地理の先生から頼まれた資料運びの手伝いを終え教室に戻ると、電灯は消えどんよりと薄暗い闇に包まれていた。普段何気なく座っている自分の席が、いつもより少しだけ遠く感じる。人一人いないガランとした空間がそう思わせるのだろうか。
2年はもう受験一色なため部活もなければ委員会活動もほとんどないだろう。放課後、用もないのに学校にいる理由はない。おまけに外は雨がざあざあと音を立てて降りしきっている。風が強まるたびに窓を叩く雨の音も強くなり、鞄を持ち上げる手に力を入れるのが億劫になる。外に目をやっても、到底雨は収まりそうにない。
なぜだろうか、冬の冷たい雨は勢いが激しい気がする。氷雨とはよく言ったもので、まさにその言葉の通り鋭く窓さえも突き破ってしまいそうである。まるで何かを責めているみたいだ。

あの日、ウィンターカップでの誠凛戦以来、ずっと重く心に滞り続けている感情がある。あの時俺の手がボールに届いていたら。木吉のロングパスを、火神の手に渡らせずに済んでいたら。あの時の結末は変わっていたかもしれないのだ。ひょっとしたら、海常が。もしかしたら、俺たちが。
そんなもしもを何度繰り返したところで結果が変えられる訳でもなく、結局はそうした世界だった、というもっともらしい結論で自分を納得させるしかなかった。バスケは、いやバスケに限らずスポーツの大会はだいたいがそういうものだ。勝つチームがあれば負けるチームがある。至極当たり前のことだ。
それを覚悟の上で俺も試合に臨んでいたつもりだ。もちろん、海常高校バスケ部みんな、理解はしていただろう。笠松も、森山も、チームメイトはみんな。もしもを言い出したらキリがないのだ。あのシュートが決まっていたら、あの時のスティールがなかったら。そんなことを考え続けても結果は変わらない。勝ったほうが強いというあまりにも当たり前であまりにも酷なことを思い知らされる。それが試合であり、スポーツ選手なら当然理解していなければいけないこと。
だからこの感情は、あいつらにも話したことはない秘密だ。

昇降口で靴を履き替え軒下で改めて雨と向き合うと、案の定足が重くなった。こういう時体がデカイと不便だといつも思う。折り畳み傘ほどの大きさだとどうしても鞄か肩がはみ出してしまう。おまけに傘でガード出来る範囲が少なく足は毎度びしょ濡れだ。
仕方なしに、鞄の奥で小さく縮こまっている折り畳み傘を取り出し留め具を外す。

「あっ!!」
「え?」
「小堀くん…!」

背後から飛んできた大きな高い声に振り返ると、何故だか目をキラキラさせたみょうじさんが立っていた。おまけに、祈るみたいに手まで組んでじっとこっちを見ているものだから俺はどうしたものかと少し驚いてしまった。

「みょうじさん?どうかした?」
「小堀くん…」
「は、はい」
「お願い、傘入れてくださいっ!」

拍子抜けして、肩から鞄の紐がずり落ちた。なんだ、そんなことでキラキラしていたのか。尚も手を合わせつつ必死で頭を下げているみょうじさんに小さく笑いを零しつつ、いいよ、と返した。みょうじさんはぱっと顔を上げ、今にも飛びつかんばかりの表情でありがとう、ありがとうと何度も繰り返した。なんとなく黄瀬を思い出した。犬っぽい感じがそうさせたのだろうか。

傘を開いてみると、やはりというか、2人で入るにはかなり守備範囲が狭い。勢いが衰えることのなさそうな雨の中、気持ちみょうじさん側へ傘をさしかけながら歩き始めた。

「それにしてもみょうじさんは何であんな時間まで残ってたの?」
「ああ、進路相談。この時期になってもなかなか成績上がらなくて。小堀くんは何で?」
「俺は先生の手伝い」
「あーわかる。小堀くん先生に捕まっちゃうタイプだよねぇ」
「はは…」

みょうじさんに俺の何が分かるの、なんて当てつけめいた言葉が口から飛び出しかけたが、なんとか喉の奥へと引っ込めた。
正直、みょうじさんとはそこまで親しい訳ではないと思う。去年一昨年とクラスは同じだったけど近くの席になったことはほとんどなく、今年は教室2つ分離れたクラスでそうそう会わない、言ってしまえば友達未満と言ってもいいだろう。そんな彼女にわかる、と軽い調子で言われたことに少し心が波立った。最近はどうもそんな調子で些細なことに心をざわつかせては、色んなことを飲み込んでいる。
飲み込んだ言葉は喉を綺麗に落ちていってはくれなくて、いつも鉛がつっかえているような違和感が残る。

「そうだ、私バスケ部のウィンターカップ見に行ったんだよ。誠凛だっけ?東京の学校との試合、見てた」
「来てたんだ」
「うん、なんかね、感動した」
「感動?」

うん、と頷く彼女の顔はまっすぐ前を向いていて、口元には小さく笑みが浮かんでいる。

「小堀くん、最後まで手を伸ばしたじゃない?あれすごいなって。私あの時点でもう海常の勝ちだと思って油断してたもん」

みょうじさんに言われて、その瞬間のことをはっきりと思い出す。そうだ、あの時、海常のスタンドもほとんどうちの勝ちを確信していた。会場中の人たちも、そのほとんどが。
だが誠凛は4秒間でその確信を覆したのだ。ほんの一瞬とも言えるあの4秒の中、相手が最後まで勝ちに食らいつき続けた結果があれなのだ。一瞬の、1ミリの驕りが命取りになった。

「感動、か…」
「うん!」
「でも結局、負けたからさ」
「…うん」
「勝ちたかった、ボール止めて。それで試合終了にしたかった」
「うん」
「そんなことを今考えても、仕方ないんだけどね」
「…そっか」

俺が零す言葉一つ一つに頷くみょうじさんの小さな相槌は、雨音で少し霞んで聞こえた。
みょうじさんにこんな話をしてもどうにもならないが、一度溢れてしまうとどうも収まらない。バスケ部のやつらには話せない、受験の悩みを抱えるクラスの親しい友人にも話せない。それを何故彼女に零せてしまったのだろう。多分激しい雨の中、小さな傘の下。世界から隔離されたみたいな現実感のないこの状況のせいだ。雨が傘を打ちつける激しい音もそれを助長している。
だけどそうして零してみると、ほんの少しだけ楽になったような気がした。本当に、ほんの少しだけど。

俺が口を閉ざし、みょうじさんもシン、と黙りこむ。雨でぼうっとした街並みをぼんやり眺めながら2人でゆっくりと歩き続けていたのだが、みょうじさんが突然傘の中からひょいと飛び出した。
そしてそのまま激しい雨を気にも留めず、数メートルほど先へ走っていく。水溜まりを跳ねさせながらステップでも踏むみたいに軽やかに走り、右足を軸にくるりと一回転をする。突然のことで呆気にとられていたが、立ち止まった彼女の笑顔を見た瞬間我に返った。

「え…えええ!ちょっと何してんのみょうじさん!濡れるから!!」
「大丈夫、私、雨好きだから!」
「はい!?意味分かんないよ!?」

少し離れた場所で振り返り、雨に打たれへらへらと笑いながら大きく手を振っている彼女のもとへ慌てて駆け寄る。グレーのスカートも紺の靴下もびしょ濡れで色が変わっていた。
たっぷり水分を含んだ髪の毛を掻き分けながら笑うみょうじさんに、急いで傘をさしかける。

「なにしてんの本当に…」
「小堀くん」
「ん?なに?」
「小堀くんは、雨は好き?」
「え?いや…あんまり、かな」
「そっか、私は好きなんだ。ホラ、雨の中ですっごい楽しそうに歌って踊って、ってシーンがある洋画、あるよね?あれ見てから、雨ってなんか好きで」
「ああ、俺も昔見たな…雨の中でタップダンスするんだよね」
「そうそう、ああいうの一回やってみたいな、って思って」

昔、小学生の頃に授業の一環として見た覚えがある。確かにあの映画の中の雨は、勢いは激しいけれど主人公に優しく降り注いでいた。

「気持ちは分かるけど、風邪ひくよ?」
「…小堀くん」
「ん?」
「私は小堀くんがあの試合で、最後まで全力を尽くしたこともちゃんと見てたし、知ってる」

前髪を掻き分けたことで、いつもより彼女の目がはっきりと見えた。人を射抜くみたいにまっすぐな視線を受けて、その瞳から目が離せなくなる。二人きりの傘の下で返す言葉を探したが、そんなものは見つからず、しかし彼女は再び口を開き、歌うように話し続ける。

「高校3年間の全部をバスケ部にかけてきたことも、いつも全身全霊でバスケに向き合ってきたことも知ってる。あと、タップダンスが得意ってことも、今年は保健委員だったってことも。小堀くんのことが好きだから、知ってるんだ」
「…ん?え!?」

なにかとんでもない爆弾を平然と投下したみょうじさんは、1人慌てふためく俺を見て、あはは、なんて笑っている。いや、あははじゃないでしょ。

「ちょ、好きって、どういう」
「雨は嫌いでも飴は好き?なんつってね」

寒い親父ギャグを言いながら、彼女は鞄から取り出した黄色い包みののど飴を俺のポケットにねじ込んだ。みょうじさん曰く、傘に入れてくれたお礼だそうで。

「じゃ、私の家すぐ近くだからあとは走っていくね」
「え、いやちょっと、さっきの話…」
「ああソレは気にしなくてもいいんだけど」
「いや気にするでしょ!」
「まぁまぁ」
「まぁまぁじゃなくて」
「ははっ、あのさ、私は雨好きだけど、小堀くんには笑っててほしいから」
「え…」
「雨、止むといいね」

彼女は小さく微笑みながら、俺がさしかけていた傘を押し返すようにして傘の外に出た。そしてそのまま雨の中を、大きく手を振りながら走って行く。じゃあね!と笑う彼女に呆気にとられながら俺は小さく手を振り返すことしか出来ず、彼女の姿が見えなくなってもしばらくその場で立ち尽くしていた。
台風みたいな人だった。突拍子もない言動をして、かと思えば急に一方的に好きだ、なんて言って。結局俺が何も返せないまま、去っていってしまった。けれどそんな台風のおかげだろうか、学校を出た時よりは、心が軽くなったような気がしている。
彼女がポケットにつっこんだのど飴を取り出す。包みを開けて、丸く黄色に輝くそれを口に入れると、爽やかなレモンの香りが鼻を抜けていって、少しだけ鼻の奥がツンとした。

明日からすぐに切り替える、なんてことは出来ないと思う。しばらくはやっぱり、どうしても試合終了のブザーが鳴った時のことを思い出して、少し胸が痛んで。それでも確かに昨日より、明日が明るくなったような、そんな気がした。
変わらず勢いを落とさない雨が傘を打ちつける。その音が16ビートのリズムを刻んでいるように聞こえる、なんて。

「みょうじさんも同じこと言いそうだなぁ」

呟いた小さな声は、自分で思っていた以上に明るかった。


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