裏切り者の抵抗
ナマエを規定するものはナマエではない。六年前からそうだった。でなければ疾うにナマエは壊れていた。
それは酷く無責任で臆病で身勝手なことだったけれど。
ナマエを規定するものからナマエは逃げた。新たに手に入れたご主人サマは前のより優しかったけれど、前のご主人サマのように圧倒的に絶対的に鮮烈にナマエを規定してくれはしなかったので、
だから、
ナマエは、
(………志保さんが、ジンに、捕まえられている?)
霞む、翳む、翳る、陰る、視界。
カッと燃え上がる意思。思い。意思なき獣などでは決してないナマエの 感情。
(ジンが、志保さんに、触れている、)
子どもの姿をしたあの柔らかな皮膚の下に、彼女を形作るものの一部が、全身に血液を運ぶ動脈が、その優秀な頭脳と心臓を結ぶ脊椎が、
存在することを。ナマエは知っていた。
(お前なんかに、志保さんをやるもんか、細胞の欠片ひとつでもくれてやるもんか)
嗚呼。嗚呼。狂うのが遅すぎた。マッドドッグのくせに。狂犬なのに。
今作戦を離れて勝手なことをするのは得策じゃないとナマエは知っていた。ナマエの新しいご主人サマだって怒るだろう。ほら、怖い顔をしてこっちを見ている。
きっとナマエが作戦の通りに動けば、新しいご主人サマは古いご主人サマを制圧してくれるだろう。志保だって無事に解放されるだろう。その首元に、痣くらいは残るかもしれないが。
「……ナマエ?」
だけど、だけど、だけど、
そんなことは我慢がならなかった。ジンがこれ以上志保に触れているのも、ジンと赤井がナマエをただの無力で愚かな、いいように支配できる犬だと思い込んでいるのも、志保を守るのが赤井であるという事実も。志保の首に痣一つ残るのも、我慢ならなかった。
…誰の目的が何であれ、私は私の今したいことをする。それができるのよ。なぜなら私は人間だから。組織の壊滅のための最小限の犠牲ではなく、彼女ひとりが守られればそれでいい、私はそのために消えたっていい、消えればいい、消えてしまいたい。
ジンに一歩、近づいた。この男だって、単純だ。拾った私が全て自分の思い通りになると思っている。私は人間なのに。一個の意思を持った人間なのに。私が支配を許さない限り、誰も私を支配できやしないのに。
――――ばかね、ジン。
バチン!
スイッチを押すと、電気が落ちた。よかった。ちゃんとできた。
だいじょうぶ、志保さん、怖がらなくていいからね。
マッドドッグは、今、狂うから。もうあなたを怖がらせることも苛むこともないから。物語の異分子は、不確定要素は、もう、消えてもいいから。