片身替りの彼


 今日の天気は狐の嫁入り。気温は低い。吐く息は白。時計の針が正午を指す。
これは私だけが知っている秘密の条件。間もなく彼はやってくる。鮭大根に火を入れて、扉が開くのをじっと待つ。りん、と鈴が響いて、今日も彼は姿を見せる。半分が葡萄色の片身替りの羽織の彼。いつもの席に腰かけて、お品書きも見ずに手を挙げる。
席まで歩み寄れば、決まりきった文句が空気を揺らす。
「鮭大根」
 低いながらも耳に心地よいその声が、この言葉以外を発するのを私は聞いたことがない。
「かしこまりました」
 儀礼的に微笑み厨房に戻った私は、いい塩梅に温まった鮭大根を皿に盛りつけた。
「お待たせしました」
 おそらく一分と経たずに出されたそれを、片身替りの彼が口に含む。この時ばかりは無表情が心なしか緩むものだから、私はいつもそこまで見守ってから厨房に戻るのだった。
 他の調理を進めていると、りんりん、と入り口の扉に括りつけてある鈴が引っ切り無しに鳴り始める。本日も千客万来。非常にありがたい。お客様は神様です。
 紙と筆を片手に各座席を回り、注文を確認する。馴染みの顔も多く、贔屓にしてくれている方々ばかりだ。ありがたくてありがたくて、みんな恵比寿様のように見えてくる。
「おぅ、名前ちゃん。焼き鯖と卵焼き」
「はい。いつもありがとうございます」
「こっちも卵焼きと、刺身で」
「はい、ただいま」
「茶碗蒸し一つ。鰤の照り焼き。今日、親父さんとおかみさんは?」
「茶碗蒸しと、鰤の照り焼きですね。両親は買い物中です。間もなく戻ります。今だけ私一人で切り盛りしております」
「こっち! 角煮と炊き込みね。豚汁もつけて」
「はい!」
 昼時になれば天手古舞。それをわかっているはずなのに、両親はなぜか昼前に急遽買い出しに行ってしまった。何でも、買ったはずの大事な食材がないというのだ。そんなはずはないだろう、と私は思ったけれど、この世の終わりかのように深刻に話し合っている二人を前にして、そんな楽天的なことは言えなかった。
 厨房に駆け戻り、角煮と豚汁を火にかける。卵を割ってかき回す傍ら、鰤を火にかけ、鯖を火にかけ、あとは――。
 一通りの料理を出し終え、今だけホッと一息。ついたのも束の間。鈴が新たな来客を告げる。その容貌は恵比寿様――というよりかは仁王像かのように見受けられ、人を見た目で判断してはならないという両親のありがたい教えなど即座に吹き飛ぶほどの衝撃を私に与えた。
「いらっしゃいませ」
 厨房から声をかけるが、反応はない。
仁王の登場に店中が静まり返る。箸を止めるお客様さえいた。片身替りの彼だけが何も変わらないまま黙々と鮭大根を貪っている。
ようやく店内が仁王の衝撃から解放された頃、件の仁王が挙手し、私がうかがう間もなく注文を告げた。
「鮭大根」
「鮭大根ですね。少々お待ちください」
 片身替りの彼の箸が一瞬止まる。好物の鮭大根仲間ができて嬉しいのかもしれない。私はその姿に微笑みながらもう一度鮭大根を温め直して皿に盛る。
「お待たせしました」
 熱々になった鮭大根を仁王に提供した。片身替りの彼のおかげで、この料理はすっかり当店の自慢の一品になっている。両親が戻ったら、今日も片身替りの彼が来たことを知らせよう。
 からん、と何かが落ちる音がした。厨房から視線を寄越せば、仁王が箸を取り落としたように見受けられる。私は替えの箸を持って再び仁王の席へ歩を進める。
「こちら、替えのお箸です」
「まずい」
「……え?」
 仁王は箸を受け取らずに私の手を振り払って一言告げた。まずい、と彼が言ったように聞こえた。
「この鮭大根、何だこの味は? 温いわ、固いわ、まったく鮭の良さを活かせてねぇじゃねぇか。泥でも食う方がよっぽどいいな」
 口に含んだ食材を床に汚らしく吐き出して、顔を歪めた仁王が怒声を浴びせかける。私は雷に打たれたかのように立ち竦んだ。
 店を切り盛りしていればこういうことは間々ある。しかし、こんなに一方的な物言いは初めてで、私はどうしたらいいのか皆目見当がつかなかった。賑わいから一変、再び店内に静寂が訪れ、誰もが息をするのすら恐れているかのような張りつめた空気が漂う。私は息をするのも忘れて無意識に滲み出る涙で視界が歪むのを他人事のように感じていた。
「……うるさい」
 低くて耳に心地よい声が空気を割る。「鮭大根」以外の初めての言葉に、私は思わず振り返った。片身替りの彼。
「この店の鮭大根は絶品だ。気に入らないなら出ていくといい」
 愛する鮭大根を侮辱され不快だったのだろう、少しだけ眉を寄せた片身替りの彼がゆっくりと立ち上がり、こちらに歩み寄ってきた。
「何だ、てめぇは? 洒落た羽織なんか着込みやがって、色気づいてんじゃねぇぞ」
「温いと言ったな」
 片身替りの彼は仁王の発言など意に介さない。目にも止まらぬ速さで仁王の後頭部を鷲掴み、鮭大根に沈める。
「熱っ……あ、熱い! やめてくれ!」
 私を含めた店中が呆気にとられる。片身替りの彼は眉を寄せたその表情を微塵も動かさない。仁王は鮭大根で溺れかけている。
「先ほど、温いと聞こえたのだが」
「やめてくれ、熱い! 熱々の鮭大根だ! 認めるよ!」
 片身替りの彼がパッと手を放すと、仁王は真っ赤になった口周りを手拭で拭いながら、「もう二度とこんな店来ねぇよ!」と遠吠えて走り去った。私はいつの間にか引っ込んだ涙によって明瞭になった視界で片身替りの彼を捉える。ホッと胸を撫で下ろして、彼に向かって頭を下げた。
「あの……ありがとうございました。助かりました」
「礼には及ばない」
 何事もなかったかのように席に戻る彼を見る。店内の雰囲気が一変して、拍手喝采が飛び交った。
「兄ちゃん、強ぇなぁ」
「あんた、よくこの店に来てるよな」
「鮭大根、好きなんだな! よし、おっちゃんがもう一皿頼んでやるよ!」
「名前ちゃん、鮭大根追加ね!」
「しっかし、何だったんだろうなぁ」
 まだ昼時だというのに宴会騒ぎのようになった店内では、片身替りの彼が少しだけ照れくさそうにしながら常連客と戯れていた。
 やがてお客様が一人二人、と消えていく。片身替りの彼が立ち上がった時、私は彼の席へと駆け寄った。
「本当にありがとうございました。あの、お名前を教えてください」
 私の言葉に店に残っていた常連客が色めき立った。いいぞ、名前ちゃん、なんて面白おかしく騒ぎ立てられる。
「冨岡義勇」
 彼は無表情のままで名乗り、口を閉ざした。
「よっ、冨岡さん! 名前ちゃんはよぉ、気立ても器量もいいのになかなかこれだって縁談がないんだ。良ければもらってやってくれよ!」
「いいねぇ、冨岡名前! ちょうどいいじゃないか!」
「もう、やめてくださいったら!」
 思いきり振り返り、囃し立てる常連客を真っ赤になりながら制する。気を悪くしていやしないかと恐る恐る片身替りの彼――冨岡さんをもう一度見てみれば、あまりに穏やかな笑みが湛えられている。私が釘付けになったその表情は瞬時に真顔に戻ってしまい、夢や幻だったのではないかと思わされた。
「名前というのか」
「は……はい。苗字名前です」
「覚えておく」
 冨岡さんは鮭大根の代金を置くと、りん、と鈴の音を残し去っていった。お代を受け取る気などなかったはずなのに、笑顔に魅せられて影が縫われたようにその場に立ち尽くしてしまう。
 常連客の一人が立ち上がった。
「名前ちゃん、お勘定」
「おーい、名前ちゃん? ……だめだ、骨抜きだ」
「ありゃとんだ色男だったもんなぁ。名前ちゃん、縁談を片っ端から断ってたけど、ついに嫁入りか?」
「こりゃ今度は祝杯だな!」
 常連客のからかいに一喝すらできないほどに、私はあの笑顔に心を奪われていた。次はいつ来てくれるのだろうか。明日? それとも明後日? その時になったらどうすればいい?
 私が生まれて初めてのこの気持ちを恋と知るまでに、そう時間はかからなかった。

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