蝕まれた懐かしさ

―ナマエ、」

「えっと……………」

 恐る恐るナマエの名を口にした、自分より年下の少女の名を、ナマエは知らなかった。

 自分が“記憶喪失”になってしまっているというのはもう聞いた。この子も、本当は知っている人なのだろうか。……自分が6年分の記憶をなくしているなんて、いまだに信じられないけれど。でも確かに背は伸びているし、あちこちに知らない傷はあるし、なんだか声も違っているような気がする。誰か別の人間の体に入っているみたいな気分だ。
 目の前の年下の少女は、小さくため息をついた。

「灰原哀よ」

 ハイバラアイ。
 その名を聞いた瞬間、なにか、ぞわりとしたものが胸の奥を這い上がった。そして、目の前の彼女の顔が、さまざまな表情が、まるでパラパラとアルバムをめくるように思い浮かべられることに気が付いた。アルバムをというより、まるで

「……っ」

「いいの。無理に思い出そうとしなくて。……アップルパイを持ってきたわ。あなた好きだった―きっと好きだと思うから。食べましょう。お皿出して」

「あ……う、うん……」

 なんだろう、この子。すごく年下のはずなのに、すごくお姉さんぽい。思わず言われた通りにしてしまった。でも、年下だから敬語は使わなくてもいいだろう。本当は、最近やっとなめらかに使えるようになったばかりの敬語を使うのは、とても疲れることだった。尊敬語と謙譲語を何度も間違えてしまうし、自分の言葉に尊敬語を使ったり、何と言えばいいかわからなくて詰まってしまったりして。それなのに周りの人には、もう敬語が使えてえらいのね、とか、口が覚えているのね、なんて笑われて。
 だから少し、ほっとした。

「お湯は?ある?」

「うん……」

「ああ、いいわよ後は座ってて。」

「うん……」

 ぼうっとしている間に、彼女はてきぱきと支度をした。
 こんな、に小さいのに、しっかりしてるんだな。

「ねえ、あの、えっと……アイ、ちゃん?」

「…………」

「あ、ごめん、えーと」

「…………いえ。いいわ」

「……アイちゃん、は、……ひとりで来た?」

「心配しないで。外に保護者を待たせているから」

「え……」

「本当はもっとみんな来たがっていたけど、一度に来たらあなたが混乱するだろうと思って。……もし嫌じゃないなら中に呼んであげてくれるかしら?」

「あ、うん、いい……よ」

 そうして入ってきた人間は、とても衝撃的な容姿をしていた。主に頭髪と鼻が。

「アトムの、ハカセだ……」

 いや、違う。あのアニメじゃない。あのアニメじゃなくて

「アトム?博士の専攻は原子じゃないはずだけど。でもよく博士って分かったわね」

「久しぶりじゃのう、ナマエくん」

「お、お久しぶりです…?」

 困惑しつつも挨拶を返すと、相手も困惑するのが分かった。なぜだろう。ナマエとしては、記憶がないことを差し引いても、そこまで普段と変わった態度を取っているつもりはないのに。もしかして普段の私はもっと、違う態度だったのだろうか。

「はい、どうぞ」

 渡されたアップルパイは、どうやら手作りらしい。甘いものは久しぶりに食べる気がする。病院食のおやつは砂糖も油分も控えめで、今日の蒸しパンなど、パンなのか卵焼きなのか分からなかったくらいだ。
 少しわくわくしながらひとくちかじって、口じゅうに広がった香りに、
 ナマエは、

「うそだ」

 小さく呟いて、なんだか胸の奥がずきりと痛んで、急にそれ以上パイを食べられなくなった。

「わたし、これ、きらいだもん……」

「え?」

「なんで?なんで……これ……」

 ジンジャーの香りと、レーズンの代わりの煮豆が入ったアップルパイ。どこにも売っていない、これは、ナマエの祖母がよく作ってくれたものだ。
 本当は、しょうがの香りがするのが少し好きじゃなかった。レーズンもきらいだったけれど煮豆はもっと嫌だった。いつも、ふつうのアップルパイがいいと言って駄々をこねた。でも行くたびにいつもそれしかおやつがなくて、仕方なく食べていた―何度も、何度も食べた。
 胸の奥が、ぎりぎりと締め付けられるようだった。分からない。どうしてこんなに苦しいのかが。どうして目の前の二人をもうずっと前から、……それこそ、記憶をなくす前の最後の記憶よりももっとずっと前から、知っているような気がするのかも。

「落ち着いて、ナマエ、落ち着いて―」

「ナマエくん―」

 二人の声が遠くに行った。

 もう誰にも会いたくないよ。
 この世界は、彼のでしょう、ねえ、そうだ、あのシルエット――――名探偵、コナン。



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