楽園へようこそ


私は最近、仕事前に近所の神社を散歩することにしていた。
 別に信心深いわけでもないし、熱心に神頼みをするわけでもない。ただ、3月頃にこの神社に咲いた杏の花がとても綺麗で、春の風と共に荒んだ心を癒してくれた。風が強い日も雨の日も頑張って咲いていた姿には心を打たれたほどだ。杏の季節が終わっても、一度始めた習慣を止めるのも気が引けて、そのまま神社に通い詰めている。なんだかんだで今はもう五月になっていた。
 ベンチに腰掛け、今はすっかり新緑をまとった杏の木を見上げて息を吐く。少し暑いくらいの陽気に自分の吐息を混ぜ合わせる。雲一つない快晴に私の心が曇る。自分の気持ちと正反対に清々しくて、汚れを知らない底抜けのブルーが憎らしかった。
「綺麗だなぁ」
 自然を美しく感じられるのは、まだ人間としての心を失っていない証拠……だろうか?
看護師として働いて早数年。認めたくはなかったが、徐々に人の死に慣れ始めている。そんな自分が怖い。一体、いつから私はこうなったんだっけ? ため息を青空に吐きかけながら思い返してみる。
 あれは、看護師になったばかりの頃だった。懇意にしていた患者の死に落ち込んでは涙に暮れていた。いちいち泣いてばかりで、よく先輩や婦長に怒られていたっけ。泣いている場合じゃないのよ、と何度言われたことか。悲しみ終わるのなんて待っていられないのよ、と。
 それが、最近では私も先輩として立ち振る舞うようになって、逆に新米看護師に同じようなことを指導しているではないか。泣いている場合じゃないの。仕事や時間は待ってはくれないのよ、と。
 だけど、何だか疲れてしまった。心が悲鳴を上げている。ずっと心が冷えている。
言うことを聞かない患者たち。陰で人を陥れようと画策する看護師長。出来レースの院内政治。再診料で荒稼ぎするやぶ医者。
 思い返すだけで怒りと虚しさがこみあげてくる。私は何のために働いているのだろう。
その怒りに任せて勢い良く立ち上がり、私は賽銭箱へと駆けた。もう全てにうんざりしていた。鞄から財布を取り出し、真っ逆さまにして有り金全部をぶちまける。金と銀が鈍く光を反射してバラバラと落ちた。ひらひらと落ちる紙幣も見事に箱の中に着地する。本坪鈴を無遠慮に揺すった。耳障りに響くガラガラという音。鴉が嗜めるように一声鳴いた。キッと睨みつけて投げつけるように鈴を放り出す。やがて余韻を残して辺りに静寂が戻る。息を吸っては吐いての深呼吸。神様、神様、神様。私はもううんざりしています。今だけ都合よく信心深い私の願いを聞いてください。
「……神様、お願いします。どうかこんな日々からはおさらばできますように」
 思い切って口にしてみても、もちろん神様からの返事はない。私は唇を噛んだ。気持ちがぐちゃぐちゃだ。こんなふざけた真似をして私は何を願っているというのだろう。具体的な願いもないくせに、神様だって叶えられはしないだろう。
「神様っ! 私を、助けてください」
 賽銭箱を拳で数回叩いた。やはり、神様からの返事はない。
「……なんてね。あーあ、私、バカみたい」
ストレスを神で発散するという罰当たりな行為。どうせ願いなんて叶わない。別に構わない。何も起こらないことなんてわかっている。ただ、ちょっとドラマチックなことがしてみたくなっただけ。
 当たり前のことに驚く必要もなく、気が済んだ私はふっと自嘲してからぐっと拳を握りしめた。いきなりこんな行動をとるなんてちょっと不安定になってるな、と少しの反省。肩をすくめる。
今から行っても余裕で勤務開始に間に合う。もはや働く意味を見失った病院へと歩き出さなくては。神社を出る時に鳥居で振り返り一礼する。杏の木の強くて美しい姿に今日も勇気をもらう。視線を移すと、視界の端に見たこともない果実を見つけた。あれは、一体?
 近寄ってよく見てみる。ギリギリ神社の敷地から道路に向かって伸びている竹が、無数の白みがかった実をつけている。竹に実が生るというのは初耳だった。私は左手でその果実を撫でながら、すぐに手元のスマートホンで検索をかける。
 どうやらそれは、竹の果実ではなく蕾らしかった。もっとも、竹が花を咲かせるということ自体も知らなかったのだが。
検索画面には不穏な文字がいくつも並んでいた。
 滅多に咲かない竹の花。百二十年周期という説も。不吉の象徴。大きな災害も?
 私は慌てて蕾から手を引き、すぐにハンカチで指先を拭った。踵を返して自宅から徒歩圏内の勤務先へと急ぐ。
二十分も歩くともう間もなく病院が見えてくる。勤務先をこの病院に決めた要因はいくつもあった。例えば、大正以前からあった診療所に似た建物を前身とした歴史ある大病院だから。尊敬する著名な医師が勤めているから。給料が高いから。
看護師になった当初、私もそれなりに希望とやる気が満ちていた。だけどそんなものはたった数年で霞んでしまう。この病院にだって、前身を建てたという人の志なんか一片たりとも残っていないことだろう。
 誰ともすれ違わずに通用口から入る。いつも通りナースステーションに向かうが、不可思議なことに誰とも行き会わない。ナースステーションの看護師も全員出払っていた。病院内は妙に静かで変な雰囲気だ。あれ、病院潰れたんだっけ? なんてありもしない想像をする。
辺りを見回すと、ナースステーションの床に買い物かごが置いてあるのを見つけた。危ないな、と思い近寄って中身を確認する。薬剤師が置いて行ったのだろうか、解熱剤や頭痛薬、包帯、消毒液、湿布、割引販売している体温計……などなどが大量に入っていた。これから薬品管理室に運ぶところなのかもしれない。薬剤師が看護師と話している内に忘れて行ってしまったということもありえる。
 思案していると、一瞬、クラっとした。
 立ち眩みだ。
 私は手近な机に両手をついてやり過ごした。しかし、立ち眩みは頻発し、おさまる様子がない。
 違う。これは。
「地震……?」
 まるで正解だとでもいうように。私の呟きの直後、揺れは一気に激しくなった。私は揺れに耐え切れず、買い物かごへ覆い被さるようにして床に倒れこんだ。痛みを覚悟していたが、運よく私と買い物かごの間に鞄が入り込んでくれたようだ。プラスチックの痛みは感じない。
 どれくらいが経った頃か、私は恐る恐る目を開けた。
 一転して、空の青。綺麗な綺麗なスカイブルー。そう、今日見たばかりの空の色。
 よろよろと体を起こし、ぼんやり辺りを見回す。地震で病院が全壊したのだろうか。いや、その規模の地震なら、私も建物と一緒に潰れていなくてはおかしい。
 視界に入るのは立派な平屋だが、全体的に建物の雰囲気が古めかしい印象だ。創りが現代とは明らかに異なる。どこが、とは明確に答えられない。生憎、私は建築を生業にはしていない。
ここは一体? もしかして記憶が飛んでいる?
 私は緊張して無意識に荒くなった呼吸に気付かないまま、思考を巡らせた。
「もしもーし?」
 大して回っていない思考が、鈴を転がすような声でかき消される。涼やかな声に視線を移すと、見事な蝶――の髪飾り。紫が似合うその女性に、私の息が一瞬止まった。
「大丈夫ですか?」
「……しっ……」
 カラカラに乾いたのどが私の言葉をギリギリで堰き止めた。何で。どうしてここに、彼女が。
 小首を傾げた彼女は、胡蝶しのぶその人だった。






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