狂犬の勝負
赤と白のカプセルをひとつ。持ち出せたのはそれだけだった。
その家には、わざと黒い服を着ていった。真っ黒なシャツ、真っ黒なズボン、真っ黒なコート、真っ黒な帽子。
チャイムを押す自分の手が震えているのに気付いた時は思わず笑いがこみあげた。
「開いてるよー。博士?昴さん?」
中から聞こえて来たのは少年の声。
ドアを開くと、中には子どもの靴が二足。ちょうどいい。
「お久しぶりね、シェリー」
組織に居る間に身に付けた威圧感を、せめてもの虚勢で醸し出しながら、中へ足を踏みいれた。少女が固まり、場の空気が一瞬にして張りつめるのがわかった。
「なぜ…あなたがここに」
かわいそうに。そんなに怯えて。私ごときに。
少年がまるで姫を守るナイトのように少女の前に歩み出た。
「灰原、こいつは!?」
「組織の…私の研究チームのひとりよ。チームでは私の次にアポトキシン4869の製造に貢献していたわ…特に組織への忠誠心が高いことで有名…コードネームは聞かされていないけど、こう呼ばれていたわ――組織の犬、マッドドッグとね」
「コードネームなんてそもそももらってないからね。あなたくらいよ、研究職でコードネームを与えられるくらい上位に食い込んでいたのは」
「そんなことどうでもいいわ。何しにここへ来たの」
警戒心丸出しの仔猫のような彼女の姿に、思わず笑みがこぼれた。本当は涙も少しこぼしてしまいたかったけれど、場の空気にそぐわなそうだからやめた。
「そりゃあ、体が縮小したサンプルが二人もいるとなれば、来ない理由はないじゃない?私だって研究者の端くれだし」
「……ここはもうばれてるってわけ?」
「……分かっていたけど、私、本当にあなたには信用されていないのね」
「信用?何を言っているの?ジンやウォッカにすら一目置かれているあなたになぜ私が」
「それは私が科学者でありながら暗殺者でもあったから?それはそうね。あなたと違って最初は暗殺者として訓練されたもの。その後研究でたまたま成果をあげたからあなたの見張り兼補佐につけられていただけで」
「……私を、殺しに来たの?」
「まさか。それなら私じゃなくて他のメンツが来てるでしょう」
コナンを間に挟んでいるが、場の空気はシェリーと私、二人だけのものだった。
「知らなかったでしょうけど、私、あなたのこと、好きだったの」
「…はっ。ジンの犬と有名なあなたが、私を?それは光栄ね。こんなところまで追いかけてきてくれるくらい好かれていたなんて」
分かってはいたけど、思ったようには伝わってくれないようだった。
「…まぁ、今何を言っても無駄よね。私も組織で大きなヘマしちゃって、殺されることになったから最後に来たのよ。最後くらい好きなことしたいじゃない?」
「…ここの場所は」
「私以外知らないはずだから安心して」
憎しみのこもった目で見られる理由など思い当たらないのだが、組織を裏切った彼女には組織の人間は全てそういう対象になってしまっているのだろう。
「…ふふ。かわいいなぁ。そんな小さい姿で精一杯睨まれても」
「馬鹿にしに来たの?さっさと目的を明かしなさい」
「いいじゃない。どうせ今日限りの命だし、今日くらい好きな子とお喋りしても」
「今日限りの命?どういうこと?」
ここへきてようやく、今まで沈黙を保っていたコナンが口を開いた。「まさか…」と呟いた後、時計型の麻酔銃の焦点がこちらに合わせられる。
「別に体に爆弾なんて巻いてないから安心してね。なんなら丸裸になってあげましょうか?死ぬ前に一度くらいシェリーの笑顔が見たくてここへ来たのに、見られそうもないし」
「………」
コートの内側に手を入れると、あからさまにコナンが緊張した。銃でも取り出すと思っているのだろうか?まあそれくらい危うい空気を醸し出していることは流石に自分でも自覚している。
取り出したのは、赤と白のカプセル。
「流石にデータは持ち出せなかったけど、実物があれば少しは役に立つでしょう?まぁ工藤新一が数回出現しているところを見ると一時的な解毒薬はもう完成しているみたいだけど。流石シェリーね。薬の成分も化学式も何もないところから記憶だけを頼りに解毒薬を作るなんて。ああ、そうそう、工藤新一の死亡データ、あなたじゃなくて私の部下が書き換えたことになってるから。しばらくあなたが怪しまれることはないと思うわ」
ごくり、誰かの喉がなった。
「喉から手が出るほど欲しい?安心して、別に難しい交換条件は出さないわ。それよりそこの小さなナイト君、いい加減シェリーときちんと話させてくれない?」
答えは沈黙。思わずため息が漏れた。
「どうしてかなぁ。ねえ、私だってそこのシェリーと同じ立場よ。しばらく観察させてもらったけど、ずいぶんシェリーにお熱じゃない?シルバーブレッド君。少しだけ羨ましくなっちゃったわ」
「……灰原はもう、組織を裏切って逃げて来たんだ」
「賢いあなたなら分からない?こんなに時間が経っているのにまだこの場所に他の誰も来てないんだから、私だって誰にも何も言わず逃げて来たのよ」
そこで灰原が口を出した。
「私がいないチームで、あなたまで抜けたら、それこそ研究は終わりだわ。組織があなたから目を離すはずがない。私の逃亡で監視もよりいっそう厳しくなったでしょうしね」
「ええ、薬漬けにされたわ。逃げ出せないようにね。どうやって逃げたかはまあ企業秘密ってとこね。言えるのは、いくらジンでもベッドで出すもの出した後は少し気が緩むってことくらい。あとは組織の中に居るネズミに手伝ってもらってね」
にこり、とナマエは笑って見せた。外見が小学一年生でも、二人はあけすけな物言いを理解できる程度には大人だった。
「………あなたも裏切ったってこと?」
「ええ。監視役がいたけどもうこの世にはいないし、あなた方へ危害が加わることもない」
それでも警戒は解けない。ナマエはなんだかいっそおかしくなってきた。
「どうして?そこのシェリーだって、知らずに作っていたとはいえ人を殺す毒薬を作っていたのよ?どれだけの人間がそのせいで死んだと思う?なのに子どもの姿をしているというだけで、怯えている女の子の姿をしているというだけで、庇護対象になるの?…ずるいのね」
コナンの目つきが鋭くなるのを見ながら、ナマエはカプセルを指先でくるくると弄り回した。コナンの腕時計型の麻酔針がナマエに焦点を当てたが、ナマエは気にも留めずに言葉をつづける。
「実は最後まで悩んでた。今も、迷ってるの。このカプセルをあなたに渡すか、このまま自分の口に放り込むか」
「そんなことしたら…!」
「ええ。幼児化して生き延びてハッピーエンド、なんて確率は限りなく低い。どうする?小さな名探偵君。たとえ自分が加害者かつ被害者でも殺人を許さないハートフルなホームズさん?」
「やめて…っ!これ以上その薬で死者が出るのは
――――」
灰原の悲痛な叫び。これ以上死者は見たくない、とでも言うのだろうか。
コナンが撃った一発目の麻酔針は灰原の首筋に刺さったらしい。これ以上こんなシーンは見せたくない、彼らしい過保護な判断だ。
そして、次の麻酔針がナマエの首筋に届くより先に、カプセルはナマエの口の中へ消えた。