お手を拝借


 

 翌朝、少し遅く起きた私は煉獄さんと顔を合わせることなく蝶屋敷に向かった。涙で腫れた目はどうにもならなかったけれど、別にどうでもいい気分だった。
「……何があったのですか?」
 私と顔を合わせたしのぶさんは、開口一番、驚きも隠さずにそう言った。
「どう説明していいか。……薬、補充しておきますね。説明書きもファイリング……ええと、ここに綴じておきます」
 地を這うような暗い声で投げやりに返答する。しのぶさんは探るようにもう一度問うた。
「昨日、仲直りできなかったのですか?」
「できなかったというか……煉獄さんが何を考えているかわからないんです。……三番の部屋の患者さんのカル……診療記録はここでいいんでしたっけ?」
「それはこちらでお預かりします。この患者さんは少し困った方なので……何を考えているかわからないというのは?」
「その患者さん、私も手を焼いています。……昨日、煉獄さんに押し倒されて、エロ……アダルト……うーん、大人な展開になりかけました」
「えぇっ!?」
 仕事の手を休めなかったしのぶさんが初めて冷静さを失った。その声量に私も思わずぎょっとする。
「びっくりさせないでくださいよ!」
「それはこっちが言いたいですよ! なぜ、昨日の話の流れからそうなるのですか?」
「私もわからないんです。昨日は、寝る前に煉獄さんが部屋に来て……」
 私は昨夜の出来事を洗いざらい話した。途中、しのぶさんが「それは……」とか「名前さん……」とかいう反応を見せたので、あ、これは私に非があるパターンだな、となんとなく察した。しのぶさんが頭を抱える。
「どうして名前さんはそんなことを言ってしまったのですか? ……ごめんなさい、というよりも、昨日私がしっかり説明しておけばよかったですよね」
「いえ、あの、私、煉獄さんがお店の二階に上がりたがらないのって、鬼殺隊として少しでも早く現場に急行できるようにだと考えていて」
「それでそんなことを言ってしまったのですね。……いいですか、名前さん」
しのぶさんは辺りを見回し、声を落としてから衝撃の事実を告げた。
「蕎麦屋の二階は食事をするところと個室に分かれているところが殆どなんです。そして、主に個室では男女がいかがわしい行為をします。男女で二階に上がったら、殆どがそういった目的です」
「……なんですって」
 つまり、蕎麦屋の二階はラブホみたいなものなのだろう。私は青ざめて昨夜の発言を思い返す。現代風に言い換えるならば、「鬼殺隊でも柱でもラブホに行く権利はありますよ」、「立場なんて気にせずガンガンセックスしましょう」ということだ。
――私、超アバズレ女じゃん!
 寝不足と合わせてよろめいた私を、しのぶさんは気の毒そうに見つめた。
「大丈夫ですよ。煉獄さんはきちんと話せばわかってくれる方です」
「そうでしょうか……」
 盛大にため息を吐き、煉獄さんのことを思う。煉獄さんは私のことを軽い女だと思ったのだろうか。うまく手籠めにできそうだという時に愛を告白したから、急に白けてしまったのだろうか。本気の女は抱けないのだろうか。だとしたら、それはどうして? 鬼殺隊には明日の保障がないから?
「しのぶさんは、もしもあらかじめ死ぬとわかっている任務があったとしたら、断りますか?」
 答えはわかり切っているはずなのに、私は問わずにはいられなかった。以前に煉獄さんにも聞いたな、と頭の隅で思う。
「断りませんよ」
 私の疑問にしのぶさんは即答した。予想していた答にも拘らず、私はしのぶさんに畳みかける。
「どうしてですか? 死ぬことが怖くないんですか?」
「怖いかどうかとは別の話です。私達鬼殺隊には鬼舞辻無惨を滅し、鬼のいない世界を作るという大きな使命があります。それを全うするために必要なことならば、迷いなどありませんよ。きっと、他の柱も隊士も同じ思いのはずです」
「しのぶさん……」
 覚悟が違う。わかっていたことだけれど、現実をあらためて突きつけられた気がした。能天気に恋だの愛だのと騒いでいる私とは住む世界が違う。
「鬼殺隊士を愛するには少しだけそうした覚悟が必要かもしれませんね。私は名前さんには煉獄さんを支えてほしいと思っているんですよ。帰るところがあれば人は強くなれるんです」
「でも、私にはそんな覚悟はないみたいです。きっと煉獄さんが死ぬとわかっている任務があったら止めてしまう」
「それでいいんですよ。それでも任務に行くかどうかは煉獄さんが決めること。名前さんは、ただ煉獄さんを愛して、信じて待ってあげてください」
「……はい」
 そして少しの沈黙の後、しのぶさんは私に優しく告げた。
「今日はそんなに忙しくないので、もうお帰りになっても構いませんよ。お迎えも来ていることですし」
「え?」
 その言葉に顔を上げると、ちょうど煉獄さんが蝶屋敷の入り口に立っているのが見えた。昨夜の出来事を思い出して顔が熱くなる。
「では、あの……今日は失礼します」
「あらあら」
 赤くなった顔を見られて恥ずかしくなる。私は慌てて荷物を手に廊下を進んだ。途中、賑やかな三人組とすれ違う。
「みんな全集中ができるようになって、本当に良かった」
「はんっ! 俺様には楽勝だったぜ!」
「俺、もうやだよ……疲れた、死ぬ……」
 聞き捨てならない台詞に、一気に冷や水を浴びせられた気分になる。私の足はいつの間にか止まっていた。
「あれ、名前さんじゃないですか。こんにちは!」
 いつも通りの満面の笑みで炭治郎が声をかけてくる。彼らの活躍や訓練の状況についてはいつも色々と聞いていたから、たまに顔を合わせては世間話をする程度の仲ではあった。
「こんにちは、炭治郎。……全集中っていうの、できるようになったの?」
 遥かに年下の少年を見据える。にこりともせず、問い詰めるように訊ねた。
「そうなんです! 三人ともできるようになりました!」
「そう、よかったね。おめでとう」
「……あの、何か怒っていますか?」
 さすがに鋭い炭治郎が指摘した。私は引きつった表情で答える。
「怒ってないよ。ただ、ずいぶん早いなって。もっとゆっくりでもいいのに」
「そうですか……?」
 炭治郎が私を訝し気に見る。私が全く祝福していないことを彼はわかっているのだろう。この廊下から外は見えない。彼に煉獄さんの姿は見えていない。残りの二人は言い合いをしながらさっさと先を進んでいく。
 ここで、炭治郎と煉獄さんを引き合わせてはどうか?
 脳内に浮かんだ妙案を、私は一瞬で却下した。もしここで二人を引き合わせたら、ヒノカミ神楽の疑問は一瞬で解決してしまう。そして炭治郎が列車に乗らずにもっと酷い結末になってしまうかもしれない。
「名前さん?」
 何も言わずに突っ立っている私に、炭治郎が心配そうに声をかけた。
間もなく煉獄さんは列車に乗る。覚悟はしていたものの、間近に迫った別れに動じないはずがない。こんなに早く。私はまだ、煉獄さんに何も伝えていない。一緒にいて楽しい、嬉しい、もっと生きなきゃと思ってもらえるほどの時間にはまだ全然足りてない。
「あのね、炭治郎。少しでも多く鍛錬して、少しでも強くなってね」
 小さい子に言い聞かせるように、私は先ほどとは全く矛盾した言葉を炭治郎に贈った。
「もちろんです!」
 純粋に微笑む彼の笑顔には一点の曇りもない。私は彼を信じて言葉を重ねた。
「みんなで協力して、犠牲を出さないように。お願いね」
「名前さん?」
「絶対に誰も死なせないで。私と約束して」
「ど、どうしたんですか?」
 視界が滲んで涙が零れる。炭治郎があたふたしている。こんなに年下の男の子に無理なお願いをして困らせて、私は何をしているんだろう。
「確かに俺は頼りなくて、実力もまだまだです。でも、犠牲を出さないようにとは、いつも思っています。やっぱり、誰かが悲しむのは嫌だから」
「うん」
「早ければ今日にはここを発ちます。またいい報告ができるように頑張ります!」
「うん。じゃあ……またね」
「はい」
 未来はどうなってる? 彼のこの笑顔はどうなる? もしも原作通りの展開なら、と思いながら涙を拭い、私は決意を胸に今度こそ屋敷の入り口に向かって歩き出す。
「煉獄さん。来てくださったんですね」
「……ああ」
 バツが悪そうな表情をしている。こっちの世界に来てから、色んな煉獄さんを見ている。こんな表情もあんな表情も、見たこともない表情もこれからずっと見ていたい。見ていたいのに。
 結局、どんな煉獄さんも、好きだなぁ。
「昨日はごめんなさい。私、蕎麦屋の二階のことよくわかっていなくて。てっきり、煉獄さんは何かあってもすぐにお店を出られるように一階席を好んでいるんだと思っていました。でも今日、それが勘違いだと人から教えてもらって。ちゃんと意味を知りました。本当にごめんなさい」
 私が素直に頭を下げると、煉獄さんも私に向き直った。いつも通りのはきはきした様子に戻る。
「いや、名前が謝ることではない。俺の方こそ申し訳なかった」
「お互い申し訳ないついでに。これから寄りたいところがあるんですが、付き合ってもらえますか?」
「よし、付き合おう! どこに行くんだ?」
 よしきた、とばかりに笑う煉獄さんの表情は、間もなく私の一言で驚きに変わるだろう。
「蕎麦屋の二階」

 




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