小説 | ナノ

黒板に、苗字が持つ石灰によってすらすらと組み立てられていく白い数式。
そんな苗字の背中を見ながら感じるのは幸福と、笑ってしまう様な、小さな嫉妬。


 小さな嫉妬



「あの…柳君。」

そう声を掛けられたのは、朝練後、教室へ着いた時だった。同じクラスの苗字が、申し訳なさそうに俺の名を呼んだのだった。

「苗字か、おはよう。どうかしたのか?」

苗字が朝からこうして俺に話し掛けてくることは滅多にない。挨拶もほどほどにし、どうかしたのかとその理由を尋ねながら自席へと足を進める。俺のすぐ後ろをついてくる苗字を見れば、やはり何か俺に用がある事は明白で。

「あ、おはよう。あのね…朝練終わって疲れてる所ほんっとうに申し訳ないんだけど……」



そうして、苗字が頭を下げながら言った言葉。それは数学の問題を教えて欲しい、との事だった。昨晩も考えてはみたものの、結局答えを出すには至らなかったそうだ。
その問いは前回の授業の終わりに苗字が解いてくる様に、と言われたもの。設問が応用問題という事もあり、難易度は確かに高めであった。苗字が解けないのも無理はない。既にその問いを解き終わっていた俺にとって、それは叶えてやるには容易い願い。けれど、それを直ぐに叶えてやるのはこうして苗字と話す機会がここで終わってしまう事を意味していて。
幸い、今はまだ授業が始まる前。苗字の頼み事のタイムリミットまでは暫く時間の猶予がある。苗字からしたら多少意地の悪い行動と取られてしまう確率は高いが、それ以上に、苗字と多く話したいと、そう思ってしまったのだ。

「自分の力で解いてこそ、だろう?」

そう言い、少しだけ意地の悪い笑みを浮かべればさっと表情を引きつらせる苗字。そんな予想通りの反応に小さく笑い、鞄を下ろす。

「ノートを見せてくれ。どこまで出来たんだ?」

鞄から教科書を取りだしながらそう言えば、俺の意図する事が分かったのだろう。苗字はそれまでの表情を一変させ、ノートを持ってくるためにくるりと背を向け、自席へと駆け出した。その間に、教科書の該当ページをパラパラと捲っていれば苗字が戻ってきて。

そうして、俺と苗字の二人の授業が始まったのだった。


ただ答えを教えるのではなく、どの方程式を使えば良いか等を苗字に問いかけながら、問題を解き進める。
それは、俺にとっての至福の時間。普段、苗字が考えたり、ノートに計算式を書き込んだりする様をこうして間近で見る事はほとんどない。俺の席は苗字の席よりも後ろであり、いつも視界に入るのは小さな背中だけ。どんな表情で授業を聞き、どんな仕草をするのか、今まで分からなかったそれらの姿を垣間見る事が出来る。それだけで、自然と心が軽くなる気がする。

そしてそんな幸福な時間は朝だけでなく、俺の思惑通り昼休みも同様で。
昼休みという事で、周りは様々な音で溢れている。けれど、そんな中苗字が耳を傾けるのは俺の声。

「あ、」
「どうした、解けたのか?」

不意に苗字が声をあげたかと思えば、そこにあるのは明るくなった表情。あぁ、解が出たのかと推察すればどうやらそれは当たりの様で。
解けて良かったと声をかけ、ぽんと苗字の頭に手を置けば、返ってくるのはありがとうとの声と、俺だけに向けられる眩しいくらいの嬉しそうな笑顔。ふわりと、柔らかいその微笑みは思わず見惚れてしまいそうで。この動悸が苗字に伝わらない様に、再度苗字の頭に手を置いたのだった。




黒板に、苗字が持つ石灰によってすらすらと組み立てられていく白い数式。それは、ほんの少し前まで見ていた数式。
そんな苗字の背中を見ながら感じるのは幸福と、笑ってしまう様な、小さな嫉妬。先程まであんなに近くにいたのに、離れてしまった今では苗字の持っている、苗字が触れているチョークが羨ましいなどと、そんな事をつい思ってしまう。

カタン、とチョークを置く小さな音。既に黒板には解まできちんと書かれていて、くるりと黒板に背を向けた苗字と視線が交わる。その瞬間、俺にしか分からない様に小さく微笑む苗字。それはまるで、二人の秘密だというかの様な小さな笑み。思わずつられ、ふっと笑みが零れる。



そう、目が合った事は俺と苗字の二人の秘密。
そして、チョークに嫉妬した事は誰にも言えない、俺だけの秘密。




 小さな嫉妬