流れ星とビスケット 


気付いたら、随分と森の奥深くまで来てしまったようでした。いつもの森と、少し匂いが違います。それはネルのまったく知らない場所でした。それまでいらだちでいっぱいだったネルの胸は、次第に不安で滲んでいきます。

ネルは走る早さを少しずつ緩め、とぼとぼと歩き、やがて座り込みました。時刻はすっかり夕暮れです。乱れていた呼吸も穏やかになり、涙ももう零れませんでした。そして、顔を上げ、何もない風景を眺めました。

夕暮れの空は、濃い紫色へと変わろうとしていました。

ため息をひとつ。

どうしていつも、かなしいことばかりなんだろう。

「もしもし、そこの神さま、もう少し向こうに座ってくださる? 踏みつぶされそうでいけないわ」

突然聞こえた声に、ネルは驚いて当たりを見回しました。

「ここよ、あなたのお尻のすぐそば! きゃ! ちょっと、急に動いたら危ないじゃない!」

ネルが視線を落とすと、確かにネルが座っているすぐ隣に、一輪の小さな花が咲いていました。ネルは驚いてぽかんとしました。

「まったくもう、いくら神さまと言ったって、気を付けて頂かなくては困るわ」
「ごめん、こんな陽の当たらない場所に花が咲いているなんて思いもしなかったんだ」
「わたしだって、こんな奥地に急に神さまが来るなんて想像しませんのよ」

それもそうだ、とネルは思いました。言わずもがな、ネルは夜の神さまです。

ネルは、花を潰してしまわないように、ゆっくり距離を取って、その姿を見つめました。ふんわりとした花びらのついた、黄色い花でした。

「あら、神さま、泣いていたの?」
「なっ! 泣いてなんか、」
「いいえ、目を見れば分かるわ。赤くなってるじゃない。変なの。ねぇ、あなた、お名前、なんて言うんでしたっけ?」

黄色い花は楽しげにそう述べました。事実を言い当てられて、そして笑われて、あまり良い心地はしませんでしたが、ここはぐっと堪えます。この花がいなくては、ネルは分からない森の中、完全にひとりきりになってしまうのですから。話をしていた方が、何かと気は紛れます。

「おれは、ネル・ミッドナイト」
「あら、ミッドナイト! 夜の神さまですのね。うれしいわ、わたし、夜(ネル)と一度お話がしたいって、ずっと思っていましたのよ。わたし、夜の花だもの。でもあなた、わたしのこと知らないでしょう?」
「えっ?」
「ほうらね、神さま、あなたが詳しいのって結局、自分のことと、自分の周りのほんの近くのことだけなんですわ。同じ夜なんですから、少しくらい気にかけていただきたいものだけれど。わたしの名前は、イヴニング・プリムローズ。待宵草(まつよいぐさ)ですわ。」

同じ夜? 
ネルはぽかんとしました。黄色い花――待宵草は一体何を言っているのでしょう?

ネルは今まで、自分が夜の神さまだということで、花たちには散々の言われようを受けてきました。ネルの家の庭には、どこから種が運ばれてきたのか色取り取りの金魚草が咲いていましたが、彼女たちは一様にネルと打ち解けることを嫌い、命令したり、悪口を言ってばかりいるのです。

今日ネルがこんな場所まで来たのだって、金魚草との喧嘩が原因でした。季節は残暑の厳しい夏で、陽が落ちたあとも寝苦しい夜が続いています。金魚草はネルに、夜の間中ずっと霧吹きを掛けてくれとごねたり(ほんとうに、どの季節だって夜と言うのは過ごしにくくて叶いませんわ! どうして夜なんか存在するのかしら、わたしどうしてよりによって夜の神さまの庭になんか咲かなくちゃなりませんの?)、うちわで扇ぎ続けることを強要してくるのです(あぁなんて息苦しい夜ですの! あなたにはこの辛さが分からないのだわ!)。

ただでさえ、昼間、他の樹木たちに比べて金魚草には頻繁に水をやっているというのに、どうして朝まで我慢できないんだろう? それに、頼むなら頼むなりの態度を示してもらえなければ、こちらとしても気持ちが起きません。せめて、一方的に命令する口調だけでもどうにかなればいいのですが。

そんなことを毎日毎日繰り返しているものですから、ネルはとうとう腹ただしくなって、逃げ出してきたのでした。

けれど、実際彼女たちの言うとおり、花にとって夜というものは、太陽のない真っ暗な時間なのだし、決して歓迎されるものではないこともまた仕方のない事実でした。だから、ずっとネルは花と目を合わすたびに嫌な気持ちになることを、仕方がないことだと思っていたのです。

一体どういうことでしょうか。夜の花だって?

「だってわたし、待宵草ですもの。わたし、夕方に咲き始めて、夜の間中ずっと花を開いているのよ。だから、昼間は眠っていて、夜がわたしの時間なの。今日はあなたにちょっと早めに起こされてしまったけれど」

待宵草の言葉に、ネルは目を輝かせました。まさか、自分の存在を嫌わないでいてくれる花が存在するなんて、思いもしなかったのですから。

「おれ、なんだかとてもうれしいよ。今まで誰も、おれにそんな風に話しかけてくれなかったんだ。ひとりぼっちだったし……庭の金魚草とは話せたけど、あいつら、自分勝手なことしか言わないから」
「あら、ネル、花というのはそういう生き物ですのよ。我儘で、高慢ちきで、意固地な生き物ですの。鮮やかな色を広げては、真っ先に、一番に愛してくれと迫るのですわ。そうすることでしか、短い間を生き抜くことができないのよ」
「でも、きみは違うよ。きみは金魚草とは全然違うよ」
「いいえ、わたしも花ですもの。金魚草は、あなたに守って欲しいのですわ、ネル。わたしたち、ひとりじゃ何もできませんもの。綺麗であろうとするせいで、愛されようと躍起になるせいで、素直になれないのだわ。寂しい生き物ですの」
「寂しい生き物?」

 待宵草は微笑みました。問いかけに答えはありません。

「でも、おれ、あいつと喧嘩ばかりしてるんだ。出会ってからずっとだよ。もう我慢できない。しばらく顔も見たくないよ」
「ずっと? 出会ったのはいつですの?」
「え? 気付いたときには咲いてたから、もうずっと昔の話だよ」
「それは変ですわ。この辺りじゃ、金魚草はそう長生きしないはずですけれど」
ネルが驚いていると、待宵草は言葉を続けました。
「ここの夏は厳しいから、寒冷植物の金魚草に夏越しは無理ですわ。最近の熱帯夜なんかほんとうに酷いじゃない? あ、気を悪くしないで頂戴ね、事実なんだもの。まぁ、熱帯夜が来るたびに霧吹きを掛けてやるっていうなら話は別ですけれど、誰もそんなことしてくれないでしょう?」

ネルは言葉を失いました。夏越し出来ない花だって? ネルは金魚草がそういう生き物だなんて思いもしなかったのです。だってそんなこと、一度も言ってくれなかったのですから。

「そんな……そんなの、言ってくれなくちゃ分からないよ! ちゃんと言葉にしてくれなきゃ! もしそうしてくれたら、おれ、命令なんかされなくたって、毎夜霧吹きしてやったのに。毎日ベッドで眠れなくても、家を飛び出したりしないのに……」

ネルの言葉に、待宵草は驚きのため息をつきました。

「まぁ、それじゃああなた、わざわざ夜中も金魚草に水をやっていたの?」
「どうしてちゃんと話をしてくれないんだ? どうして会話してくれないんだ。これじゃ、まるでおればかりが悪いみたいだ」
「ネル、ネル。あなたは神さまなのですから、寂しいだけではいけませんわ。あなたはその足で何処にでもいけるし、その手で何でも掴むことができるのですから、もっと丁寧に日々を歩まねばなりませんのよ。大切なのは、耳で聞く言葉ではなく、こころで聴く言葉ですわ。目で見る景色ではなく、こころでみる景色ですの。神さま、あなたこそそうあって。ですからわたしたち、あなたのことを敬意を込めて、神さまと呼ぶのだもの」

ネルは待宵草を見つめます。

「待宵草、きみはひとりぼっちで、寂しくないの? 寂しいだけではいけない、って、いったいどういうことなのかな……」
「ネル、あなたは、他の神さまがたくさんいる場所に行けば、ひとりぼっちでなくなるのかしら? 金魚草が居ても、まだひとりぼっちだというのに?」

ネルは待宵草の言葉をじっと聴いていました。

「どんなことをしたって、寂しさは埋められませんわ、ネル。あなたがどんなに泣いても、逃げても、それは余計に影をくっきりと映し出すだけですのよ。あなたはそれを許して、ただ進み続けるしかありませんの。そうして、時間をかけて、丁寧に日々を咀嚼するしかありませんのよ。それがどんなに孤独な行為でも」
「意味なんてなくても?」
「ないように思えても、あると言わねばなりませんわ」
「きみはそうやって生きてきたの?」
「そりゃあ、夜に咲く花ですもの」
ネルは口をつぐみました。そして、置いてきた金魚草のことを思いました。
「ネル、金魚草にはあなたしかいないのですから。他に誰に頼ることもできないのですから。あなたたちは出逢ってしまったのですから、それなりの責任を負わなくてはなりませんわ。信じられなくても、それを受け入れるしかないのですわ」
「うん……」

ネルが頷くと、待宵草は、さぁお行き、と言うように小さく揺れました。立ち上がって、さよならを交わして、歩き出して、それでもネルはまだ、待宵草の元を去るのが耐え難く感じました。

辺りは夜の帳が落ちて、今日もまた熱帯夜になりそうです。急いで帰らなければ、きっと金魚草は苦しい思いをするでしょう。ネルはもうそのことを明確に知っているのに、それでも考えていたのは金魚草のことではなく、待宵草のことでした。つまり、考えていたのは自分のことでした。

そのことを彼が思い知るのは、今よりずっと後の話。

「ねぇ! きみが辛いときは? 誰が霧吹きを掛けてくれるの?」

ネルが振り返って掛けた言葉に、待宵草は笑います。

「あら、わたしには思い出と出逢いがありますわ、夜の神さま。例えば今日のような!」








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