裏切りの序章


 クリニックから駅までの道を歩きながら、私は先程の魘夢先生の言葉を脳内で反芻する。
――前世が今世に強い影響を及ぼすのは不思議なことじゃない
 先生は確かにそう言っていた。つまり、私が退行催眠を受けて前世を知ってからというもの、義勇くんのことが気になってしまうのは、致し方ないということなのか。
 杏寿郎のことは好きだった。しかし私は時々、彼に対して虚しくて物足りない気持ちを感じていたのも事実だった。やはりこれも、前世の自分の人生が影響しているということなのか。
 考えるほど深みにはまっていきそうであり、私は小さく頭を振ってパチンと頬を叩く。先日自分の口から義勇くんに言ったばかりではないか。私達が生きているのは今なのだ、と。
 駅まであと少しというところで「ぐぅっ」と腹の虫が鳴く。昼食がまだだったことを思い出し、私は電車に乗る前に腹ごしらえをしようと来た道を引き返す。大通りを少し戻って右に曲がれば、ドラマにも頻繁に登場するお洒落なカフェが左手に見えてくる。一度、杏寿郎に連れて来てもらったことを思い出す。
 秋は黄金色の銀杏並木が一望できるテラス席は、休日である今日は満員御礼といった感じの賑わいだった。ひょっとすると予約もない私の入店は難しいかもしれないと一抹の不安を覚えつつ入口へ足を向けると、よく知った大きな声が少し遠くで揺らいだ。
「美味い!」
「んー本当美味しいです!頬っぺたが落っこちちゃいそうです」
 はっと息を呑んで声の方に視線を向ければ、テラス席で食事をする杏寿郎の姿が目に飛び込んできた。それだけでも目が点になりそうだったが、さらに驚くべきことに、杏寿郎は私の知らない女性と一緒だった。幸福そうに食事をする姿がなんともキュートなその女性は、私や杏寿郎よりも随分と若く見えた。
 彼女は一体?そう思うが早いか、私は踵を返して急いでカフェを後にする。杏寿郎が浮気をするような男でないことは十分理解している。しかし、私と義勇くんのことに関して嫉妬もなければ深く追及もしてこない杏寿郎の心は、もうとっくに離れてしまっているのではないかと思ってしまう。
 心臓が妙な打ち方をしていたが、どこか冷静な自分がいることにも驚きだった。先ほどよりも脳内はさらに混乱を極める結果となり、寄り道などせずにさっさと帰路につくべきだったと憂鬱な溜息を吐き、視界に捉えた地下鉄へと続く駅の入り口へと急ぐ。
 しかし、地下に続く階段に足を掛けたところで私の足はぴたりと動かなくなった。前方から見知った男女が歩いてくるのが目に入ってしまったからだ。すれ違う女性達が熱い視線を送ってしまうほどの見目麗しい男性は間違いなく義勇くんだった。義勇くんの隣を歩く女性の顔はマスクと帽子で殆ど覆われてしまっていたけれど、彼女がキャンディさんだということは直ぐに分かった。
――何で二人が一緒に?
 焦燥に似た疑問と一緒に、仄暗い雲が胸中を覆う。二人に気づかれることが何故だか躊躇われて、「動け、動け」と自身の足に命令するも、地面に縫い付けられてしまったように動かすことが出来なかった。呆然と立ちすくむ私に訝し気な視線を寄越して地下へと消えていく人を数人見送った後、義勇くんの目が私を捉えた。
「…名前…」
 驚いた様子の義勇くんの声が響き、その声につられるようにキャンディさんも私を見る。すると、二人の視線が起動装置となって私の足は突然動きだす。階段を猛スピードで下り改札を抜けると、気づけば出発直前の電車に飛び乗っていた。直ぐに背後で扉が閉まる音がして、間もなく電車は滑るように動き出す。乱れた呼吸を整えながら空席に腰掛けて、私は両手で頬を覆って腹の底から細く長い息を吐いた。
 重い息の理由は、杏寿郎が女性といたことでも、義勇くんがキャンディさんといたことでもなかった。杏寿郎のことよりも、義勇くんがキャンディさんと一緒に居た理由の方が気になっている自分に気が付いてしまったからだった。
 その後、どうやって帰宅したかはあまり覚えていなかった。いつしか私は自宅のマンションに戻り、まだ日が高いにも関わらずベッドに潜り込んで頭からすっぽりと布団を被っていた。
 杏寿郎と過ごすことが多い週末だが、珍しく彼からの連絡も無かった。ひょっとすると私が杏寿郎との性交を拒んだことで、彼を失望させてしまったのかもしれない。今日の夜は昼間の女性と過ごすのかもしれない。それならそれで良い、という気もしていた。
 一方で、義勇くんのことは気になって仕方がない。何故彼はキャンディさんと一緒にいたのだろう。先日の打ち合わせの様子を見るに、義勇くんがキャンディさんに好意を持っていないことは火を見るより明らかだった。それであれば何故?先日キャンディさんが義勇くんに耳打ちしていた件が何か関係しているのだろうか。
 考えが支離滅裂に入り乱れて頭が破裂しそうだった。魘夢先生に植え付けられた不可解な疑念が、さらに濃度を増していく。どれだけ考えても答えのかけらも浮かんでこない私は、いつのまにか深い眠りに落ちていた。

――火消しはまだか!
――もうダメだろうな……
――放火だって
 夢を見た。オレンジ色の炎。焼け崩れていく自宅。飛び交う怒号。まるで今この瞬間に、目の前で起こっているのではないかと錯覚する鮮明な夢から私を引き戻したのは、鼓膜を突き破るほどの大きな音だった。それが、マンションの部屋に備え付けられた火災報知器なのだと認識するまで数秒の時間が必要だった。
 強い焦燥が心臓の鼓動を早める。息があがり、えも言われぬ不安で胸が締め付けられる。逃げろ、逃げろ、と頭の中で囁き声が充満するも、金縛りにあってしまったかのように身体が動かない。鳴りやまぬことを知らない火災報知器の警報音が一層私の焦燥を煽った。警報音が止まる前に、今度はサイレンの音が聞こえてくる。氷水を浴びせられたかのように身体が小刻みに震えている。
 呼吸がどんどん早くなり、過呼吸の症状が出始めた。痺れて感覚が無くなってきた指先に懸命に力を入れて、枕元のスマートフォンに手を伸ばす。やっとの思いでロック画面を介助して、通話履歴から杏寿郎の番号を見つけ出し発信ボタンをタップする。無機質なコール音を二回聞いた所で、昼間恋人の隣にいた女性の姿が脳裏を掠めた。杏寿郎は彼女と居るのかもしれない。
 すぐにコールを停止した私の震える指は、電話帳から無意識に彼の名前を探していた。スマートフォンに表示されているデジタル時計が夜中の二時を回っていたことに気づいた時には、再びコール音が鼓膜に流れ込んでいた。
『名前、どうした?』
 ワンコールで彼は電話に出てくれた。驚いた様子の義勇くんの声が耳に滲み、私の目からは涙が堰を切ったように溢れ出す。
「はぁ…はっ…義勇く…っ…助けて…」
『おい、名前!落ち着け、どうした?今家か』
「…うっ…家で…はぁ…火災の警報器が…」
『ゆっくり呼吸しろ。大丈夫だから…外に出て状況を確認出来るか?』
「わかんなっい…は…義勇くん…」
『名前、家は学生の頃と変わっているのか?』
「っ…変わってない――」
『直ぐに行く。動けそうなら外に出るんだ、いいな?』
 電話越しに私が頷いた気配を感じたのか、義勇くんの電話はそこで切れた。通話が終了してもなおベッドの上から動くことが出来なかった。このまま死ぬのかもしれないし、もう死んでもいいのかもしれないとすら思った。
――辛い前世を抱えている人は、逆にそれを思い出したことで症状が悪化して、生きていることに絶望してしまうんだよね
 魘夢先生の言葉が脳裏を過った。こんな風に思ってしまうのも、私が前世の影響を強く受け、辛い過去に打ち勝てなかった結果なのかもしれない。
 どのくらいの時間が経ったのか。気づけば警報音もサイレンの音も聞こえなかった。代わりに私の鼓膜を突いたのは、玄関のチャイム音だった。不思議と動いた足は玄関へと向かい、扉に伸びた手はガチャリとうち鍵を開錠していた。
「名前…」
「義勇く――」
 膝から玄関に崩れ落ちる直前に、扉の向こうで僅かに息を弾ませて立っていた義勇くんに抱きしめられる。部屋着姿の彼を見て、どれだけ急いで来てくれたのだろうと、逞しい胸の中で私は暫く考えていた。

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