狂犬の調教

 抱えらえて運ばれる感覚がした。舌を噛めないよう、ナマエの口元には手が添えられている。

「……あなたに…抱えられるくらいなら…自分で歩く…」
「不可能ですよ。おとなしく抱えられておきなさい」
「………死ね」
「いつかはね」

 夜気が肌を撫でる。一度外に出たらしい。ということはこの男が住んでいる工藤新一の本宅に運び込まれるのだろう。あの床はコナンか阿笠が始末するのだろうか。

「…縛ら、ないの」
「そう期待せずともすぐに縛ってあげますよ。あなたは一瞬でも自由にしておくといつ噛みつかれるか分からない。まさに狂犬ですからね」

 後ろ手に手を、そして両足と首を縄で固定し、口には猿轡をした後、昴はどこかへ消えた。場所が浴室なのは、どれだけ吐いても始末がしやすいようにだろうか。戻ってきた昴の手には拘束具。どこに隠していたかは知らないが、こんな状況まで想定していたのか。

「赤井秀一とも…あろう男が…一人の女に、随分な警戒…するのね…」

 実際には猿轡のせいでくぐもった声しか出なかったが、彼は正確に言葉を読み取ったようだった。

「全身を穴だらけにされようと、両手両足の骨を折られようと、逃げ出してきた実績のあるあなたが相手ではね」

 乱暴に猿轡を外され、より本格的な口枷がはめられた。喋ろうとしても間抜けな発音しかできないようだ。

「ほうえいほ、おほうえきかひあ」
 ――――光栄と、思うべきかしら。

 喋りながらも全身が拘束される感覚があった。そして最後の結び目が固く結ばれたあと。沖矢が眼鏡の間に指を当てた。

「さて、今なら少しは引き出せそうですね」

 猿轡が外され、指を数本突っ込まれた状態で、口元に冷たいものがあてがわれた。感覚からして、ガラスの瓶の口だ。

「…あうばーた・ふういんぐふ?へっへーひてうあえ」
 ――――アルバータ・スプリングス?徹底してるわね。

「この酒を飲まされるくらいなら素直に口を割る方がまし、とあなたが言いだしてくれるのを期待してのことですよ」

 RYEという名のその酒は、かつてのこの男のコードネームでもある。

「どうへなあ、わいうおはーきーにしへお」
 ――――どうせなら、ワイルドターキーにしてよ。

「今はバーボン一筋なので、そこまで品ぞろえはないんですよ…生憎ね」

 正確にナマエの拙い言葉を読み取る昴に、思わず笑いがこみあげた。

「ふふ……」

 素直に口を割る方がマシ、だなんて。
 判断力がなくなるまで追い詰められない限りナマエはどうせ本当のことを口にはできないし、昴だって判断力が残っている間のナマエの言葉など信じはしない。
 お互いそれが分かっているから、昴は限界までナマエを追いつめるしかないし、ナマエもそれを甘受するより他にない。なんて不器用な二人なんだろう、とナマエは笑った。もう敵対するつもりなどないのに。それは昴のほうとて薄々分かっているだろうに、ただお互いを信頼するためだけに傷つけ傷つけられることを選ぶのだ。

「どうへ今素直になっはっへ、あぁたはほえを信じあえないふへに?」
 ――――どうせ今素直になったって、あなたはそれを信じられないくせに?

「ああ、限界まで追い詰められたいわけですか。…お望みとあらば」

 すっと眼鏡が外された。



「それで、本当は何をしに来たんだ?」

 盗聴器の類が無いと完全に分かった後で、沖矢昴は赤井秀一として本来の声、本来の口調で問い詰めた。耳元に低く吹き込まれた低い響きの声に、殆ど生理的に肌が粟立った。濡れた拘束具は重く、何度も蹴られた腹は赤く擦れ、叩かれた頬はふくらみ、喉は胃酸のせいで掠れている。無理やり飲まされた度数の高い酒のせいで胃は燃えるように熱い。

「わめき散らして、止められるのが分かり切っている状況で毒を飲むなんて。構ってほしかっただけか?それなら初めからこちらへ来ればよかったものを。たっぷり構ってやったのに」
「シェリーに…」
「彼女は灰原哀だ」

 ガッと腹を蹴られた。どうやら本気で躾にかかるつもりらしい。もう逆らう気力も噛みつく体力も残っていなかったナマエは、素直に従った。猿轡はされていない。常に顎に手が掛けられてはいるが。

「…宮野志保…いえ、灰原哀に、会いにきたのよ」
「なぜ?」
「なぜって、会いたかったから」
「………組織を抜けた時の状況を詳しく説明しろ」

 沈黙。

「なるほど。よほど虐められたいと見える」

 拘束具に繋がれている紐を引き上げられ、体が持ち上げられた。ナマエの瞳にはまだ理性が残っている。赤井は拘束具の結合部分を次々に解いていった。今まで何をされても動じなかったナマエの肩が微かに揺れたのを、赤井の目は見逃さない。

「あら…いいの?マッドドッグを自由にして」
「拘束具も縄も、お前に縋るものを与えることにしかならないようだからな」

 肺を圧迫していた胸部の拘束が解かれると、恐ろしいほどの解放感がナマエを襲った。表情に出さない焦りが内心を襲う。組織でも、痛めつけられる時は大抵縛められたままだった。しかし拘束されていればそれだけ縋るものは増える。快感を流し込まれる時だけは、身動きが取れず快感を逃がせないのは苦痛でしかないが、痛みを与えられる時は拘束は却って自分の意識をも繋ぎ止めてくれる命綱だ。
 おびただしい数の拘束が外され、代わりに両手を後ろで拘束された。ご丁寧に、それすらも固定感のある縄ではなく無機質な手錠だ。先程から浴室内に流れている冷たいシャワーのせいで、冷気が肌を襲う。と、赤井が蛇口を捻って水を湯に変え、硬直しているナマエの全身に浴びせた。どんなに張りつめようとしても、否応なく体が弛緩していく。

「…意地が悪い」
「お前ほどじゃない」
「私は…他人を痛めつけたりしない…」

 先ほどまでの作られた女らしいしなや甘ったるい口調が消えかかっている。赤井は微かに口元を緩め、仕上げとばかりにシャワーヘッドを置いて両手でこの上なく優しくナマエの頬を包んだ。手のひらは湯に温められたせいで嘘のように温かい。

「さあ、グッドガール?飼い主がいなくなって不安なんだろう?俺が新しい飼い主になってやる。好きなだけ醜態を晒せ、哀れなお嬢ちゃん」

 グッドガール、まるで犬に呼ぶような呼称。目と目は交わらない。ただ耳元で優しく甘い言葉が響いた。それは一番言われたくなかった言葉で、同時にいちばん欲していた言葉でもあった。
 ナマエは、ジンという飼い主を失くして、どうしていいか分からなくなっていた。今まではジンに従ってさえいればシェリーの安全が守られた。その原動力を奪われたのに、今更自分の意思で強く生きていくこともできそうにない。誰かに飼われていないと、誰かに従っていないと、呼吸すらおぼつかない。自分は弱い存在なのだと、哀れで無力な女なのだと、…認めたくなかったが、誰かにつきつけられてしまいたかった。そしたらもう虚勢を張らなくてもいい。もう楽になれる。甘い毒だと分かり切っている誘惑が、ナマエの脳髄まで忍び込んできた。必死に振り払うだけの気力も体力もあとわずか。

―たとえ毒でも、甘いなら、いいじゃないか―?

「………っ」

 熱いものがこみ上げた。涙の塊のようなもの。
このゲームは、感情的になれば負けだ。ナマエも赤井もそれをよく理解している。だからこうして触れさせたくない奥の奥まで踏み込んで、追いつめた後に甘やかして。
 もう、負けでいいから、眠ってしまいたかった。なのにこの男はそれも許さない。せめてもの意地で沈黙を貫いていると、あろうことか、赤井の手はナマエの裸の背を優しく撫でた。先程まで与えられた暴力のせいで反射的に震えるナマエの息が落ち着くまで、何度も、何度も。
 暴力なら耐えられる。痛めつけられるのも、きつく縛り付けられるのも。しかし、優しくされる方がいっそ耐えられなかった。ナマエを縛るものは、今、何もない。縋れるものも。あるのはただ目の前の男の体と言葉だけ。

「本当はもう分かっているんだろう?強情になる理由なんか何もないと」
「…私…は、あんたが…きら…い。それだけで、十分な理由…に」
「正直、お前に嫌われる理由が皆目見当がつかないんだが?…鈍いこの男に教えてはくれないか」

 ナマエがジンのマッドドッグで、赤井がライだったころ。二人は既に邂逅していた。探るために近づいて、他の男と同様、組織での余興の一環として彼女を他大勢が見ている前で手酷く犯した覚えもある。だがその程度のことで一人の男を憎むような女ではないだろうと赤井は思っていた。降谷零のような事情があるかと思って記憶をたどっても、彼女にそもそも近しい人間や仲間はいない。全てジンが自ら始末している。

「聞いて…どうする」
「お前とは手を組めそうな気がしているもんでな」

 口を開こうとしないナマエに、赤井は駄目押しとばかりに酒を含ませた。ほとんどは口からこぼれるが、吐き出すほどの力もないせいでいくらかは喉を灼きながら胃に到達した。意識が朦朧としてきているのが分かった。あとは、何かきっかけさえあれば、落ちる。
 赤井は、ナマエの表情をじっくり観察しながら、再びその両頬に手を当てて、唇に吸い付いた。ずっと拳や酒瓶を突っ込まれていたせいか、ナマエの顎の力は抜けきっていた。舌を噛み切って自害するどころか、侵入してきた赤井の舌に噛みつく様子もない。彼女にとっては想定の範囲内ではあったのだろうが、多少その目が見開かれたのをつぶさに観察する。奥に行き過ぎないよう、蹂躙の為ではなく飽くまで情事の一部のような程度に抑えたキスを繰り返す。上顎が弱いのは数年前から変わっていないどころか、より敏感になっているらしい。重点的にそこを擦りながら、舌を柔く噛み、歯列を時間を掛けてなぞり、口を吸う。同時に、頬に当てていた手の片方を首裏に這わせ、背中をなだめるようにさすった。優しいキスを多少荒くして行けば、目じりから涙が一滴こぼれた。

 ――――十分だ。

「……FBIが、ここまでするとは、ね」

 …まだ憎まれ口を叩く余裕があるか? 離しかけていた口を再び押し付ける。観念したように背中を叩かれた。

「っもう分かった、いい、から…話す」

 いや、まだだ。
 理性を残しているうちはどんな嘘を織り込みどんな策を弄するかわからない。赤井が必要としているのは本心からの言葉なのだ。逃がさずに舌を追う。

「……っ……う」

 一度堰を切った涙が、頬を伝っていた。
 とどめをさす。

「……悪かった、やりすぎた」

 宥めるように顔を覗き込んで、謝罪を口にする。思った通り、ナマエは頬を紅潮させて、これまでにないくらい激昂した。

「…何が……っ」

 言葉にならないらしい。その背中を尚もさする。

「ふざけるな…っ…私に触るな…!」

 無言で手を離し、ハンズアップの姿勢を取る。ナマエは嗚咽を漏らしていた。抑えようとすればするほど呼吸が不自然になっているのが分かる。しまいには、過呼吸をひきおこしたようだ。心底屈辱的な様子で顔を歪めるナマエの表情に、演技の色は見当たらない。
 激しいせき込みに、再び背中をさすろうとしたが、弱々しくも明確な拒絶で振り払われた。どうせここまで来たなら目的は半分達成したようなものだ。赤井は一歩身を引いた。

「俺が殺した“彼女”のことで恨みを持っているんだろう?」

 彼女、と言ったのは半ば賭けだった。男には絶対に最後の一線を割らせない女だと思ったから。父親は生まれた時に殺されているし、兄弟がいたという話もない。ならば母か姉妹か友人だろうと思ったのだが。

「俺が殺した、だと…!よくも、ぬけぬけと…!」
「……“誰”の話だ?」
「誰か、だと?ふざけるな、ふざけるなよ。彼女の唯一、…志保さんの……私の唯一の…!」

 志保。その唯一。
 その二言で赤井は全てを察した。

「まさか、お前……」

 ナマエは荒い吐息を漏らした。意識が混濁し始めている。言わないでもいいことを口走っている、という警告が頭に走っても、もう遅かった。本心が零れ落ちるのを、止められない。

「研究室を与える代償に…私が暗殺を……暗殺任務に関わらせないよう、私の功績も彼女のものにした…私の勝手な自己満足でね……ジンの性欲も彼女に向かないように全て私に引き留めた……汚いことは全部私がやって…彼女はきれいでいればいいと……」
「ここまで強がってようやく吐く本心がそれか。お前も難儀な女だな。先にそれを吐いていれば彼女もボウヤも絆されてくれたかもしれないものを」
「…志保さんは、優しいから…これ以上、羽根一枚分も、罪悪感も後悔も…味わわせたくなかった……」

 食いしばっていたのに、涙がこぼれた。この男の前でこんな姿を見せるなんて。

「私は汚いまま…死ぬべき人間のまま死ねば…でも、少しは覚えておいてほしかった…後悔させるつもりは…なかったのに…」
「つながりは何だ?彼女とお前の接点は?なぜお前がそこまでする?」
「別に……同じく小さい頃から組織に飼われて、私はどんどん汚れていったのに…彼女はいつまでも綺麗なまま…優しいままで…彼女の姉も、私なんかにまで優しかった…だから私の、勝手な、自己満足…うっ」

 痛めつけられた胃から胃液が漏れ、喉を灼いた。昴はずっと上げさせていたナマエの顎を下げた。もう噛みついては来ない。体力も気力も限界に達してようやく従順になったらしい。

「単純に、純粋に、好きだったの…それだけ…なれるものなら彼女の犬になりたかった…」
「……なってもらうさ。彼女を守るための犬にな」
 そしてナマエは気を失った。

 気を失ったナマエを抱えて、昴は立ち上がった。後ろ手に両手を戒める手錠だけを残して残りを解く。風呂場で身に付けていたものを全て脱がせると、服の下からはいくつもの古い痣や新しい傷跡が現れた。いくつかはたった今自分が刻み込んだもので、さらに残りの傷のうちのいくつかは昔に自分が刻み込んだものだ。肋骨が折れているのは、薬を吐かせたときに彼女自身が無理やり胸を撲って意識を留めた時のものだろう。記憶の通りに残っている傷跡を昴は指で辿った。ナマエはぴくりともしない。昏睡状態に陥っているらしい。軽くシャワーで流してやり、口回りを清めてやった。

「愚かな女だ」

 呟いた声は、彼女の耳には届かなかっただろう。



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