それぞれの思い
「……はじめまして、山田ナマエです」
その場で走り出して逃げ出してしまわなかったのは奇跡と言える。…逃げ出す勇気もなかっただけ、と言われてしまえばそれまでだが。
テーブル席に案内された。ナマエはコーヒーだけ頼んで、それとなく安室の様子を窺っていた。横に座った園子が、
「何よぉ。やっぱり気になってるんじゃない。来てよかったでしょ?ね?」
とナマエをこづいた。
「…そんなんじゃないよ」
気になってるといえばこの上なく気になってはいるかもしれないが。
*
家に帰って一人になった部屋で。
…祖父母はたいていどこかに旅行に行っている。実質ナマエはこの家に一人切り。
ナマエは声なく絶叫した。手あたり次第手に触れたものを投げ散らし、壁に拳を叩きつけ、漏れ出る叫びを枕に吸わせた。
――――何で、どうして、笑えるの。なぜ笑っているの。太郎を殺したくせに。正義を掲げながら太郎を殺したくせに。許さない。許さない。…許せない。
大切な人を殺した誰かへの恨みがこんなに深いものだとは知らなかった。それほどまでに太郎への気持ちが大きかったのか、あるいはこれほどまでにナマエの心が未熟なのか。…後者なのかもしれない。ただのナマエの弱さなのかもしれない。
「……なんで…っ」
涙があふれた。もうどれだけ泣いたか分からない。それすら腹立たしかった。どうして安室透のためなんかに泣かなきゃいけないの。どうせなら太郎のことを思って、太郎との楽しかった記憶を懐かしんで泣きたいのに、どうしてあいつへの恨みなんていう最低な感情の為に泣いているの。涙なんか出るな、出るな、飲み込め。
「……うっ、ううっ、うああああああぁああっ」
向こうで31年、ここで12年、計43年。それだけの年月を生きても、精神が成熟するには足りないらしい。そんなことを思うと盛大に自分を嘲りたくなった。
*
安室透は彼女を知らない。安室透というキャラクターを作るときに叩き込んだ対人データの中に、彼女はいない。だから初対面としての対応以外に選択肢はない。
安室透がその選択を間違えたことはなかったのに、
――これまでうまくやってきたのに。
彼女を一目見た時、記憶のどこかに引っかかった微かな何かがじくりと痛んだ。
今まで他人なんて数えきれないくらい傷つけてきていて、いちいち全部覚えてなんていなかったけれど、彼女のことは直ぐに思い出した。罪もないのに殺した彼の、最期を看取らせてしまった幼い少女。
公安での仕事の時にこっそり彼女のことは調べていた。山田太郎のことも。降谷零のパソコンのデータベースには、二人の情報がしっかり入っている。
(
――――だからって、“こんなこと”で感情を乱してたまるか。)
そう思ったから降谷零は愛想よく安室透を演じ切って見せた。彼女の反応からして、恐らく向こうもこっちを認識しているのだろう。本人と思ったのか、似ている別人と思ったのかは分からないが。あの場で掴みかかられないだけ僥倖だったのかもしれない。そうしたら別人のふりをして突き放さなければならなかったから。
僕があの時彼を殺したバーボンであることに感付いてはいるが、安室透があの件をなかったことにしていることにも感付いている、そんなところだろう。
(忘れていてくれたら、なんて)
それこそ甘い望みだった。大切な人を目の前で他人に殺されて、忘れられるはずもない。あの出来事が彼女の心に傷を負わせてないといいのだが、なんてささやかな願いも、当然甘すぎた。
「だけど、今ここで、立ち止まるわけにはいかないんだ……!」
死んでしまった仲間――――スコッチのためにも。組織に潜入している間に殺してしまった他の人間のためにも。
*
数日後のポアロにて。
「ねえ、安室さん」
「ん?何だい、コナン君」
「……ナマエさん、具合悪そうだったね。」
「………ナマエさん?」
思い出すのに時間がかかった、というふりをして、安室は少し考える仕草を見せた。
「ああ!蘭さんと園子さんと一緒に来ていた中学生の女の子だね。…どうしてそんなこと僕に聞くんだい?」
「お互い知っているみたいな様子だったから。」
「まさか。この間が初めまして、だったよ」
「本当に?」
コナンは真っ直ぐに安室を見た。安室も真っ直ぐにコナンの目を見返した。
「本当だよ。」
「…………そっか。」
コナンは椅子からぴょん、と下りて立ち上がった。
「ボク、ナマエさんとお友達になりたいなーって思ってるんだ。」
「……そう。お友達になって、いろいろ話をするのかい?」
「うん!」
「そっか。コナン君は年上が好みだったんだね。そういえば蘭さんだって高校生だ」
「違うよー」
からかうように安室が言うと、コナンも照れくさそうに返事した。
何て滑稽な腹の探り合い。
「……そっか。じゃあ、応援するよ」
「本当?」
「本当だよ」
「じゃあ、約束ね」
「うん、約束」
「それじゃあ特別に、ナマエさんからいろいろ聞けたら、安室さんにも教えてあげるね」
内緒話のようにこっそり囁いて、コナンは店を出て行ってしまった。残された安室は硬く拳を握りしめた。
「…全く、恐ろしい子だなあ。」
からんからん、とドアの開閉を告げるベルの余韻が響いた。