奪ってほしかった


「落ち着いたか?」
「うん、もう大丈夫そう。ごめんね、義勇くん」
「…いや、気にするな」
 枕元に座る義勇くんを見上げて謝罪の言葉を口にすれば、彼は微かに口許を緩めた。
 玄関先でパニックを起こした私を寝室に運びベッドに寝かせてくれた義勇くんは、子供をあやすようにずっと頭を撫でてくれていた。
 彼が来てから、どのくらいの時間が経ったのだろうか。カーテンの隙間から差し込む薄い光線は朝の訪れを告げており、随分長い時間義勇くんを拘束してしまったと心底申し訳ない気持ちになった。
「マンションの前に救急車両が待機していた。小火に火災報知器が反応したが、問題はないと言っていた」
「小火…そっか、そうなんだ」
 義勇くんの口調はいつになく穏やかだった。私を怖がらせまいという彼の気遣いなのだと直ぐに分かって、胸が熱くなる。
「義勇くん…本当にごめんね。真夜中なのに来てくれて、嬉しかった」
 驚くほど素直な気持ちが口を衝いて出る。少しだけ目を張った義勇くんに構わず私は言葉を続けた。
「…火事の夢を見たの。この間、魘夢先生の退行催眠で見た映像と一緒だった」
「……そうか」
 義勇くんは数秒の沈黙の後、神妙な顔で決まり文句を呟く。彼も私と同じ前世を見たのだ。この火事によって前世の私達は裂かれた。だからこそ義勇くんは返答に窮したのかもしれない。
「それで…起きたら本当に警報音とサイレンが聞こえたからびっくりしてパニックになっちゃって。なんか情けないなぁ。…最近の私、なんかおかしいんだよ」
「…名前?」
 最後の方は囁いているような弱々しい声だった。心配そうにこちらを伺う義勇くんの声に瞼の裏が再び熱くなる。下唇を噛み締めて涙が溢れないよう全力を注ぐ。
「…昨日、魘夢先生の所に行ったの。…そしたら、言われちゃった。退行催眠で逆に自分で命を断つ人もいるって。辛い前世だと尚更そうだって」
 声が微かに震えていた。努力の甲斐なく瞳から溢れた涙が頬を伝う。困ったように眉根を寄せる義勇くんを見るのがなんだか苦しくて、私は涙で濡れた目を両掌で覆う。
「なんか辛い。苦しいよ…っ。最近は彼氏との関係もよく分からないの。痴漢の事件があってから…恋人なのに触れられるのが怖くなって…昨日は知らない女の人といるところ見ちゃうしっ…私…自分の前世に呑み込まれちゃいそうで…っ」
 肩を震わせてしゃくりあげる。これではますます義勇くんを困らせてしまう。分かっているのに涙は止まってくれなくて、だらしなく泣き続ける声が寝室に木霊する。爽やかな日曜日の朝が台無しだ。
「辛かったな。…人に言えば楽になることもある。俺で良ければいくらでも話せ」
 義勇くんの声が耳を包む。きっと彼を知らない人であれば不愛想にも聞こえるだろう淡々とした口調も、今の私にとっては何よりの特効薬だった。
 掌で涙を拭って義勇くんを再び見上げれば、予想通り綺麗な顔にたっぷりと優しさを滲ませた彼がそこにいた。私の唇からは無意識に言葉が零れ落ちた。
「義勇くん…お願い、キスして」
 義勇くんが口許に浮かべていた微かな笑みが驚きに変わった。自分でも何を言っているのかよく分からなかった。でも今は、どうしても彼に触れて欲しいと思った。
 反応があるまで、数秒の間が挟まった。義勇くんが音のない息を吐いた後、厚みのある大きな指で私の目尻に溜まった涙を拭ってこちらの心に刻みつけるように言った。
「名前は言ったな。前世の記憶が本当でも、俺たちは今を生きていると」
「言った…言ったけどでも―ー」
「大丈夫だ。名前はちゃんと前を向いている。前世に…囚われてなどいない」
「義勇くん…」
「名前の恋人も、浮気をするような不誠実な男ではないと俺は思う」
 義勇くんがきっぱりと告げる。彼も、杏寿郎と過ごした前世を見たんだ。だからこんなにも曇りのない瞳で言い切ることが出来るのだ。
「仮にも自分を好きだと言った男の前で…そういうことを軽々しく言うな。…自分を大切にしろ」
 義勇くんは困ったように眉根を寄せて微笑を浮かべると、すっと枕元から立ち上がる。
「少し休んだ方がいい」
「あ…うん」
「戸締りはしっかりしろ」
 見送りのためベッドから身体を起こそうとした私を手で制して、義勇くんは寝室を出る。数秒して玄関が閉まる音がした。少し待って、気怠い身体を持ち上げ玄関へと向かった私はうち鍵を施錠する。結局キャンディさんと一緒にいた訳を聞くことが出来なかったな、と鼓動を早める心臓を押さえつけるようにしてのそのそとベッドに戻る。身体が病に侵されてしまったかのように熱かった。
 高鳴る心音がはっきりと自分でも聞き取れた。私の胸はときめいている。前世の義勇くんにではない。今、この時代を生きている義勇くんに、だ。
 ベッドの中の自身の温もりに瞼が重く圧し掛かってくる。早々に意識を手放しそうになった刹那、ベッドに放っていたスマートフォンの振動がそれを食い止めた。激しい睡魔を引きずってそれを手繰り寄せ画面を確認すれば、恋人からのメッセージが目に入る。
『電話に出られなくて済まなかった。大丈夫か?』
 時刻は早朝五時。私が寝ているかもしれないと考えた恋人は、電話でなくわざわざメールを選択してくれたのかもしれない。火急のこととはいえ義勇くんに縋ってしまった自分に自責の念が込み上げる。義勇くんの言うように杏寿郎は浮気をするような人物ではない。しかし、本当にそうなのだろうか。
『夜中にごめんね。もう解決したから心配しないで』
 動きが鈍くなってきた指で返信をする。すると直ぐにスマートフォンが再び振動した。
『それならば良かった。週明け、会えるか?話したいことがある』
 こんな風に改まって言われたことがかつてあっただろうか。もしかすると本当に別れ話なのかもしれない。
 誘いを承諾する返信が恋人に送られたのは次に目覚めた時だった。私は、迫りくる睡魔に既に白旗を上げていた。

 週明け出社すると、自分の耳を疑うような信じられない話が飛び込んできた。それは、魘夢先生が自殺教唆の罪で逮捕されたというものだった。さらに驚くべきことに、逮捕の決め手となったのはキャンディさんの自殺未遂だったと同じ編集部の同僚から聞かされた私は、暫く言葉を失った。
「…義勇くん、知ってた?」
 もう終業時刻も迫ってきたころ、打ち合わせ用の会議室に到着した私は先日のお礼を述べるよりも早く、既に着席していた義勇くんに問いかける。本日はキャンディさんと二回目の打ち合わせの予定だったが、件の通りそれは一生開始されることのない用談となってしまった。魘夢先生の逮捕により企画はおじゃん、キャンディさんも病院の精神科に入院中とのことだった。
「いや、俺も今日上司から聞かされた」
 義勇くんの声にも微かな動揺が滲んでいるのが分かる。隣に腰掛け週末に二人を目撃したことを言おうか言うまいか考えているうちに、まるで義勇くんが私の言わんとすることが分かっているかのように口を開いた。
「土曜日は…彼女に、記事を書くために例のクリニックに連れて行って欲しいと言われて同行した。あの日は、彼女だけ退行催眠を受けた。…今回の事件はそれが関係しているのかもしれない」
「そ…そうだったんだ」
 ひょっとすると、キャンディさんは辛い前世を見て絶望してしまったのだろうか。一歩間違えば自分もそうなっていたのかもしれない、と思うと背筋が寒くなった。
「…名前も来ると聞いていた」
「え?」
 付け足すように言った義勇くんに、私は目を丸くする。そこで、二人の間には何もなかったことを理解する。キャンディさんに上手く使われてしまったようだが、今では怒りよりも彼女への同情の気持ちが勝っていた。
 でもそうなると、先日キャンディさんは義勇くんに何を耳打ちしたのだろうか。
「俺たちは、別に何もない」
 まるで義勇くんに思考が伝播しているのではないかと思うほど欲しい答えが返ってきたものだから、私は思わず疑問を声にする。
「じゃあ…この間…み…耳打ちされてたのは…?」
 義勇くんの切れ長の目に、顔を強張らせた女が映っている。私はごくりと唾を呑む。
「食事に誘われたが断った……気になるのか?」
「え…」
 低い声で呟くと、義勇くんは私の手を引いて薄い唇を耳元に寄せた。
「本当は…名前の恋人にどうしようもなく嫉妬している。…だが、先日言ったことは本当だ。名前はしっかり今を生きている、自信を持て。…過去の自分にも俺にも構う必要はない」
 ドクン、と心臓が聞いたこともないような大きな音を立てて、全身に響き渡る。直後に身を焦がしてしまいそうな熱が身体中を這い回った。
「…どうするか」
 ぱっと私の手を離した義勇くんは、何事もなかったかのように元の位置に身体を戻してパソコンに向き直った。もう彼の中でこの話は終わりなのだろう。
「どうするか…って、穴埋めする記事のこと?」
「ああ」
 義勇くんにばれてしまわないように細く深い呼吸を繰り返す。煩く身体を打ち付ける心臓を何とか抑えて、私は両手で頬杖をつく。そうなのだ。私達は没になってしまった退行催眠に代わる記事を考えなくてはならない。
「どうするかって、どうしよう。…先輩も部長達も人が悪いよ。いくら自分達の担当してる原稿の締め切りが近いからって、私達に丸投げって酷いと思わない」
 肩を落として途方にくれる。最後の方は憤りに近かったかもしれない。不測の事態が現実味を帯びてくる。
「…名前が書くのはどうだ?」
「え、私が?」
「ライター志望なんだろ?」
 唐突に言った義勇くんが流し目で私を見る。その目許は微かに綻んでいた。
「ライター志望っていうか…いつか自分で記事を書きたいなとは思ってるけど…」
「…今回の取材をベースに考えてみればいい。…俺も、一緒に考える」
 私の頭は無意識に縦に動いていた。満足そうに目を細めた義勇くんが「さぁ、やるぞ」といった様子で椅子に深く座り直した。
 義勇くんに倣い、私も自身を鼓舞するように頬をパチンと叩いた。
 今日だけでどこまで進めることが出来るだろうか。杏寿郎との待ち合わせまでには、もう少し時間があった。

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