待ちわびた百年


 定時を少し回ってから業務を終了した私は、帰宅する社員を多く乗せたエレベーターに乗り込んだ。一階に到着してエントランスに出ると、見知った受付の女性が目を赤くして私の横を風のように通りすぎた。
 何事だろうと一瞬首を捻るも、少しして姿を現した美男子を見て合点がいく。
「名前…」
「また女の子泣かせたの?」
 目を瞠って私の名前を呟いた義勇くんに悪戯っぽく呟いた。すると彼は気まずそうに視線を逸らして「好きだと言われたが…気持ちに答えられないと言っただけだ」と素っ気なく漏らした。
 義勇くんも帰宅途中だったようだ。エレベーターを降りた所で先ほどの女性に捉まってしまったのかもしれない。別々に帰路につくのも変な話であり、私達は肩を並べて会社を後にする。
「入稿は無事に終わったのか?」
「あ、うん。今日無事に…一応編集長のOKも出て。…色々手伝ってくれてありがとね」
 返事の代わりに義勇くんは口元に小さな笑みを刻んだ。この笑顔が好きだな、と私は思う。
 杏寿郎に別れを告げてから怒涛の二週間が過ぎた。おじゃんになってしまった原稿の穴埋めで、ここ数日は碌に睡眠も取れていなかった気もするが、昨日無事に入稿を済ますことが出来た。
 義勇くんと協力して書き上げた原稿が世間の人にどのくらい受け入れて貰えるかは分からないが、こんなに達成感を感じたのは転職して以来ではなかったか。
 私はこの人と一緒にいると、自分が自分らしくいられる。自分をさらに成長させられる。そんな確信を持って隣を歩く義勇くんを見上げた。
「…打ち上げでもするか?」
 二級河川に架かる橋の中ほどで、義勇くんが独り言のように呟いた。橋梁から見える桜には既に新緑が混じっており、川の水面には散った花びらが点々と白い色を溢していた。
 どちらからともなく足を止めて、見つめ合う。以前のような前世の記憶が頭に流れ込んでくることはなかった。大丈夫。私は今を、ちゃんと生きている。
「う、うんっ!お店、どこがいいかな」
 声を弾ませた私に、義勇くんは目を細めた。

 二人で評判の良さそうな和食屋を検索し目星をつけると、店が入る雑居ビルのエレベーターに乗り込んで目的のフロアのボタンを押す。
「…なんか、今にも止まりそうなエレベーターだね。あれかな、汚い店ほど美味い…みたいな」
 会社のエレベーターよりもずっと小さなその箱は、がたがたと嫌な音を立てて昇っていく。わざと苦虫を噛み潰したような顔をして見せた私に、義勇くんは端正な顔を僅かに綻ばせた。分かりにくいが、彼も楽しんでくれていることは間違いなかった。
 扉の上の表示灯が五階で点滅したところで、ゴトンという鈍い音と一緒に身体に衝撃が走る。強い揺れにヒールで不安定な足元がぐにゃりと曲がり背後に倒れそうになるも、義勇くんが咄嗟に手を伸ばして支えてくれる。義勇くんの毛髪が首筋を擽るほど近く、顔がかっと火照る。
「あ、ありがとう」
「いや、構わない。…それよりも…」
 義勇くんが言葉を切って表示灯を見上げる。彼の言わんとすることは分かった。年季の入ったこの昇降機は、どうやら五階で停止してしまったようだ。
「うん。これ、止まっちゃったよね。こういう時って非常ボタン押すのかな」
「俺も経験がないが…とにかく助けを呼んだほうがいい」
 義勇くんは、操作盤の前に居た私の背後からにゅっと腕を伸ばして非常ボタンを押す。直ぐに管理室と繋がって、義勇くんの淡々と対応する声が鼓膜に響いたが、正直私はどんな会話がなされたかをちっとも覚えていなかった。時折背中に触れる義勇くんに、胸が高鳴らない方が無理というものだ。心臓が煩くて一生分の鼓動を打ってしまいそうだ。
「三十分か…思ったより早いな」
 通話を終えた義勇くんの声が耳を擽る。肌に触れる呼吸すらも私の鼓動を加速させ、全身が熱気を帯びる。
「そ、そだね。良かった」
 想像以上に弱々しく掠れた声が出た。先日の小火の件もあったせいか、義勇くんが労わるように私に問いかける。
「…名前、大丈夫か?どこか具合が」
「う、ううん。違う…大丈夫――」
 慌てて顔を後ろに向ければ、義勇くんの綺麗な顔が想像以上に近かったことに驚愕する。全身の熱が顔に集中する。鏡を見なくとも自分の顔が真っ赤であることは容易に想像がついた。いくら鈍い所がある義勇くんだって、私の気持ちには気づいてしまったことだろう。眉根を寄せて気まずそうに逸らされた視線がそれを証明していた。
「…義勇くん、あのね…好き…です」
 不意打ちのような告白だった。観念した私の唇が素直な思いを形作り、再び彼の目が私を捉える。予想通り、義勇くんの透明な瞳には真っ赤な顔をした女の顔が映っていた。
「…恋人は…どうしたんだ?」
「杏寿郎とは二週間前に別れたの。…義勇くんの言う通り浮気なんてしてなかったよ」
 恋人と別れたばかりで、自分を好きだという女を義勇くんはどう思っているのだろうか。感情が読み取りにくい端正な顔が憎らしい。彼が何も言わないのをいいことに、私は胸の内を打ち明けていく。
「退行催眠を受けてから、義勇くんのことが気になってしょうがなくて。でもそれは、前世の影響を受けているからだって思ってた。…だけど、義勇くんと一緒に仕事をしたり、助けてもらったりして…分かったの。私は、前世なんて関係なく今の義勇くんが好きなんだって。義勇くんといれば、私は私らしくいられる。…たとえ義勇くんが、前世で私を殺した心苦しさや責任感で好きだって言ってくれていたとしても――」
 後に続く言葉は義勇くんのキスによって口の中に閉じ込められてしまった。数秒触れただけなのに、蕩けてしまいそうな甘い口付けに脳髄が痺れる。
「本当は…大学時代に疎遠になって別れた時から、ずっと後悔していた。…贖罪の気持ちや責任感で気持ちを告げたつもりはない。…俺も同じだ。俺も、今の名前が好きだ」
「義勇くん。……私も好き。今日は、もっとキスして欲しい」
「名前…」
 再び義勇くんが私の唇を塞いだ。直ぐに深くなったキスは私を幸福感で包み込む。エレベーターが再び動き出すまでの時間、私達は夢中で唇を合わせ続けた。
 
 改札を抜けエスカレーターを駆け上がる。地上に出ればまばゆい初夏の陽光に包まれて、私は思わず目を眇めた。桜を愛でる時期は一瞬で、新緑が眩しいこの季節ももう終わりを迎えようとしていた。
「苗字さん、おはようございます」
 駅と会社の間にある橋に差し掛かると、まろやかな声が私の名を呼んだ。耳を引かれるように振り返れば、すぐ後ろに産業医の胡蝶先生が立っていた。
「胡蝶先生!おはようございます」
 数か月前もこんなことがあったな、と既視感のある場面に苦笑しながら私は彼女と肩を並べて歩き出す。
「そういえば拝見しましたよ、今月号も。苗字さんが書いたコラム記事」
 他愛もない会話は、私の所属するチームが編集を担当する雑誌の話へと移る。魘夢先生の逮捕によっておじゃんになった特集の穴埋で書いた私の記事は、想像以上に読者からの反響があり、なんと毎月の連載が決まったのだった。
「本当ですか?お忙しいのに、ありがとうございます。…その、どうでした?」
「今月号もとても面白かったですよ。前世から学ぶ今の自分の生き方。勇気づけられる読者は多いのではないですか?取材した医師が逮捕されてしまったのは驚きましたけどね」
 胡蝶先生の率直な感想と称賛に胸が熱くなり頬が緩んだ。また一つ、私は成長という階段を昇れたのではないか。
「…この記事を書くにあたって、真剣に自分と向き合うことが出来たんです。今までの私はどこかで自分と他人を比較したり、ミスを何かのせいにしたかったり。でも…自分は自分なんだって思えたんです。今この瞬間の自分をしっかり認めてあげなきゃって」
「ふふ、素晴らしいですね。苗字さんはとても良いことを仰ってますよ。最近はそういう考え方をする訓練も一種の精神療法となっているくらいです。…これからの時代、現代人にはさらに求められるスキルですね」
「はい!頑張ります!」
「それと、結婚式の招待状届きましたよ」
 楽しみにしていますね、と付け加えた胡蝶先生は優しい口許に微笑を浮かべ、さらに言葉を続けた。
「最初苗字さんが冨岡さんと結婚すると聞いた時は驚きましたけど」
 なんだか照れくさくて、私は苦笑を浮かべて頬をかく。そう、私は二ヵ月後義勇くんと結婚する。
「…はい。自分の気持ちと向き合った結果です」
「きっと二人なら大丈夫ですよ。…お幸せに」
 祝福の言葉をくれた胡蝶先生と別れた私はエレベーターを待つ先客を見つけて、大好きな背中に駆け寄り声を張る。その後ろ姿が、赤錆色と亀甲柄を組み合わせた片身替わりを羽織っているように見えたのはきっと気のせい。
 前世に囚われて生きる私は、もう死んだ。振り返って幸せそうに目を細めた彼の横に立てる幸せを噛み締めながら、私は今この瞬間を、生きていく。

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