遅すぎた本心


 会社を出たのは終業時刻を二時間ほど過ぎてからだった。時刻は午後八時。最寄り駅から十五分ほど電車に揺られて、待ち合わせ場所のレストランへと急ぐ。
 都心でも一等地であるこの周辺は、沿道に植えられている樹木一つとっても高級感に溢れている気がした。指定されたビルの前まで来ると、レストランのある10階の屋上までエレベーターで一気に昇る。ドアが開くなりこちらに気づいた店員が駆け寄ってくる。
「いらっしゃいませ。お待ち合わせですか」
「はい。あの…多分、煉獄で予約していると思うんですけど。もう連れは来てますかね?」
「煉獄様のお連れ様でいらっしゃいますね。お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
 慇懃な店員に案内されたのは一番奥の窓際のテーブルだった。大きなガラス張りの窓から遮るものはなく、高層ビルやタワーが一望出来た。窓の向こう側のテラス席にはライトアップされた大きなプールがあり、青色に輝く水面が幻想的な空間を演出している。
 あまりにも洗練された空間に、女性ならば誰しも気分が高揚してしまうだろう。こんな場所で別れ話、とは考えにくい。焦燥感と緊張で身体が僅かに強張るのが分かった。
「名前、お疲れ様。仕事は大丈夫だったか?」
「あ…うん。ごめんね、お待たせしちゃって」
 杏寿郎は既に到着しており、テーブル席に腰掛けてドリンクメニューに目を通していた。彼の斜め横の席に誘導された私は、椅子を引いてくれた店員に礼を述べてから杏寿郎への謝罪の言葉を口にする。
「構わない。俺がいきなり誘ったのだ。店はすぐに分かったか?」
「うん。凄く素敵なお店だね。杏寿郎はこういうお店、良く知ってるよね」
「そんなことはないと思うが…名前を喜ばせたくて必死なのかもしれんな」
 独り言のように呟くと、杏寿郎は「何にする」とこちらに目で問いかける。彼の言葉に胸が切なく痛んだのが分かった。
 先ほどの店員が皺ひとつない真っ白なテーブルクロスの上に広げていったドリンクメニューに目を走らす。しかし、大好きな白ワインも今日は注文する気になれなかった。「烏龍茶」と口にした私に杏寿郎が少しだけ驚いた表情を浮かべたが、すぐに鷹揚に頷いて店員へ注文を告げた。
 杏寿郎はコース料理を予約してくれていた。新鮮な旬の食材にこだわった本格イタリアンがこの店の売りらしい。運ばれてくる料理はどれも独創的で見た目も華やかだが、その味も折り紙付きだった。
 大好きなイタリアの景色が眼前に浮かんでくる。きっと少し前であれば、私はこの店もこの料理ももっと楽しめたのかもしれない。
「そういえば、土曜日の電話は大丈夫だったのか?」
 いつも通り互いの近況を報告し合い、メインディッシュを平らげた所で杏寿郎が心配そうに私を見た。
「…うん。ちょっと…色々あって」
「色々?」
 杏寿郎が運ばれてきた食後のコーヒーに口を付けた後、片眉を僅かに持ち上げた。次の言葉を口にするのは勇気が必要だった。どのくらいの時間逡巡していたのだろう。沈黙が長くなってしまった私を見かねた杏寿郎が、再び口を開いた。
「名前、俺と結婚してほしい」
 自分の耳を疑うのは本日二度目だった。テーブルの上で湯気を立てるコーヒーカップに落としていた視線を慌てて杏寿郎に戻せば、彼は私の前に小さな箱を差し出した。中身を確認するまでもなく、それがエンゲージリングなのだとすぐに分かった。恋人の藪から棒な求婚に私は動揺を隠せなかった。
「…結婚…なんで」
「そう聞かれると困ってしまうな。名前とこれからもずっと一緒に居たいという理由以外、思いつかない」
「じゃあ…この間…土曜日一緒にいた女の人は?」
「見ていたのか」
 杏寿郎の見開かれた目に驚きの色が浮かび、その後すぐに謝罪の言葉が紡がれる。
「謝るってことは…やっぱり――」
「そうではない。彼女は職場の後輩だ。元々家同士で繋がりがあって、俺にとっては妹のような存在だ。…先日は彼女の恋人について相談を受けていたのだが…名前にも一言報告すべきだったな。すまない」
 恋人がテーブルに額をこすりつけんばかりに頭を下げるものだから、良心の呵責に耐えられなくなった。私は彼に謝ってもらえるような立場にはないのだから。
「謝らなきゃいけないのは私の方なの」
「どういうことだ?」
 ふわふわの金糸を揺らして頭を上げた杏寿郎が、言葉の意味を推し測るような顔で私を見た。
「あの日、杏寿郎に電話したあの夜…マンションで小火騒ぎがあったの。それで、杏寿郎達のこと疑って、義勇くんに電話して来てもらった」
「…そうだったか。しかしそれは俺にも非がある。名前を責めることは――」
「それだけじゃない」
 杏寿郎の言葉を遮った、やけに上擦った自分の声が耳に滲む。私の様子がおかしいことに彼はとっくに気が付いているはずだ。
「杏寿郎言ったよね。退行催眠を受けて何か分かったのか…って」
「…ああ」息を吐くように呟いて、杏寿郎は少し顎を引いた。
「退行催眠ではっきりと自分の前世を見たの。前世の私は、義勇くんと婚約者だった。でも火事で私達が結ばれることはなかった。…その後私は、杏寿郎の家に嫁いだの。親同士が決めた結婚だよ」
 杏寿郎が固唾を呑んで私の言葉の続きを待っている。
「前世の私は、夫になった杏寿郎のことを愛していなかったの。最初は、杏寿郎も同じだった。それでも、杏寿郎は妻になった私を必死に好きになろうとしてくれてた。…それなのに私は、ずっと…引き裂かれた義勇くんのことを思ってた。…こんな話、インチキくさいって思うよね。私だってそう思ってた。でも、退行催眠を受けてから、義勇くんといると断片的に前世の記憶が頭に流れ込んできて、どんどん自分の気持ちが分からなくなっちゃって。…私は本当に杏寿郎のことが好きなのかなって。杏寿郎も私を好きじゃないかもしれないって。前世で夫婦を演じていた私達みたいに、私達は今世でも恋人を演じてるだけなんじゃないのかって…そう思って。…だから私に、杏寿郎のプロポーズを受ける資格なんて、ないんだよ」
 弾丸のようにしゃべり続け、最後の方は、糸のようにか細い声になっていた。
 全てを話し終えると、私達の間に流れる空気を沈黙が支配した。耳には別のテーブルに座る客を祝福する結婚ソングが流れ込んできて、今の私達には一番似つかわしくないそのメロディがなんだか可笑しかった。
 その刹那、きつく握りしめていた手に杏寿郎の大きな手が重ねられた。
「名前。前世は前世、今世は今世、と俺は思う。それに俺は、君と恋人を演じているつもりなど全くなかった」
「杏寿郎…。でも、それならもっと言って欲しかった。嫉妬して欲しかった。私のことが好きだって、全力で示して欲しかった」
「名前…」
「正直私は…不安だった。杏寿郎はいつも余裕があって、いつも私の先を歩いてて。割り切って考えてる所もあって。…杏寿郎、私は時々ね…すごく虚しかったんだよ」
 金属音のような自分の声が響いた。未だに店に流れている結婚ソングが無ければ、店内の人々の視線は私に向けられていたことだろう。
「…今からでは遅いのだろうか」
 杏寿郎は、私が間もなく別れを告げようとしていることを分かっていたのだと思う。まるで「最後に聞かせてくれ」と聞こえんばかりの声音に、目頭が熱くなった。
 数秒待って小さく首肯した私に、杏寿郎がふっと笑う気配がした。 
「本当は、君の同僚が疎ましくて仕方なかった。妬かないはずがないだろう」
 少しだけ不愉快そうに呟いた杏寿郎の言葉が引き金となり、瞼を膨らませていた涙が頬を伝った。
「…っ…ごめんなさい杏寿郎。最初は、前世の記憶に影響されているだけなんだって思おうとした。私だって杏寿郎のこと大好きだった…。きっかけは、退行催眠だったのかもしれない。…でも、私、気づいたら今の義勇くんに惹かれてた。前世なんて関係なくなってた…最低だよね、私。……ごめんなさい」
 傍からみれば、恋人からプロポーズをされた女が喜びで感涙していると思うかもしれない。しかし私の頬を伝うのは贖罪の涙。ごめんね。ごめんね杏寿郎。
「…本当に最低だな」
 杏寿郎の低音が揺らぐ。私の前に差し出した箱を引っ込めて先に席を立った彼の顔は、紡がれた言葉とは対照的に酷く優しいものだった。
「きょう、じゅろ…」
「俺が…もっと素直に気持ちを伝えることが出来ていたら違っていたのかもしれないな。君の前では…格好をつけたかったのかもしれない」
「ごめんなさいっ…本当に…っ」
「名前。…今世では、幸せになってくれ」
 杏寿郎は踵を返した。私の元から去っていく雄々しい背中に、前世の夫の面影を見た気がした。

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