小説 | ナノ

「日吉君、今日は眼鏡なの?」


 恋した世界



担任の教師から頼まれていた雑務がやっと終わり、職員室から自分の教室へと帰る時だった。なんとなく、二年生の教室を通っていこうと思い付いたのだ。一年前に自分が使っていた教室が今はどんな風になっているのだろうか、誰が使っているのだろうか。教室内の細々としたレイアウトなどもきっと変わっているのだろう。そんな思いが急に頭を過り、ほんの少しだけ遠回りをしてから自分の教室へ戻る事にしたのがつい数分前。
そして、空いていた教室の扉から彼を見付けたのが約三十秒前。普段、部活に行っている彼の姿を放課後、こうして教室で見掛ける事はほとんどない。つい、歩みを止めてしまった。そうして、彼を見ている内に気が付いた。彼が眼鏡を掛けていた事に。
普段の彼は眼鏡を掛けていない。元々、目がそこまで良くないのは知っていたが眼鏡を掛けている日吉君の姿を見たのは初めてだった。いつもはコンタクトだったのだろうか、なんて思ってそのまま通り過ぎれば良かったのだが、久し振りに彼の声が聞きたくなってつい声を掛けてしまった。

レンズ越しの真っ直ぐとした、涼しげな瞳が私を捉える。けれどその瞬間、小さく溜息を漏らす彼。

「苗字先輩ですか。…そうですけど、俺が眼鏡だと何か問題でもあるんですか。」
「そういう訳じゃないけど、珍しいなって。」

本音を言えば、問題はある。けれどその問題点を言える様な仲でもないし、言ってしまえばきっと恥ずかしさでこれ以上ここに居られない気がする。それほどに、いつもと違う日吉君の姿は魅力的で。
一歩、足を前に出して彼と同じ教室へ。それだけで、逸る気持ち。普段見る事のない彼の姿に、一緒の教室にいるという事実。けれどこの高鳴りが相手に決して聞こえない様に、平静を装いもう少しだけ、彼との距離を縮める。

「目、悪いんです。」

もしも、の話だ。
もしも、彼と同じ学年で同じクラスだったなら。彼が眼鏡を掛けている姿を見るのは珍しくない事なのだろうか。彼とのほんの少しの、けれど大きな一年という差がもどかしい。

「うん。普段はコンタクトだったんだね。」
「はい、今日はどうも調子が悪くて。仕方なく眼鏡にしたんです。」
「ね、ちょっと眼鏡掛けさせて?」

このまま自教室へと帰ってしまうのは何だかもったいなくて、少しだけでも二人の差を距離を縮めたくて。そんな思いと、ちょっとした好奇心が相俟っての提案だった。

「は?」と、日吉君に言われる前に、まるでそれが先輩権限であるかの様にひょいと彼の眼鏡に手を伸ばす。
制止の声を聞こえない振りでかわし、眼鏡の蔓を両手で掴む。一点の曇りもなく、綺麗に手入れされているレンズは持主の性格を顕著に現わしている。そんな、美しいレンズ越しに見る世界。もし自分がこれをかけた後、世界がどう見えるのか大よその予想は付いている。そしてその予想が、限りなく正解である事も私は知っている。


「…ちょっと、くらくらするね。」

それは目の奥がおかしくなる、不思議な感覚。普段見えている世界が、幾分か歪んで見え、距離感が掴めなくなる。
眼鏡を安定させるため、こめかみを押す様にして蔓に触れる。それだけで、ドキドキするのはいつもとは違う世界を目にしているからなのか。真っ当な理由を頭の中に思い浮かべてみるが、それは本当の理由とは呼べないんだろう。
…本当の理由はきっと、この眼鏡が日吉君のものだから。



「全く…返して下さい。」

不意に聞こえてきた溜息と言葉がやけに近い、そう思った瞬間には彼の指が、顔が、声がいつも以上に近くにあって。
思わず一歩、後ろへと下がる。それでも彼から伸ばされた手は、私の右手を覆うようにして、触れて。触れられた手の甲から、じんじんと広がる熱。形容出来ないくらいに、これでもかという程に頬が、体が熱くなる。恥ずかしくて、瞬時に下げた目線を少しでも上に遣ればすぐそこには日吉君が居て。

「ご、ごめんね。…迷惑だった?」

上ずった、おかしい声が出る。早く眼鏡をとればいいのに、彼が触れているのは眼鏡ではなく、今も私の手であって。

「そう、ですね。…せっかく、先輩と二人きりなのに。苗字先輩がぼやけて見えるだなんて、迷惑以外の何でもありませんから。こうして近付かないと、先輩がはっきり見えないだなんて、俺にとっては苦痛ですね。」

日吉君の、触れていただけだったその手が、ぎゅっと私の手を握る。

「…先輩。俺の方、向いて下さい。」
「………無理。」

くらくらする。その感覚は目の奥だけではなく、どうやら頭の中にまで侵食してきて。視界が歪むように、思考も揺らぐ。日吉君が何を意図してその言葉を言っているのか、判断出来ない。判断どころか、考えることすらもままならない、この状況。


いきなり縮められた距離は、どうにも出来ない程に私の全ての感覚を乱していって。ああ、どうしようもなく日吉君が好きで、好きで。

くらくら、する。



 恋した世界