絡繰人形


居間の襖をさっと開ける。ゆっくり上半身を起こして三秒後。生まれ変わった私の第一声。
「おはようございます、杏寿郎さん!」
 朝の挨拶は元気に丁寧に溌剌と。笑顔を忘れず礼儀正しく。これが愛される妻の条件、とどこかで何かで話を聞いた。
「おはよう、名前さん。昨日と随分様子が違うようだが」
 昨日とは正反対な私の態度に杏寿郎さんが煎茶を啜りながら戸惑っている。そんなにあからさまに困惑されては、こちらも少々気恥ずかしい。
「私は今日から煉獄名前ですから。苗字名前は昨日で死にました」
「理屈はよくわからんが、元気が一番!」
「名前も呼び捨ててください。夫婦なのですもの」
「では、名前! まずは朝食だ。千寿郎が用意しているぞ」
「私も妻になったからには台所に立つべきでは?」
「構わん。千寿郎が炊事を好むのだ」
 そんな風な朝から、煉獄家の嫁としての初日が始まった。弟の千寿郎くんは私の昨日とは打って変わった態度に目を白黒させていたけれど、やがて穏やかな微笑みを向けてくれるようになった。姉上、と声をかけられればひどくくすぐったい。
 昼過ぎになり、私は杏寿郎さんと街へ出た。人ごみを歩き、他愛ない話をする。あまりに他愛ない話をしすぎて、肝心なことをお互い何も話していなかった。私とどんな条件での結婚と聞いているのか? お仕事は何をされているのか? なぜこんなにも豊かな暮らしをしているのか? うわべだけののどかな散歩が終わりを告げる。
 夜になり、杏寿郎さんがどこかへ出かけようと身支度を整える。私は慌ててその背を追い、玄関口まで見送りに出た。
「こんな夜更けにどちらへ?」
「これから任務なのだ」
「お仕事については、また今度詳しく話してくださいますね」
 ああ、と頷いた杏寿郎さんが私の顎に手を添える。一瞬びくりとするものの、平静を装って微笑んだ。
「名前」
「はい」
「俺は君を愛していない」
「……はい」
「だから今はこれしかできん」
 許してくれ、と囁きながら杏寿郎さんが私の頬に口づける。
 ――驚くほど何の感慨もなかった。
「行ってらっしゃいませ」
 出ていく杏寿郎さんの背に笑顔で手を振り、扉が閉まるのを見届けた。
 そして私は、苗字名前に戻る。
 千寿郎くんもお義父さまも寝静まっている。誰の目も届かなくなれば私は私に戻れる。
 一日過ごしただけでも、杏寿郎さんが悪人でないことはわかる。昨日のような衝撃からの嫌悪感は抱かない。同時に、好意も抱かない。ただの男性。私の戸籍上の夫。ただそれだけ。愛した義勇さんじゃないから。
 彼も私を愛していないなら好都合だ。無理に愛する努力も必要ないだろう。ただ粛々と、この平和な日々を魂の欠けた人形として過ごしていけばいい。
 そして私は今日も死ぬのだ。煉獄名前は夜に死ぬ。朝までの間は本来の苗字名前になる。

 翌朝戻った杏寿郎さんは昼過ぎまで休んでいた。私は屋敷の掃除や庭の手入れをしながら時間を過ごした。実家に戻ってみようか、とも思ったけれどまだ店が再建したという連絡はない。行ってもすることはないだろう。それに、用もないのに出戻るのはあまりに体裁が悪すぎる。庭で鍛錬に励む千寿郎くんをぼんやり眺めて適当に会話をして過ごした。何でも、剣士になりたいのだそうだ。道場にでも勤めたいのかというとどうやら違うらしく、彼は困ったように笑うだけだった。
「兄はまだ何も話していないのですね」
「そうね。まだ嫁いで何日も経っていないし、腰を据えてゆっくりお話しする時間もなかなかないから」
「きっとその内話してくださいます。もう少しの辛抱ですよ」
 それにしても、杏寿郎さんの服装といったら義勇さんとどこか似通っているから困りものだ。まさか鬼殺隊なんて偶然があるはずはないし、警察や軍人等の公僕の類なのだろうか。それならば帯刀していることにも納得がいくというもの。
 しかし正直なところ、私は彼が何をしていようが全く興味がないのだった。悪徳なことをやっていないのであれば何だって構わない。仕事や任務と偽って花街に行こうがどうでもいい。むしろその方が都合がいいとさえ考えている。
 間もなく日が暮れる。義勇さんは今頃どこかで鬼を狩っている頃だろうか。あれから定食屋に来ただろうか。私の結婚を知っただろうか。そしてそれをどう思っただろうか。
「中に戻ろうか」
「はい、姉上」
 少しでも油断すれば苗字名前が顔を出してしまう。私は煉獄家に嫁いだ身。もう彼のことなんて忘れなければ。
 そう思えば思うほど私の胸は焦がれた。

 夕食を終えて後片付けをしていると、杏寿郎さんが私を呼び止めた。
「後で寝室に来てもらえるか」
「わかりました」
 にこりと微笑み皿洗いを続ける。寝室に呼ばれたということは、いよいよそういうことなのだと私の胸が重くなる。たった昨日、愛していないからこれで、と頬に口づけたばかりなのに一足飛びでもう子作り。わかっている。私は煉獄家に嫁いだ身。子作りのために呼ばれた女。
 大丈夫。これから抱かれるのは魂の抜けた人形。全然全く傷つかない。どうということはない。心はずっと義勇さんに抱かれたままだ。
 そう思ってはみても、どこからか沸き上がった震えが私の背筋を駆ける。慌てて自分を抱いたところでこの気持ちが治まることはない。
 面倒なはずの皿洗いが今だけは救いに思えた。あと何十枚洗ったって構わない。寝室に行く時間を一秒でも遅らせられたら。
 もちろんそんな願いが届くはずもなく、皿洗いはいつも通り滞りなく終了する。憂鬱な表情に無理に笑みを湛え、彼の待つ寝室へ向かった。
「お待たせしました」
 襖をすっと開くと、杏寿郎さんが縁側で私を振り返った。手招きして私を隣に誘うと、愛用の羽織を私の肩にかけてくれる。
「春の夜は風が気持ちいいものだ」
「そうですね」
「あの木は秋になれば柿がなるのだ」
「そうですか」
「あの辺りには冬になると花が咲くのだが、名前がわからん。今度調べてくれるだろうか」
「わかりました」
 夜風に吹かれて取り留めもない会話を続ける。散歩の時と同じうわべだけの会話。そう思っていたが、もしかしたら彼はこうした話で私の心を解きほぐそうとしてくれているのではないか。そう思い当たってしまえば無下にすることなんて到底できずに、熱心に相槌を打ってしまう。
「名前は全く笑わないのだな」
 どれくらいが経った頃か、杏寿郎さんは寂し気に呟いた。
「……笑っていますよ」
「確かに微笑んではいるが、本心からの笑顔ではないのだろう。初日の君の方がよほど君らしかった」
「不快でしたか?」
「そうではないのだ」
 杏寿郎さんは言いにくそうに視線をさまよわせた。これこそらしくないのでは、と杏寿郎さんのことなど何も知らない私が思うほどに彼の態度は不自然に見えた。
「昨日、名前を愛していないと言った」
「はい」
「君も俺を愛していないのだろう」
「いいえ」
「無理はしなくていい」
 今、私たちは未来を形作る大切な話をしようとしているのだ。そこに嘘は良くないな、と素直に思う。私も少しだけ迷って口を開いた。
「私は煉獄家の嫁として杏寿郎さんを愛するように努めます」
 あなたを愛していない、とは言えずに努力目標を掲げる。杏寿郎さんはうむ、と頷いた。
「俺も同じ気持ちだ。今は名前を愛していない。ただ、せっかく夫婦になったのだ。互いに愛し尊重するよう努めていけないだろうか」
「はい」
「今日話したかったのはそれだけなのだ。部屋でゆっくり休んでくれ」
「え……」
 思わず拍子抜けする。てっきり、それでは早速子作りだ、となるのだと思い込んでいたのだけれど。
「じゃ、じゃあ、おやすみなさい」
 解放された、という思いが拭えずにそそくさと立ち上がる。羽織を手に取り、返すために腕を伸ばした時だった。
「名前」
 腕が引かれ、彼の胸の中に抱き留められた。そのまま大きな掌が私の顎を掴む。口づけの雰囲気に私はぎゅっと目を瞑った。大丈夫、大丈夫。私は煉獄名前。苗字名前じゃない。煉獄家の嫁。彼を愛する妻。魂はここにない。心は義勇さんのもの。
 数秒経って、優しい口づけが頬に触れた。
「おやすみ、名前」
「……おやすみ、なさい」
 私は血の気が引いた表情のまま部屋に戻った。
 杏寿郎さんは明らかに私の唇に口づけようとしていた。けれど寸前でそれを取りやめた。どうして? 私が嫌がっているのがわかったから? 無理矢理することだってできたのに。
 互いに愛し、尊重する。愛のない者同士、上手くいかなくて当たり前だ。その前提がわかっているからこそ、上手くいくように試行錯誤するのではないか。そうしてそれぞれの夫婦が出来上がっていくのだろう。
 その晩以来、私はうまく死ねなくなった。

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