「セニョール!君はチャイナ?コリアン?ジャパニーズ?」
「馬鹿だな、コイツはナマエだ」
「残念、僕はイタリア人だよ。僕の母親は日本人だけどね」

 国籍を並べるだけの簡単な英語で呼び止められる。イタリアはときにヨーロッパの大都市として多くの国を併合し、また分裂してきた歴史から、言葉の違うもの同士のコミュニケーションに寛容だ。母の母国と違いやたら大仰なジェスチャーも、この国で生まれ育った自分にとってはごく当たり前のもの。

「なんだ、ナマエか。観光客かと思った」
「ごめんごめん。でもほら、商売はかどってるだろう?なんたってここは花の都フィレンツェだからね」

 イタリア中部、トスカーナ州に位置する大都市。世界各国の観光客が訪れるこの街は、今日も忙しない。なにせ街そのものが世界遺産だ。そのうえいまはクリスマス前で、街道は驚く程のきらめきに溢れている。街灯から装飾が吊り下げられ、大きな交差点には、ひときわ目を引くクリスマスツリーが立ち、観光客向けの馬車を引く馬も、この季節はめかしこんでいるくらいなのだから。 


「おいナマエ!次に日本人を案内するときは、是非ともこの通りを通るように言ってくれ」
「いつも勧めてはいるよ。僕もよくしてもらってるからね。でも、このあたりには革製品を売る露店なんて数え切れないほどあるだろう?」
「だったら、俺の店にそのまま連れてきてくれてもいいんだぜ?」
「そこは君の腕次第さ。商売人なんだから。ジャパニーズは人がいいからって、なんでもかんでも買わせようとしないでくれよ?」

 浅黒い肌をした男は、「つれないな」と肩をすくめてみせる。人好きのする陽気な笑顔を浮かべる彼らは、この街の商売人だ。
 ナマエはこの街で、観光業に従事している。イタリアで生まれ育ちイタリア国籍を持ちながらも英語と日本語が堪能なナマエは、外国人労働者に対する政府の規制に引っかからないという理由で、こういった観光地でのガイドの仕事では非常に重宝される。数年前に越してきたここフィレンツェにも、いまでは知り合いが増え、知らないところはないと言えるくらいになった。


「そういえばナマエ、今日は仕事じゃあないのか?」
「正解だ、よくわかったね」
「それじゃ、ガイドするにはあまりに荷物が少なすぎるだろう」

 いつもなら小綺麗な格好に、ナップザックを脇に下げて行動しているところだが、今日はコートの下に忍ばせたウエストポーチだけだ。

「今日と明日は友達がね。こちらにくるって言うものだから、久々の再会ついでに観光案内だよ。僕、せっかく休みだったのに。本当、人使いが荒いよね」
「…そういう割にゃ、嬉しそうじゃないか」
「あ、わかるかい?実は結構楽しみなんだ」
「妬けるね」

 にやにやと笑うふたりと笑みを交わす。こんなふうに街に溶け込んだ自分も、やはり昔の友人に会うというのは楽しみなものだ。久しぶりの再会といっても、まだ半年くらいしか経っていないような気もするが。

「またね。僕が担当してる次の便は三日後だよ。また遊びに来るから」
「どうせなら夜に来い。またみんなで飲むぞ」
「わぁ、楽しみだなぁ」

 イタリア、フィレンツェは曇り空。雪が降らないことが不思議なくらいには寒い煉瓦造りの街道を、暖かい気持ちを抱えてひとり行く。
 さあ、懐かしいひとたちがやってくる。






プリマヴェーラの春









 待ち合わせの小さなトラットリアは、この人通りの多い賑やかな街の奥まったところにある。地元の人間には馴染みだが、観光客に名が知れているわけではない。しかし地元の人間に愛されるこの店は、こんなふうに集まるにはもってこいだ。価格設定の割に料理も美味しい。

「ナマエ!久しぶり!」
「サーラ、ミケーレ。久しぶりだ。六月にふたりが来てくれたとき以来だよね」

 サーラとハグを交わそうとすると、ぐい、と押し止められた。

「お前はいつも距離が近いんじゃ!」
「相変わらずだな、お前は。」
「お前にだけは言われたくないわ!」
「ちょっとミッキー、もうそういうことを言うのはやめるって、この前言ったばかりじゃない」

 こんなふたりのささいな会話も、しばらくぶりのナマエにはひどく懐かしいものに思えて思わず顔が緩む。「イタリアじゃ普通のことだろう、ミケーレ」なんて、イタリア人にしては硬派な性格の彼を、見た目だけが日本人な僕がからかうように言うのも、子供の頃から変わらない、たのしい習慣だ。

「ファイナル、テレビで見てたよ。サーラはやっぱり綺麗だね」
「あぁ!?お前、口説いてんのか?あ!?」
「ありがとう。ナマエにそう言ってもらえると嬉しい」

 心なしか青くなるミケーレと、少しだけ赤くなるサーラが対照的でまた笑ってしまう。

「ミケーレもロシア大会のFSは最高だったよ」
「お前に褒められても嬉しくないんじゃ!」

 「何を食べる?」と聞くと、ナマエのオススメでいいよ、なんて言うから。ふたりの食の好みは知っているし、この店の味も知っているナマエが適当な量を注文する。「ナマエの舌は間違わないから、楽しみね!」なんて笑うサーラの長い睫毛に目が行く。彼女の隣に座るミケーレから痛いほどの視線が向けられているのは無視だ、無視。
 笑顔ついでにサーラが口を開いた。

「ナマエも…今年も元気そうでよかった。SNSにもたまにしか顔を見せないし」
「…お前、もう本当に体は大丈夫なんか」
「いつの話をしてるんだい?もう全然平気さ。この街をなんでも知ってるって胸張って言えるほど歩き回れるくらいにはね」

 元々僕は、このふたりのリンクメイトだった。彼らほど優秀でもなかったけれど。不慮の事故で怪我をして、シニアに上がる前に早々に引退。しばらくしてから親戚のつてで、大観光地フィレンツェのガイドになった。

「そうね。とっても元気そうに見える」
「……こういう仕事、向いちょるんじゃろうのう、ナマエは」

 ミケーレの言葉に少し間があったのは、たぶん彼はよく、俺の体のことをわかっているからだと思う。それでも口にしなかったのは、隣に座るサーラのことを慮ってのことだろう。

「僕はね、」

 君たちに隠し事はしても、嘘はつかないよ、僕は。
 君たちがあまりにも、真っ直ぐに僕に向かってくるものだから、僕もそうありたいと思ってしまうんだ。氷を降りてからも、大好きで、僕が愛してやまない君たちのようにありたいと、そう思っているよ。















「僕はね、君たちがスケートをして、輝いている姿を見られるのが嬉しいんだ。だから今年のGPSも、とっても楽しかった」


 久しぶりに再会した幼馴染は、そう言って照れくさそうに笑った。
 趣味も言葉も食べるものも、完全にイタリア人のそれだけど、こういうところはナマエに半分流れているという、日本人の血を感じる。

「僕はもう滑れないけど、また滑りなるくらい幸福な時間だったよ。」

 謙虚で慎ましく、本当の欲望を無作法にさらけだしたりしない。サーラはナマエのそういうところが好きだったけれど、言い方を変えればのらりくらりと定まらないように見えるその態度は、それと同じくらい気に入らないところでもあった。それでもナマエを好きだと言えるのは、彼はサーラとミケーレだけには嘘をつかないとわかっているからだ。

「ユーロとワールドも楽しみだなぁ。休みがあえば応援に行ってもいい?久しぶりに生で見たい」
「勿論よ!ナマエが来てくれるなら私、すごく心強いわ。ね、ミッキー?」
「…まあ、サーラがそう言うんじゃったら、来たらええ」

 ミッキーは、私がナマエに気があると思ってるみたい。あながち間違っちゃいないんだけど。

 どんな男に言い寄られても、付き合うならナマエみたいな人がいい。彼氏にするなら―――と考えるとき、大人の魅力にも、若さゆえのやんちゃにも、興味やあこがれがあるけれど、ひとりを選ぶならナマエみたいな人がいい。


「ナマエも時間があったら、たまには帰ってきてね。みんな、ナマエの顔が見たいって言ってる」
「本当?嬉しいなぁ。最近全然帰ってないから、忘れられてもおかしくないな、なんて思っていたのに」
「もう、そんなわけないでしょ!」

 「なんでそんなこというの!?」とまくし立てるのを、「ナマエはこういう男じゃけぇ」とミッキーがそっとなだめる。
 そう、ナマエはこういう性格だった。昔から、ずっと。

 物腰が柔らかくて、纏う雰囲気はともかく外見だけなら、どこから見ても東洋人。そう背が高いわけでもないのに、いつでもサーラを優雅にエスコートした。ミッキーだって、決して得意じゃなかった社交界でのマナーはナマエに習ったくらいだ。
 同年代の中で誰よりも大人びていて頼りになったけれど、その優しい笑顔がまるで象徴するかのように、彼はどこか消えてしまいそうな危うさを孕んでいた。実際彼はジュニアを戦ったリンクメイトの誰よりも早くリンクを降りて、それから二度と上がることはなかったし、怪我を治して自由に歩けるようになってから、生まれ育った街からも出て行ってしまった。

 サーラはナマエが大好きだ。ひとりを選ぶならナマエがいい。照れくさそうに笑うのも、サーラがいじめられたときに怒って守ってくれるミッキーとは反対に黙って側にいてくれたのも、いつまでもこんなふうに私たちを迎えてくれるところも、全部大好きで。たぶんこれは間違いなく恋心だ。

 だけど、ふらふらと消えそうなナマエを繋ぎ留めたくて、その気持ちが大きくなりすぎて、どうしてナマエを追いかけるのかわからなくなってしまった。

 だからどうやってこの想いを告げたらいいのかわからなくて――――いつも、次の約束をするだけになる。いつ遊びに来るだとか、大会を見に来て欲しいとか、それだけしか言えなくなる。



「ナマエ」
「うん?」

 だけど、やっぱりちゃんと言っておかなくちゃと思うことは、伝えておかなくてはいけない。この恋心を伝えるのはまだもうすこし先でもいい。それでも、幼馴染として言わなくちゃならないことは、言わなくちゃ。

「私は、あんたがどこへ行っても必ず探し出して、絶対一緒にいるからね。忘れたりなんかしない。ひとりになんか、させない」
「サーラ…」

 ミッキーが難しそうな顔をする。大方私のことを思ってくれているんだろう。ミッキーだって同じように思ってるくせに、本当に素直じゃないんだから。

「あはは」

 ナマエが声を上げる。

「僕はいま、どこかへ行こうだなんて思ったりしないさ。君たちが会いに来てくれる、こんな幸せな場所は他にはないんだから。」

 困ったような笑い方をして、彼は言う。

「でもそうだね、待ってばかりじゃ悪いから、君たちのシーズンが終わる頃に遊びに行くよ。僕が知らない故郷も、きっとたくさん増えてるでしょう?」
「約束よ、ナマエ」
「うん、ああでもその前に、大会で会えるのかぁ。嬉しいな、すごく」

 また、ひとつの約束で縛り付ける。それがいいことかどうかはわからない。けれどそれで、ナマエがここにいてくれるなら。それでいいと思ってしまうのは、いけないことではないと思いたい。














 料理が運ばれてくる前にお手洗いに、とサーラが席を外したのをぼんやり見送るナマエを見遣る。
 なるほど確かに元気そうで、いつものようにいけ好かない笑みを浮かべるこいつは、昔と全然変わっちゃいなかった。

「見え見えのやせ我慢も少しはマシんなったか」
「やっぱり君は容赦ないよね。…うん、でも年々よくなってるんだ、本当だよ」
「そんなん見てればわかっちょる。それでも、痛むんじゃろ」

 事故の後のリハビリで、コイツが歩けるようになったのは知っている。簡単な運動だってできるようになった。けれど毎日街中を歩き回るような仕事をしていて、無理がないわけがないのだ。ときおり脚に触れるナマエの手が、そう語る。

「今日は冷えるから、古傷に障るだけだよ」
「…やめる気は、やっぱりないんじゃな」
「心配してくれるんだ?」

 ミケーレは優しいな、なんて妙に優しい顔で微笑むのが気に食わない。「大丈夫、君たちを案内するの、楽しみにしてたんだから」なんて、そういう綺麗な話ばかりをしようとする。
 だからサーラが、いつまでもそこから先に踏み込めないのだと、憤りにも似たやるせなさを感じる。悲しいことや苦しいことだって、教えて欲しかった。サーラの負担になるくらいなら儂が背負ってやると、そう言いたくても結局ナマエのきれいな言葉の前にかわされてしまう。

「お前が無理ばっかしちょったらサーラが悲しむ」

 結局そんなことしか言葉にならなくて、しかしそれはミケーレにとって、一番大切な心からの言葉だった。

「サーラを泣かせよったら俺が許さん」
「サーラが泣いたら、僕だって悲しいよ。そんなことはしたくないな」
「…わかっちょるならええ」

 たとえコイツが泣かせるつもりがなくても、サーラはきっと泣くんだろう。ナマエの怪我は完治したものだと信じているであろうかわいいサーラ。いや、儂の妹は聡いから、どこかではわかっているのかもしれないけれど。だから、伝えられないもどかしい距離があるのかもしれないと、そう思った。





















「おいしかったわ、さすが名前」
「まあ、コイツの舌は信用できるからな」
「ふふ、それは光栄」

 ナマエの選んだクロスティーニは大変お気に召したようで、支払いを済ませて店を出る。途端に冷たい風がびゅう、と抜ける。

「ナマエ、今日はナマエの部屋に行きたいわ」
「は」
「えっ?」

 そう突然にサーラがそう言い出すものだから、ナマエもミケーレも止まってしまう。

「な、な……」
「サーラ?今日はドゥオーモに行きたいって言っていたよね。今年こそクーポラに登りたいって」
「うん、言ったけど……」

 わなわなと震えていたミケーレが声を上げる。

「サーラ…いつからそんな…男の部屋にあがりたいだなんていう女になってしまったんじゃ…!」
「どうせ私もミッキーもナマエの部屋に泊まるんだから、ちょっと行くのが早くなるだけよ。それに……」

 くるりと振り返ったサーラのスミレ色の瞳が、ナマエの黒色の瞳とかちあう。

「明日、ゆっくり出かけましょ。私も今日疲れちゃったし。クーポラはまた今度でいいわ」

 そう言って口角を上げるサーラの態度に、ナマエは気づいた。サーラは、ナマエの脚のことなんてとっくにお見通しだってこと。
 ああ、また気を遣わせてしまった。そううつむきたいのも、きっと彼女はお見通しなんだろう。ごめんね、と言えばいいのか、ありがとう、といえばいいのか。どちらも違う気がして言葉に詰まる。


 どうしたらいいんだろう。どうしたら、ふたりの重荷にならないんだろう。


 サーラが自分に、幼馴染み以上の好意を向けてくれていることは薄々気づいているし、ミケーレだってそれがわかっているから、ナマエへの態度が周囲に対するそれとわずかに違うのだ。これからのサーラの人生がナマエと寄り添うものであるなら、ナマエはサーラを幸せにできる男でなくてはならない。
 そんなこと、僕にできるんだろうか。ぐるぐると考えて、結局答えを出すのを先延ばしにし続けている。そんな自分に、そんな資格が。

 いよいよどうしていいのかわからなくなったナマエを、大声上げて騒いでいたミケーレも困惑した目で見つめている。いや違う、本当は、その瞳は答えを待っているのだということも知っている。今日これからどうするのか、体は本当に大丈夫なのか、サーラの気持ちに応える気はあるのか。彼が聞きたいことはたくさんあるはずで、それでも黙って待っていてくれている。

 押し黙ってしまったナマエに、しかしサーラは簡単に、けれど真っ直ぐに言った。

「ゆっくりでいいわ、いつまでも待ってる。だから、どこへも行かないで」

 それは、歩くことか、答えを返すことなのか、それとも。
 伏せがちになった目線を上げる。サーラはナマエを見て力強く笑っていた。その表情が昔から、なにより心強かった。他の男の子達にいじめられていても、ほんとうは三人の中で誰より芯の強かったサーラ。

「せっかく三人でいられるんだもの、たまにはいいでしょ?」

 煉瓦造りの街道を行く。古い建物の内装だけを改装した、ナマエの住むアパートメントへ向けて。

「やっぱり僕は、君たちが大好きだよ」

 春はまだ遠い。フィギュアのシーズンの終わりは丁度その頃。いずれやってくるその暖かい季節、彼らに時間があるとき、自分の思いの丈をきちんと伝えなくては、と思う。
 どんな言葉で伝えよう。どんなふうに。どうしたら、このふたりの兄妹の気持ちに報いることができるだろうか。

「今度は僕が、会いにいくから」

 だから、待っていて。大切な君たち。君たちのおかげで、また次の春まで頑張れるんだ。今度はいつもよりもう少しだけ、大切で重要なことができそうな気がする。
 通りを抜けた先にあるクリスマスツリーが、きらきらと光って。満足そうに笑ったサーラが頭に焼きついて、どうやらしばらく消えそうにない。