ポーカーフェイスの戦い


私は漫画を読むのが好きだった。
 有名作品は片っ端から読んでいるし、好きな作品は何度だって読み返す。最近は『鬼滅の刃』が大好きで、中でも煉獄杏寿郎というキャラクターに心酔している。
 そして目の前の彼女は、どう見ても『鬼滅の刃』に登場する胡蝶しのぶという人物だった。
 紫がかった髪の色。アンニュイさを湛えた瞳。笑顔という無表情を形作る口許の弧。隊服に纏う蝶の翅を模した羽織。
 あらためて彼女と向き合う。やはり、見紛うことなくしのぶさんだ。
「ずいぶんと変わったお召し物ですね。都会ではそういった服装が流行っているのでしょうか」
 ワンピース姿の私を、彼女は鈴を転がしながらそう評した。
 恐らくこの現象は、と私は想像を巡らせる。
 漫画好きな私は数多くのファンサイトを回っており、いわゆる二次創作と言われる小説や漫画にはそこそこの知識があった。これは恐らく、中でも有名な「異世界トリップ」という類の現象に違いない。
 今まで読んだ架空だと思っていた物語も、本当は実体験に基づいて書かれたものなのだろうか、とつい場違いなことを考えてしまう。
「実は私は、この世界の人間ではなくて……」
 よく読んだ異世界トリップものの主役になりきり、恐る恐る言葉を発する。大抵の物語では、こうした発言によりご都合主義展開が待っているはずだからだ。借り物の言葉が口の中に張り付いた。
「……この世界の人間ではないとは、どういうことでしょうか。もしかして頭でも打たれましたか?」
「いえ、体は健康なんですけど……」
「困りましたね。とても正気とは思えない発言です」
 私の発言に、しのぶさんは綺麗に微笑んで残虐な言葉を見舞った。どうやら、私にご都合主義展開は待っていないようだ。
「ごめんなさい、言葉を間違えました。この世界というか、この地方の人間ではないといいますか……そう、仰る通り、都会の方から来ました」
「そうでしたか。ここで、一体何を?」
「ええと……」
 出身については何とかうまく誤魔化せたが、そもそもここはどこなのだろう。私は本当に何をしているのだろう。視線だけを彷徨わせる。
 初めて見るはずなのに、見慣れた建物。疑惑が確信に変わる瞬間だった。
――間違いない、やはりここは蝶屋敷だ。
 私はどういうわけか、蝶屋敷の敷地内に倒れていたらしい。何故ここにいるかなんて、自分が一番知りたい。説明なんてできない。
 不意に動かした右手に何かがぶつかった。慌てて見遣ると、薬や体温計の入った買い物かごがそのまま置いてあった。これは。
 まさか、病院ごとトリップした? 私はその可能性を考えたものの、瞬時に否定した。いや、恐らく今のこの事象を考えるなら、「私の体に触れていたものと一緒にトリップしてきた」が正解だ。近くに私の鞄も落ちている。
 これだ。瞬時に頭を回転させて物語を組み上げると、私は意を決して息を吸った。
「実は私は、少し遠方で薬の行商をしております。ご近所の方に、よくこちらに怪我人や病人が運び込まれてくるとうかがったもので、何かお力になれないかと」
 私は嘘八百を並べ立てた。しのぶさんは微笑んだままこちらを見ている。物語中で善逸が評していた通り、「何を考えているのかわからない」。不気味な笑顔に思わず気圧されそうになるが、私も病院勤めで身に着けた愛想笑いという名のポーカーフェイスで応戦する。狼狽えてはならない。
 しばらく膠着状態が続いたため、私は観念して駄目押しの一言を放った。
「……勝手に入ってしまったのは、ごめんなさい。つい綺麗な蝶に誘われてしまいました」
「それは、本当ですか?」
 咄嗟に頷こうとしてすぐにやめた。しのぶさんの目が一瞬すっと細められるのを見たからだ。彼女の腰元からのカチャリという金属音。それが何かは見なくともわかる。
 しのぶさんの言う「それ」とは、「どれ」のことだろうか。いや、どれであっても全て嘘なのだが。安易に頷いていいのか?
 この人は、敵と判断したら容赦ない人のはず。たった今も、隠そうともしていない日輪刀に手をかけたところだ。一方で、目的を達成するためなら手段を選ばない人でもある。事実、作中でも宿敵であるはずの鬼の珠世様と協力していた。
 それならば、今私がとるべき行動は。
「……信用していただけませんか?」
 私は質問に答えず慎重に切り返した。今この場で大切なのは「真実」ではない。彼女にとって私が「無益」であるか「有益」であるかが重要なのだ。
「今はどんな症状の方がいらっしゃいますか? もし頭痛の方がいらっしゃったらこちらの薬を二錠、食後に与えてください。胃が悪い方にはこちらの粉薬を。あとは……打ち身の方にはこちらの膏薬がいいですね」
「……こちらは何ですか?」
 微笑んだまま別の薬を指差したしのぶさんが問う。私の背中を冷や汗が伝った。
「これも頭痛薬です。先ほどのもので治らなければこちらをお飲みください。こちらの方がより強い効果が得られます」
「では、あちらは?」
「咳止めです。副作用としてぼんやりしてしまう方もいらっしゃいます。車の運転……いえ、集中力が必要な場面では避けた方が無難です」
「こちらは?」
 しのぶさんが緊急抜き打ちチェックを続けた。ランダムに薬を指差し、私を試している。時折、答えたはずの薬について再度問われることもあった。矛盾がないかを確認しているのだろう。緊張のあまり、その白魚のような手に切り捨てられる空想が何度も頭を過ぎる。
 私は知っている知識を総動員してこの試験の突破に努めた。不合格イコール、死だ。間違いは許されない。
 やがて満足したのか、しのぶさんは薬を指差していた右手を下した。私は合格が告げられるのを待っていた。処刑宣告は聞きたくない。
永いような一瞬の後、今度は私の眼前に指先が突き付けられる。目を潰されるのかと思いぎょっとして身を引いたが、そうではなかった。
「あなたのお名前は何ですか?」
 それは遠回しな合格通知だった。
「苗字名前です」
 処刑を回避した私は深く息を吐き、ようやく堂々と答える。今日初めて本心からしのぶさんに微笑んだ。
「名前さん、ですね。それでは 膏薬と消毒薬、それから強い方の頭痛薬、咳止め、粉薬でない方の胃薬をいただきましょう」
「かしこまりました」
 膏薬と消毒薬を二本ずつと、飲み薬各種十八錠をしのぶさんに手渡す。飲み薬は一日六錠を三日分の計算だ。
 受け取る傷だらけの掌を見て、少しだけ暗い気持ちになった。彼女はこんなに若いのに屋敷を一生懸命守っている。今の厳しさも責任感ゆえのことだと思うと、文句など言えるはずもなかった。
「おいくらでしょうか?」
「え、と……」
 商売として当然の流れなのに、私は今度こそ度肝を抜かれた。薬の値段を聞かれている。
 面倒なので、いっそ、タダにしてしまおうか? いや、薬の行商を名乗っている今、タダで薬を譲り渡すことは再びの不信感につながる。
 そもそも、大正時代は「円」でいいんだっけ。それとも銭? 他に単位があったっけ? ドル? セント? フラン? 一円って、今でいういくら? 適切な値段がわからない。
 考えた末に、私は指を五本立てた。五銭でも五円でも五百円でも、きっと適切と思われる額を差し出してくれるはずだ。
 微笑んだしのぶさんは、期待通り私の掌に銀貨を一枚握らせた。五十銭と書かれている。これほどの薬の量なら五十銭程度が適切、ということを覚えておこう。同時に、釣銭が発生しなかったことに安堵した。
 私は地面に散らばったままだった薬を苦労して拾い集め、しのぶさんに頭を下げた。
「皆さまをお大事に。それでは、失礼致します」
 蝶屋敷を出る前に、もう一度振り返り彼女の姿を見遣る。
「またいらしてくださいね」
 微笑んだしのぶさんのその笑みは、本心からのように思えた。ほっとした私は再び軽く頭を下げた。何だか大きな試練を突破した気がする。







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