
へ、という情けない僕の声に被せるようにして、彼女はモルフォンに、サラリと一言とんでもない指示を出した。

「モルフォン、むしのさざめき」

彼女の声には一切の迷いも遠慮感じられず、彼女のパートナーであるモルフォンもまた迷いや戸惑いを一切感じさせぬ全力のむしのさざめきを、僕に放った。
彼女という素晴らしいトレーナーに育てられたモルフォンの全身全霊のむしのさざめきを真正面から受けた僕の体は、あっけなくブワリと宙に舞い上がった。そのまま無残に地に堕ちるかと思われた僕の体は運良く大きな木の枝に引っかかり、事無きを得た。今年の運勢を全て使い果たしたのではないか。僕の頭の中ではいわゆる走馬灯というヤツが駆け巡り周りの景色はスローモーションのように見えていた、率直に言って死ぬかと思った。

「ごめんよ少年、やりすぎた」
「ま、ままま、まったくです」
「今降ろすよ、ちょっと待ってて」

木の下から僕を見上げる彼女の目にはついさっきまであったはずのものが消えていた。月明かりに照らされた彼女は、いつも通り凛とした佇まいでモルフォンに指示を出す。
モルフォンのサイコキネシスでふわりと浮いた僕の体はゆっくりと草原へ近づいていき、無事に生きて地上へ戻ることができた。

「ありがとうございます」
「いや、悪いのは私だよ、ごめんね」

そうして頭を下げ、顔をあげた彼女は眉尻を下げ何かを堪えるように口の端を上げていた。

「えっと、なまえさん」
「何?」
「えっと、な、な……」
「な?」
「え〜っと……その、何か、あったんですか?」

結局思い描いていたように上手くはいかず口は回らず途切れ途切れ、僕は「えっと」を三回も繰り返した末にようやく一言絞りだせた。どこがスマートだ。なんと情けないのだろうか。しかし彼女の涙などという美しくもどこか儚いような、そんな代物を初めて目の当たりにした僕の心に余裕などなかったのだ。

「何もないよ」
「……何もないのに、泣くのですか?」
「人生そういうこともある」
「そうでしょうか」
「キミはないの? そういうこと」
「僕の話は今はいいんです、なまえさんの話を聞かせてください」

なまえさんはどうにか話を逸らそう、はぐらかそうとするが、僕は気になる。彼女が何故涙を流すに至ったのか。彼女のそうした感情が、どこからやってきたものなのか。あわよくば彼女に、元気になってはもらえないか。
生憎僕は一度気になり始めたらそれを解明出来るまで調べ尽くしたくなる質なので、彼女の側を離れる気はさらさらない。

「きみ、しつこい男は嫌われるぞ」
「嫌われても構わないですよ、そのかわりなまえさんが元気になったら、また僕とバトルをしてください」

僕はあなたにまた笑ってほしいんです。
そう言うと彼女は瞳をマルマインのようにまん丸くし、その綺麗な顔を歪め、涙を浮かべた。それを隠すみたいに深く俯いてしまった彼女の肩に、おそるおそる触れる。情けないことに伸ばした手は震えていたけれど、彼女の温もりが手のひらに伝わってきてからはそれも止まった。
触れた箇所から彼女の感情が流れ伝わってきたみたいに、僕の心まで奇妙な悲しみに支配されそうになる。この人は今、それほどまでに悲しいのか。

「情けないところを見せたね」
「情けなくないですよ」
「きみは阿呆だけども優しいね、きみのポケモンたちは幸せだろうな」

阿呆とは何ですか。
マイナスな感情をふきとばしたくて、努めて明るい声を出してみた。顔を上げた彼女の目にはまだ悲しみの証が浮かんでいたが、それでも口元にはほんの少しだけ笑みがこぼれていた。

「今日はきみに甘えて、話を聞いてもらおうかな」
「もちろんです、僕に任せてもらえばきっと解決しますよ」
「相変わらず自信に満ちているね、いいことだ」
「僕はなまえさんのことなら何でも知っていますからねぇ」
「気持ち悪いぞ、コウヘイくん」

言いながら、呆れたように笑う彼女の顔を見ながら、僕は思う。
気持ち悪かろうがなんだろうが、それでいいのだ。あなたがまた笑ってくれるのなら、僕はきっと、それで、それがすべてなのだから。