交差する運命


 一階のエントランスに到着するも、まだ義勇くんの姿はなかった。会社の終業時刻を少し回っていたためか、会社の顔である見目麗しい受付嬢達は、既に帰宅した後だった。  
 がらんとしたエントランスに設置されているソファの一つに座り、はあっと短い吐息をつく。先ほどのキスの件もあり、出来れば今日は一人になって縺れた糸のように混乱した頭を整理したかったが、何故だか彼の申し出を断ることが出来なかった。
 義勇くんを待ちながら、ポケットのスマートフォンを取り出して画面を確認する。すると二回の着信履歴が目に飛び込んできた。いずれも恋人である杏寿郎の名前が表示されている。恋人は本日も出張のはずだ。なんだろう、と折り返そうか逡巡していた所で義勇くんの声が耳を打つ。
「――すまない。待ったか?」
「あ、ううん。私も今来たところだから全然平気。義勇くんこそ、大丈夫?私、一人で帰れるけど」
「問題ない」  
 義勇くんが間髪入れずに答えるので、私は慌てて鞄にスマートフォンを滑り込ませ、帰ろう、と目で促す彼の後を追う。杏寿郎からの着信が気にならなかったと言えば嘘になるが、なんだか義勇くんと二人きりの時に恋人に電話をすることが躊躇われた。ましてや義勇くんは元彼で、先ほどキスまでされてしまったのだ。冷静に考えれば、こんな状況は許されてはいけないはずだ。恋人がいること知りながら私の唇を奪った義勇くんの罪は重く、私に叩かれても文句は言えない。それを分かっているのに、どうして私は彼と帰路に着いたのだろう。
 少し先を歩く義勇くんに小走りで追いつくと、私達は肩を並べて駅までの道を歩く。今朝とは明らかに異なるどこか重苦しい空気に、私は息が詰まりそうだった。せめて義勇くんが底抜けに明るい性格であれば、と思った所で橋に差し掛かる。橋梁から見える川沿いの桜は今日一日でまた満開に近づいたようで、「綺麗」と思わず声が漏れた。
 その瞬間、穏やかな春の夜には似つかわしくない突風が吹き付けて、私の髪を靡かせる。「わっ」と色気のない声が溢れた時には、髪が義勇くんのシャツのボタンに絡まり、身動きが取れない状況になっていた。
「ご、ごめん…」
「動くな。……今外すから待て」
 無理やり頭を引こうとすると義勇くんの声が耳を擽り、想像以上の近距離に再び心臓が鼓動を速める。清潔感のある石鹸の香りが鼻先を掠め、思わずぎゅっと目を瞑った所で、義勇くんがぽつりぽつりと言葉を続ける。横を通り過ぎていく退社直後の会社員達の好奇な視線など、彼はまるで気にする様子はなかった。
「…名前を殺した後、ある少年に会った」
 義勇くんがキャンディさんに話した前世のエピソードの続きを口にしていることはすぐに分かった。先ほどは語られることがなかった、その続きを。
「…義勇くん?」
「前世の俺は、鬼は全て殺さなければならないと思っていた。…だが、その少年が人間と共存出来る鬼もいると証明してくれた」
 絡んだ髪をボタンから外してくれた義勇くんと、今度は視線が絡んだ。ガラス玉のような透き通った瞳にじっと見つめられれば、私は瞬きする余裕すらなかった。
「…名前を斬ったことを後悔していたようだ。……俺は名前を想って死んだ」
「義勇く…」
「名前。今度こそ守ると約束する。…俺は、名前が好きだ」
 義勇くんの真っ直ぐな言葉が胸を衝く。再び前世の記憶が頭の中に流れ込む。前世の彼も、こうやって率直な愛の言葉を口にしてくれた。今にも破裂するように心臓が鼓動した。この激しい動悸が歓喜のせいか悲哀のせいかは分からないが、私はゆっくりと頭を振った。
「…名前?」
「義勇くんの話を聞いて、私と同じ前世を見たんだって分かった。…でも、それが真実かどうかなんて分からない。義勇くんは…一時的にそういう気持ちになってるだけだよ」
「違う!俺は――」
「ごめんなさい。義勇くんの気持ちには答えられない…」
 義勇くんの言葉を遮って、私は興奮を抑えるように静かに言った。すると、私に倣うように声のトーンを落とした義勇くんの声が耳に滲む。
「……名前に、恋人がいるからか?」
「え…」
「名前は…何も思わなかったのか?」
 答えを考える間もなく、義勇くんのまるで詰問でもするような声が続く。何も思わないわけがなかった。私だって、義勇くんに何度胸を高鳴らせてしまったか分からない。
「…そうだよ。義勇くんの言う通り私には彼氏もいる。…仮に前世の記憶が本当なんだとしても、私達が生きているのは今なんだよ」
「…」
 義勇くんの瞳が翳る。身を裂いてしまいそうな沈黙を受け止めて義勇君を見れば、彼の唇が僅かに動く。しかし、言葉が形作られる前に私の鼓膜を打った声は、義勇くんのそれではなかった。
「名前?」
「…杏寿郎」
 出張中のはずの杏寿郎がどうしてここに、という表情を浮かべていたのだろう。私の恋人は説明するように言葉を続けた。
「客先のスケジュール調整が入ってな。何度か電話したのだが…」
「あ、ごめん。仕事で出られなくて。…後でかけ直そうと思ってたんだけど」
「いや、こちらこそ仕事中にすまなかった。出張帰りで名前の会社の近くを通ると伝えたかった…」
 杏寿郎が言葉を切って義勇くんに視線を移し、再び私に目を向ける。彼は誰だろう?といった様子だ。
「こ、この人は同僚の冨岡義勇くん。今一緒の企画を担当してて…。あ、義勇くんは胡蝶先生と高校の同窓なんだって!」
 自分でも上手く声の大きさを調整出来ていないことが分かった。義勇くんと二人きりでいる所を恋人にみられてしまった私は明らかに動揺している。きっと義勇くんがただの元彼であったのならばこんなに後ろめたい気持ちにはならなかっただろう。私はこの数日で杏寿郎に言えない秘密を背負いすぎていた。
「そうか、君が…。名前から話は聞いている」
 杏寿郎が、いかにも好印象の青年といった笑みを口元に浮かべて義勇くんに自己紹介を済ます。しかし義勇くんはパソコンがフリーズしてしまったかのように固まっていた。大きく見開かれた目には驚きの色が浮かんでいる。胡蝶先生という共通の知人がおり、義勇くんに恋人の話をしたことはあったが、二人は初対面のはずだった。
「…どこかで会ったことがあるだろうか?」
 うんともすんとも言わない義勇くんに杏寿郎が眉を顰める。義勇くんの妙な反応の訳は理解出来た。恐らく彼の脳内では前世の記憶が展開されたのであろう。自分の恋人の夫となった杏寿郎の姿を。
「義勇くん、私もう大丈夫だから!杏寿郎もいるし、もう心配しないで。じ、じゃあまた明日ね」
 気まずい空気を切り裂くように声を上げ、私は恋人の腕をとった。無理やり作った笑みを顔に貼り付けて、杏寿郎の腕を引く。一刻も早くこの居心地の悪い現場から立ち去りたかった。
「名前。良かったのか?」
 駅に到着し、ホームへと続く階段を下りながら杏寿郎が私に問う。その表情も声色もいつもと何ら変わらない恋人だった。私と義勇くんが一緒に居る所を見た彼は、何かを感じてくれたのだろうか。
「うん。全然大丈夫」
「心配しないでと言っていたが…」
「あぁ…うん。…実は昨日電車で痴漢にあっちゃって。たまたま乗り合わせてた義勇くんが助けてくれたんだよね。今日も気を遣って送ってくれるって言ってくれたんだけど」
「痴漢?…大丈夫だったか?」
 私の不意打ちの告白に、杏寿郎は大きな双眸を見開き心配そうな視線を注いでくれる。
「うん。ちょっと怖かったけど…もう大丈夫」
「そうか…俺に連絡をくれても良かったのだが。辛い時に傍にいてやれなくて済まなかったな」
 階段を全て降りきると、丁度ホームに電車が到着した所であった。私は恋人の謝罪に小さく頭を振って、帰宅中の会社員とOLで混雑する電車に乗り込む。痴漢事件の話を聞いたばかりだからなのか、車内での杏寿郎はさり気なく私を人の波からガードしてくれた。優しい恋人に、大丈夫か?と目で問われると、私の胸はずきりと痛んだ。

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