過去からの誘惑


 外で食事を済ませた私達は、杏寿郎のマンションへ帰宅する。私も出張帰りの杏寿郎も、疲労がピークに達していたようで、交代でさっとシャワーを浴びると明日の仕事に備えて早めにベッドに潜り込む。
 身体を横たえるなり私を胸に引き寄せた杏寿郎が、初めて義勇くんの話題を口にする。
「冨岡…といったか?彼は名前の昔の恋人と言っていたな」
「…そ…そう。でも、別に何もなくて――」
 言いながら、嘘を吐いた自分に焦りが募る。義勇くんとの関係を「何もない」と言えたのは先日までの話だ。しかし私は義勇くんの告白を断ったのだ。恋人に全てを馬鹿正直に伝えて不安にさせる必要などない。いや、そもそも杏寿郎は不安になってくれるのだろうか。私と義勇くんの関係に嫉妬してくれるのだろうか。
「先日も言ったが、別に疑ってなどいない。今日の記者との打ち合わせはどうだったんだ?」
 大きな掌で私の頭を撫でてくれる杏寿郎の声が耳に滲む。会議室での義勇くんとのキスが脳裏を過るも私は気づかないふりをした。
「うん。実はキャンディさんていうかなり有名なライターの女性と一緒に仕事をすることになったんだけど。…結構強烈な人でね。著名人だから扱いが難しそうっていうか」
「名前なら上手くやれると思うが、あまり無理はするな」
「だといいんだけどね。ありがとう」
「退行催眠…と言っていたな?名前は実際、催眠を受けて何か分かったのか?」
 杏寿郎の言葉に心臓が不吉な拍動を打つ。退行催眠で見た前世の内容は当然ながら意図的に隠していたものだ。真実を言おうか言うまいか逡巡し、開けたり閉じたりしていた私の唇に、杏寿郎が時間切れだというように熱を落とした。
「んっ…」
「すまない。言いたくないのであれば無理に聞くつもりはないから安心してくれ」
「杏寿郎…」
「名前…」
 杏寿郎の艶気を含んだ低い声が耳を這い、再び唇が重なる。舌を絡め合うキスを続けながら、身体を起こした杏寿郎があっという間に私に覆いかぶさった。一旦唇が離れると彼の熱い舌が鎖骨を擽り、大きな掌がルームウエアの裾を捲り上げて侵入し、胸の先端に到着する。
「ぁっ…ん…杏寿郎…今日もするの?」
「嫌か?」
 言葉とは裏腹に、杏寿郎のもう片方の手が私の答を待たずに下着の中に滑り込んだ。いつもの私であれば、恋人の愛撫を無抵抗に受け入れただろう。しかし今日の私の身体はそうではなかった。
「――っやっ、やめて」
 割れ目に杏寿郎の指が触れた瞬間、私の口からは嬌声でなく拒否の言葉が飛び出した。眼前で目を丸くしている恋人同様、私自身も自分の反応に驚いていた。
「名前…どうした?大丈夫か?」
「う…うん。ごめん…。どうしたんだろう…昨日の電車内でのこと思い出しちゃって」
 嘘ではなかった。下半身への性的な刺激によって昨日の事件が頭の中で映像のように再生され、身体が反射的に拒否反応を示していた。
「いや…俺の方こそすまない。配慮が欠けていたな。今日はもう休もう」
 杏寿郎は私の髪を撫でると額に唇を押し付けて再びベッドに横になる。ごめんね、と呪文のように繰り返し呟く私に困ったような笑みを漏らした恋人の胸の中で眠りについた。

 その週末の午前中、私は魘夢先生のクリニックを訪れていた。今日は出版社の苗字としてではなく、患者の苗字名前として受付を済ませ、待合室の空席に腰掛ける。土曜日ということもあり院内はかなり混みあっていた。待合室の席を埋める患者の殆どは女性であり、病院に似つかわしくない華やかな声が時折耳に流れ込んできた。魘夢先生の退行催眠の噂を聞きつけてきたのだろう。
 どのくらいそうして待っていただろうか。優に一時間以上は経過していたように思う。壁掛け時計が示す時刻が正午を回ったことに気が付き嘆息した所で、受付の女性が私の名を呼んだ。漸くだ、とかなり読み進めてしまった単行本に栞を挟んで慌てて鞄にしまうと、私は女性の元へ身を運ぶ。
「苗字さん、大変お待たせしました。土曜日はどうしても混むので。申し訳ございません」
 そう言って申し訳なさそうに眉を八の字に下げた女性は、先日の取材で私と義勇くんを対応してくれたスタッフの方だった。「先日はありがとうございました」と軽く会釈をした私に、女性は記憶を辿るように眉根を窄めたが、すぐに「あっ」という言葉と一緒に笑みを零す。
「出版社の方ですね。魘夢先生の退行催眠の取材に来られた。先日はありがとうございました。どうでした、先生の催眠療法?」
「はい…。実は今日もその件で確認したいことがあって伺ったのですが…、なんというか、色々衝撃的で頭が混乱してしまって」
「ふふ。皆さんそう仰いますよ」
 私を案内すると、女性はすぐに診察室を後にした。先日取材に訪れた時と同様、診察室では魘夢先生がゆったり椅子に凭れかかり、キーボードをカタカタ叩いていた。入室した私に気が付くと彼はこちらに視線を向けて少しだけ目を張った。
「あれぇ?また来たの?君は確か…」
「はい。先日先生の退行催眠の取材をさせていただきました、出版社の苗字です」
「うん。覚えてるよ」
「先日はお忙しい所、お時間をありがとうございました」
「今日はどうしたの?言っておくけど、苦情なら受け付けないよ」
「いえ、苦情ではなくて」
 言いかけた所で魘夢先生が患者用の椅子を勧めてくれたので、私はそれに腰掛け仕切り直す。
「…実は今日は患者としてきました」
「患者として?何かあったの?」
 魘夢先生が、パソコンに視線を戻して文字を打ち込み始めた。カルテの記載でもしているのだろうか。私はごくりと唾を呑み込んだ後にゆっくりと言葉を続けた。
「…先生。前世って、今世にどれくらい影響するものなのでしょうか?」
 言葉に耳を引かれるように魘夢先生が私を見た。見目麗しいお顔には興味深そうな色が浮かんでいる。
「どういうこと?」
「実は、先生の退行催眠を受けてから…変なんです」
「変?」
「はい。催眠療法を受けた時、昔の記憶が逆流したんです。…見たこともない場所で経験したこともないのに、それは私の記憶でした」
「うん。君は僕の退行催眠で前世を見たんだよ。それは別に不思議なことじゃないよ」
「それは…分かっているんですけど。…先生仰ってたじゃないですか。火が怖ければ火に対して嫌な経験をしている、一目ぼれは前世の恋が関係している…って」
「具体的にそういうエピソードがあったのかな?」
 魘夢先生のオッドアイが繁々と私を見る。特徴的な瞳は美しくもどこか不気味で、全身にじっとり汗が滲むのが分かった。
「…前世で死に別れた初めての恋人が…私の大学時代の恋人でした」
数秒の逡巡の末、私は満を持して口を開いた。
「へぇ、面白いね。それで」
 先生がにゅっと八重歯を覗かせどこか妖しげな笑みを作って続きを促す。
「大学時代の恋人は、今は同僚なんですが……先生の催眠を受けて自分の前世を見てから、彼といると断片的に記憶が頭の中に流れ込んでくるんです。それで、自分の気持ちが変で…上手く説明出来ないんですけど」
「その恋人って、この間一緒に取材に来てた彼のこと?」
 図星を突いてくる魘夢先生に「はっ」と息を呑む。私の反応で全てを理解した様子の彼は、そうだねぇ、と呟き天井を仰いで少しだけ考える仕草を見せた。
「君も知ってると思うけど、退行催眠は一種の精神療法なんだよ。前世で体験したストーリーを知ることで現在のトラウマを和らげて人生を生きやすくする。だから、前世が今世に強い影響を及ぼすのは不思議なことじゃない」
「…そうですか」
 魘夢先生の言葉に、私は胸の空気を出すように呟いた。
「ま、個人差はあるけど。…人によっては退行催眠を受けたことで自ら命を断つ人もいるんだ。辛い前世を抱えている人は、逆にそれを思い出したことで症状が悪化して、生きていることに絶望してしまうんだよね。ふふ…君はどっちだろうね」
 魘夢先生が今までで一番妖しい笑みを浮かべる。その表情はまるで狂気に憑りつかれた殺人者のようで、背中の汗がさっと乾いた気がした。

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