清算の時

 心配そうに見下ろしてくる阿笠へ、灰原は小さくため息をついた。

「こんなのかすり傷よ」

「じゃが……」

「本来なら当然私が傷つくはずだったのを肩代わりしてもらったんだもの。これくらい」

 なんてことない、と言おうとしたのを、その場に現れた人間の気配がさえぎった。

「なるほど、君らしい考えだ―シェリー」

 一瞬だけ暗い影のように這い上がった気配―冷たく残忍な、組織の気配。
 バッと振り返った灰原に、気配は一瞬で霧散した。

「はは、ごめんなさい、本当に敏感なんですね、灰原さん。いや、宮野さん?」

「…………冗談にしちゃ、悪趣味ね。降谷零、それともバーボンとまだ呼ばれたい?」

 向けた視線に敵意はない。どちらにも。残る皮肉さは恐らく生来のもの。

「一度だけ試したかったんです。僕はずいぶんあなたを怯えさせていたと聞いたので、本当かどうか確かめたくて」

「……あ、そう。」

「ええ、今までごめんなさい。もうしませんから許してください、ね?」

 作り上げられた人懐っこさや、見る人によっては魅力的であろう笑みに、当然、騙されるような灰原ではない。

「何しに来たの。そんなことを言うためにわざわざ?」

「いいえ、……赤井とあなたに因縁があるように、僕と彼女にも因縁があるので。まあ、赤井の方も彼女とはいろいろあるでしょうが……彼女の意図が誤解されないように、多少の説明をする義理くらいは僕にもあるかなと思いましてね。……あなたにそんな風に思われたら彼女はやりきれないと思いますよ?」

 困惑する阿笠に、降谷はにこりと笑った。そしてまた視線を小さな灰原のもとへと向ける。
 灰原は小さく阿笠に目配せをした。先に車へ行っていて、と。
 阿笠は困惑しながら席を外したが、恐らく車までは行っていない。たぶん会話の内容が聞こえない距離、灰原が叫べば聞こえるくらいの距離に姿を隠しただけだろう。優しい、普通の人間だ。能力はあれど、それを悪用される悲劇には見舞われていない。
 二人きりになった空間には、毛並みのよい猫が対峙しているかのような、絶妙な緊張感が張られた。

「……あなたに彼女の何が分かるというの」

「あなたが見ていない彼女を見ていると思いますよ、少なくとも。……彼女はあなたを傷つけたことで、いつかきっと絶対に、許せなくなるまで後悔して自分を責めるでしょう。あなたにそんなことを言わせたのだと知ったら尚更。」

「あの子をあそこまで追い詰めたのは―!」

「組織ですよ」

 思わず声を荒げた灰原に対して、降谷の言葉は静かだった。言葉に詰まって、灰原は一度息を飲んだ。

「あなたをそこまで追い詰めているのも。……誰も彼も自分を責めすぎているんですよ。一人だけ人を憎んでいた僕がばかみたいに」

 白い病室。ナマエがいつだったか「食べたい」と言ったのを灰原が再現したアップルパイ。作ったことなんか数えるほどで、それなのにナマエは酷く揺さぶられたようで、

 一瞬にして気配は凶暴化し、形を顰めていたかに見えた狂犬は狂犬のまま牙を剥き、阿笠の制止などものともせずに灰原を押し倒した。ベッドに縫い付け、首を絞め、手刀の先の爪だけで、柔らかな人間の爪先だけで、灰原の肌を裂いた。急所をあまりにも理解しすぎた人間の動きだった。ナマエに、医学的知識や人体の構造に関する深い造詣があったとは思えない。ならばそれはただ反復によるもの―彼女は何度も、恐らく訓練をして、何度も人を殺したのだ、と。灰原に分からせるには十分だった。腕の裂傷よりもそのことが痛かった。灰原は抵抗しなかった。抵抗をする間もなかった。恐らく抵抗したところで何の意味もなかったが。

 近くの部屋にいた捜査官が二人がかりで押さえつけてようやく彼女は静まった。
 鎮静剤を打たれ、拘束具を巻かれて、しかし目が覚めた時には何も覚えておらず困惑した彼女の姿は、まるっきりただの子どものそれで。

「……私もあの子も、人を殺したのよ。何も知らない子どもではなかったわ。私の姿に惑わされないで」

「子どもですよ、十分に」

「法的なことを言っているわけじゃないの」

「僕も、思慮や分別のことを言っているわけではありません」

―ひとりだけ楽になっていいわけがないでしょう!?子どもだった?そんな言い訳で許されていいわけが……!」

「ええ、誰も彼も、そう思っているんでしょうね。自分にどんな言い訳も許さない。“こちら”に居た者たちは」

 降谷も灰原もナマエも赤井も、……目的があろうとなかろうと、またその目的がいかなる正義の上に成り立っていようといなかろうと、多分、罪を犯し過ぎたし、そのせいで人を死なせすぎた。時には見も知らぬ他人を、時には自分を傷つけた者を、時には友を、そして、家族を。
 それは恐らく、どんなに理解させようと努めたところで、明るい世界に生きてきた人間には伝わらない―阿笠やコナンや少年探偵団の子どもたちには、決して理解できない、理解させたくない闇だ。コナンが人を救えず死なせてしまったことをあれほど悔いるならば、一体、自らの意思で人を殺してきた者たちはどれほど懺悔を繰り返せばいいというのだろう。

「そのくせあなたたちは、自分以外の人間には幸福を望んでいる。……どうして、自分を許せないにしろ、せめてお互いに許し合えないんでしょうね、同じ側にいた者同士。……一人だけ楽になるのが許せないなら、せーのでみんな楽になれればいいのに」

「……まさか、あの人とあんなにいがみあっていたあなたにそんなことを言われる日が来るなんて思ってなかったわ」

「はは、そうですね、確かに。説得力がないかもしれない。僕だっていまだに彼とは冷静に話をできる気がしませんし。あなたが相手だから精一杯見栄を張っているだけで。」

 降谷はそう言って少し笑って、言葉を止めた。
 考えを読ませない表情は、確かに、灰原より何枚か上手の大人故のものなのかもしれない。

「……結局、何が言いたいの。目的は何」

 目を細めた灰原に、降谷はまた少し笑って言った。

「“僕たち”で、共犯者になりませんか?」

「……どういうこと?」

「ナマエさんには戸籍も記憶もありません。一から手続きを踏んで戸籍を作り、過去の罪を裁き、正規の治療を受けさせていても―恐らく何の解決にもなりはしない。それくらいなら、」

 灰原が要件を理解するのに要した時間はわずかだった。

「なるほどね。……私に闇医者になれってわけね?どうせ今までもそんなようなものだったけど。」

「さすがはヘル・エンジェルの娘ですね。察しが良くて助かります」

「…………でも、まさかあの子に一人暮らしをさせるわけじゃないでしょう?監視を付けるの?公安が、それともFBIが?」

「実はさっきちょうど交渉が済んだところです。非常に癪ですが、あの男に任せることにします」

「あの男って―」

「工藤邸で共同生活を行った実績もあると言われてはね。」

 赤井との交渉を風見に任せて部屋を去った後、別室で降谷はFBIのチームのボス―ジェイムズと対話していた。

 曰く、赤井に、保護観察という名目でナマエの世話を任せようと。因縁ある二人で過ごせば、過ごしているうちに何か分かることもあるだろうと。もとより、組織で暗躍し、人を容易く殺せるほどの能力を持っておきながら、錯乱して人に襲い掛かるような状態の彼女を放置しておくわけにはいかない。彼女を抑えられるほどの実力がある人間―それこそ警官や捜査官といった腕の立つ人間が、彼女をコントロールせねばならない。それも、彼女自身の察知するところではないがゆえに、秘密裏に。

 だが、正式な任務として捜査官をつけるには、彼女はあまりにも複雑な立場だ。未成年者として扱うにしろ、犯罪者として扱うにしろ。
 そこへ現れたのが、退職を志願している赤井秀一だ。左手の機能が低下したとはいえ、接近戦や頭脳には何ら衰えのない、あれだけの能力を持った男を、ただ放っておくのはあまりにも勿体なさすぎる。人材は有効に適所に配置せよと。

「適役だっていうんですよ。まあ僕もさすがに現役を退くつもりはありませんし。現場に出られないにしろ、日本を守るためにはばりばり働くつもりですから、彼女一人に構ってはいられませんしね。」

 灰原は少し考え込んだ。組織での銃撃戦が、赤井秀一の左手に欠陥を生んだことは知っている。だが、それでも。

「あの人が現役を退くということ?本当に?」

「意思は固いようですよ。あんなのにそこら辺をふらつかれちゃ、たまったもんじゃないですから、まあ、ジェイムズ・ブラックの提案に概ね僕は賛成です。しかし秘密裏に保護観察下に置くとなるといろいろ問題がありましてね」

「公的機関の利用は望めない、当然病院にもかかれない、ってわけね。……まあいいわ。私もちょうど、この先やることがなくてどうしようかと思っていたところだから。」

「APTX4869の研究は?」

「材料がないんだから、今まで通り地道に進めるしかないわよ」

「では、」

「ええ、引き受けてあげるわ―私だって、いろいろと決着をつけなくちゃならないもの」

「おいおい考えればいいことですよ。僕にできることなら何でも言ってください」

 降谷はにこりと笑って灰原に手を差し出した。
 灰原はつんと澄ました表情で少し間を置き、降谷を待たせてから、それでもまだ手が下げられないのを見てようやく手を出した。
 降谷の褐色色の大きな手と、灰原の白く小さな子どもの手が、音もなく交わる。

「交渉成立、ですね」

「あまりよろしくしたくはないけれど。」

「心外ですね。僕だっていろいろ我慢して、この手段を取るんですよ」

「私が知ったことじゃないわ。」

 胡散臭さを隠そうともしない降谷の笑みと、つんと澄ました少女の瞳は、どちらも少し不安げで、それを隠しながらも、確かにこれから先のことを見据えていた。



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