君は夢の中


 

 いつの間にか眠っていたようだ。まどろみの中で窓から外を見ると、もうすっかり暗くなっていた。今何時だろう。
 もぞもぞと動いて背を向けたまま杏寿郎さんに声をかけた。眠る前のことを思い返せば今乱れてしまっている浴衣くらいなんてことないが、やはり顔を合わせるのは照れくさい。
「杏寿郎さん、もう起きてますか?」
 返事はない。かなり盛り上がってしまったから、杏寿郎さんもまだ眠っているのだろう。
「杏寿郎さんももうお目覚めなら、一緒に帰りませんか?」
 また返事はなかった。いつもはあんなにはきはきした様子なのに、意外に寝起きは悪いんだな、と思いながら恥ずかしさを押し殺して渋々寝返りを打つ。
「杏寿郎さ……」
――杏寿郎さんの姿はなかった。
「……え」
 一気に覚醒する。私はバッと布団を吹っ飛ばし、立ち上がって部屋中を見回した。そんなに広くない部屋だ、見なくてもわかる。杏寿郎さんは、もういない。
「どうして……」
 愕然として膝を折る。心臓が嫌な音を立てていた。彼は既に、黄泉の旅路へと無限列車で発ってしまった。
「嘘だよ、杏寿郎さん……だって、だって、あんなに愛してるって……」
 私は顔を覆って嗚咽を漏らした。どうして、どうして、と独りの部屋でこぼしてみても、誰もその疑問に答えてはくれない。
 フラフラと失意のどん底から立ち上がる。あんなに覚悟したのに、やっぱり煉獄さんを止めてしまいたくなる。一度煉獄家に帰ってみよう。いや、先に蝶屋敷に行くべき? もしかしたら炭治郎たちがまだいるかもしれない。でも、会ってどうするというのだろう。彼らに会ったところでもう煉獄さんは列車に乗っているかもしれないのに。
 私が慌てて着替えたところで、着物の裾から何かが落ちた。着替えている時に何か引っ掛けただろうか、と慌ててしゃがみこむ。紙袋だった。私のだっただろうか、と訝しく思いながら中を開いた。
「これ……!」
 つい数か月前の出来事が一瞬にして思い起こされる。一気に涙が溢れた。
――古来、男性から女性へ櫛を贈るのは求婚の意味合いがあるらしいな。
――そうなんですか? むしろ、苦しいとか死とかを連想させるからダメって聞いたことがあって……。
――都会では全く逆の意味なのか。これは面白い!
 あの時の白木の櫛だった。
「ちゃんと、あなたの手から渡してよ……」
 私は唇をぐっと噛んで涙を拭った。櫛を大切にしまってから駆け出す。煉獄家でもない、蝶屋敷でもない、無限列車の出発する駅へと。
 辺りは暗がり。遠くの空に星明り。零れる祈りは、鬼狩りへ。
「待って……行かないで……」
 神様、神様。もう私の願いなんて一生何も叶わなくていい。今だけ、この願いだけ、お願いですから叶えてください。
 あの列車に間に合って。私に彼を止めさせて。
「神様……お願いします」
 どうか間に合って。
 賑わいと喧騒を縫って必死に走った。足が縺れる。息が切れる。喉が痛い。視界が歪む。駅舎が見える。ああ、既に列車が来てしまっている。待って、待って。まだ行かないで。
「杏寿郎さん!」
 願いも虚しく列車が汽笛を上げる。のろのろと動き出す黒い鉄を、それでも私は必死に追った。
「……待って、待ってよ……! まってぇっ……」
 待って。待って。……行かないで。
「ま……って……」
 だけど彼はもう。
「……って…………いって、らっしゃい……」
 私は足を止めてガクリと膝をついた。両手で顔を覆って汽笛の音をじっと聞いた。嗚咽に混じってだんだんと小さくなるその音が、彼の残りの命を運んで行ってしまう。
 行ってしまった。愛しいあの人。結局、私の行動は最後まで定まらなくて、はじめからわかっていたのは、彼にどうしようもなく焦がれているということだけ。そして、自分がこの上なく無力だということだけ。覚悟なんて全然できてなかった。
 汽笛の音はとうに止んでいた。辺りに喧騒が舞い戻り、道端に座り込んだままの私をいくつもの好奇の視線が捉える。掌から滲んだ血をハンカチで拭った。白い布地に赤が染み込む。私はそのままずっと座り込んでいた。瑠火さまのお着物が汚れてしまうということに気を回せる余裕はなかった。ただ、とっくに姿を消した列車の行く末を見つめていた。
 どうかこんな日々からおさらばできますように、と前の世界で神社に祈ったことがずいぶん昔に感じられた。この世界に来てみて、日常の幸せを何度噛みしめたことか。何度、こんな日が続けばいいと思ったことか。幾度、ささやかな幸せを大切にしたいと願ったことか。
 もう既に愛しいあの平凡で幸せな日常が戻ってくるのなら、何度でも神に祈りを捧げるだろう。
 私はハッとしてゆっくりと立ち上がり、のろのろと歩を進めた。それでもだんだんと早くなる足を必死で動かす。
 向かうは、あの神社だ。
 何度も転びそうになりながら、息を切らして神社に向かう。鳥居に一礼し、そのまま中に駆け込んだ。私が最後にできること。
 彼の名前の由来となった杏の木にも頭を下げて、賽銭箱に財布の中身をぶちまけた。
「神様……どうか煉獄さんを守ってください」
 まだ諦めない。絶対、諦めない。神様でも何でもいい。誰でもいい。どうか煉獄さんが、少しでも無事に帰ってきますように。何度でも神に祈りを捧げよう。彼が戻るのなら、この身を切っても構わない。私は何でも差し出すだろう。きっといつまででも待つだろう。
「どうしたんだ、こんなところで」
 そう言って、彼が笑うのを待つだろう。

 




×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -